第32話 これ、俺の娘なんだけど
「課長、これ知ってます?」
休憩室で声をかけられ、榎本修司は湯呑みを持ったまま顔を上げた。向かいに座っていた若い社員が、スマートフォンをこちらへ向けている。
「何だ?」
「最近、めっちゃ流れてくるんですよ。これ」
画面の中で音楽が始まった。
白を基調に青を差した衣装の女の子が、一歩横へ踏み出す。肩を跳ねさせ、胸元へ寄せた手を、次の拍子で大きく外へひらいた。
修司は湯呑みを口へ運んだ。
「この振り付け、真似してる人が結構いて。海外の動画もあるらしいですよ」
「へえ」
お茶を飲む。別にアイドルへ興味があるわけではない。若い社員から流行の動画を見せられることも、ときどきあった。知らない歌手だったり、犬だったり、妙な失敗動画だったりする。そのたびに適当な感想を返している。
画面の女の子がくるりと回った。顔が正面を向く。
修司は飲みかけのお茶を吹いた。
「うわっ、課長!」
社員が慌ててスマートフォンを引く。修司は口元を押さえて咳き込んだ。
「悪い。ちょっと待て」
「大丈夫ですか?」
「今の、戻してくれ」
「え?」
「戻して。青いの」
社員は戸惑いながら動画を最初へ戻した。もう一度、青い衣装の女の子が出てくる。右へ一歩踏み出し、肩を返して腕を振る。そのまま顔を上げると、今度は正面からはっきり見えた。見間違えようがなかった。
「……いや」
「課長?」
修司は画面へ顔を近づけた。
「これ、誰なんだ?」
「誰って?」
「この青い子」
「ああ。天野まひるです」
「誰だよ」
「え?」
「天野まひるって誰だ」
聞かれた社員の方が困った顔になった。
「この子ですけど」
「いや、これ、ひよりだろ」
「ひより?」
「俺の娘」
数秒、誰も喋らなかった。隣のテーブルにいた社員までこちらを見る。修司はもう一度、画面の女の子を指した。
「……これ、俺の娘なんだけど」
「ええ!?」
休憩室で声が上がった。
「課長の娘さん、アイドルなんですか?」
「知らん」
「知らないんですか!?」
「今知ったんだよ!」
自分で言っていて意味が分からなかった。社員がもう一度、動画を見る。
「でも、名前違いますよ」
「だからそこなんだよ」
「あ、芸名じゃないですか?」
修司は黙った。
「芸名?」
「アイドルならあるんじゃないですか。天野まひるっていう」
言われてみれば、それくらいは分かる。ただ、娘に芸名があることを会社の若い社員に教えられるとは思わなかった。
「グループ名、何ていうんだ」
「リトルフレアです」
「リトル……フレア」
修司は自分のスマートフォンを取り出した。
「何て入れたら出る?」
「天野まひるで出ますよ」
検索欄へ、その名前を打ち込む。すぐに、動画や写真、SNSの投稿がいくつも出てきた。青い衣装の娘。違う衣装の娘。見知らぬ三人と並び、顔を寄せて笑っている写真まである。
一つ開いて少し見てから閉じ、別のものを開いた。そこにもまた娘がいる。
「……何本あるんだ、これ」
「ほかにも結構ありますね」
社員が横から覗き込んだ。修司は返事をしなかった。さっきまで知らなかった名前を検索すると、娘が次々に出てくる。そのことが、まだうまく頭に入ってこなかった。
*
「ちょっとこれ見ろ」
夕食のあと、修司は妻と息子の前へスマートフォンを置いた。香織が画面を覗き込む。隣から悠真も顔を寄せた。動画を再生する。青い衣装の女の子が踊り始めた。
「ひよりじゃない」
香織はすぐに言った。
「姉ちゃんじゃん」
悠真も言った。
「そうなんだよ」
修司は二人を見る。
「何でお前らそんな普通なんだ」
「だって、ひよりでしょ?」
「姉ちゃんだろ」
「そこじゃない」
修司は画面を指した。
「名前見ろ」
香織が表示を見る。
「天野まひる」
「誰だよ」
「ひよりでしょ」
「だから何で天野なんだよ!」
悠真が吹き出した。
「芸名じゃね?」
「それは会社で聞いた」
「会社で?」
「若いのに教えられた」
悠真がさらに笑う。
「父さん、娘の芸名、会社で教えてもらったの?」
「うるさい」
香織は修司からスマートフォンを取った。動画を最初から再生する。今度は途中で止めず、最後まで見た。
「本当にひよりだね」
「だからそう言ってるだろ」
「いつ撮ったんだろ」
「それも知らん」
「何で私に聞くのよ」
「母親だろ」
「父親でしょ」
横で悠真が自分のスマートフォンを操作していた。
「あ、これも姉ちゃん」
「何?」
「ライブの動画」
画面をこちらへ向ける。今度はステージだった。赤、黄、紫、青の四人が並んで踊っている。青が前へ出る。客席から声が飛んだ。
『まひるー!』
修司の眉が動いた。
「今、何て言った?」
「まひる」
「聞こえた」
修司は悠真のスマートフォンを取った。少し戻す。また青が前へ出る。
『まひるー!』
娘が客席へ手を振る。すぐに次の動きへ入り、隣の赤い衣装の女の子と位置を入れ替えた。
「……ちゃんとやってるじゃん」
悠真が言った。
「何が」
「アイドル」
修司は返事をせず、そのまま動画を最後まで見た。ひよりは家でも笑う。テレビを見て笑うし、悠真としょうもないことで言い合いもする。けれど、画面の中の笑い方は少し違った。
知らない人間へ向かって腕を伸ばす。客席から声が返ると、すぐにそちらを見る。次の動きへ入っても、また別の誰かを見つけて笑う。家では見たことのない娘なのに、そこにはずっと前から立っていたように見えた。
香織は公式ページを見つけていた。
「リトルフレア。これね」
四人の写真が並んでいる。瀬名リオ。水瀬ナツ。星川アン。天野まひる。その名前の横には、青担当と書かれていた。
「担当って何だ」
「色じゃない?」
香織が答える。
「青って書いてあるし」
「姉ちゃん青なんだ」
「それは見れば分かる」
修司は画面をスクロールした。ライブの告知や四人で撮った写真、短い動画が続いている。一つ二つではない。
「いつからやってるんだ」
「知らない」
香織が答えた。
「悠真」
「俺も知らん」
「一回も聞いてないのか?」
「父さんも聞いてないじゃん」
「そうだけど」
修司は黙った。三人とも知らなかった。ひよりはいつも通り仕事へ行き、帰ってきていた。休みの日に出かけることもあった。どこへ行くのか、いちいち聞いたことはない。帰りが遅ければ連絡しろとは言っていた。夕食が要らないなら言えとも言った。それだけだった。その間に、娘には別の名前ができていた。
「あ」
悠真が声を上げた。
「何だ」
「今週もライブある」
公式ページの予定を開いている。
「土曜」
「見せろ」
「ちょっと待って」
悠真が画面を読み、眉を上げた。
「……姉ちゃんの生誕祭だって」
「何だそれ」
修司がスマートフォンを覗き込む。告知の上に、大きく文字が出ていた。
『天野まひる初生誕祭』
青を基調にした告知画像には、笑っている娘の写真まで使われている。
「生誕祭って何だ」
「誕生日祝うやつじゃね?」
「やつって何だ」
「知らん。書いてあるし」
悠真が画面を下へ動かす。
「ライブで誕生日祝うみたい」
香織も覗き込んだ。
「ひより、今週で二十歳だよね」
「知ってる」
「じゃあ、これ、その誕生日?」
修司は答えず、告知をもう一度見た。天野まひる。初生誕祭。
「こんなのまでやるのか」
「やるんじゃない?」
「誰が祝うんだ」
悠真が父を見る。
「ファンじゃね?」
修司は黙った。さっき動画の中で「まひる」と叫んでいた声が浮かんだ。今週、その人たちがまた集まるらしい。娘の誕生日を祝うために。修司は画面から目を離した。
「聞く」
自分のスマートフォンを取る。
「今?」
香織が聞く。
「今だろ」
「何て?」
修司の指が止まった。
「何てって」
「電話して、最初に何て言うの?」
「お前、アイドルやってるのかって」
「やってるでしょ」
「そうだけど」
また止まった。いつからやっているのか。どうして黙っていたのか。仕事はどうしている。誰とやっている。どうして天野まひるなのか。生誕祭なんて、いつから決まっていたのか。聞きたいことはいくらでもあった。けれど最初の一言を考えると、どれも問い詰めているように聞こえた。
「怒ってんの?」
悠真が聞く。
「怒ってるっていうか……」
「その顔は怒ってる」
「隠されてたら気になるだろ」
「それは分かるけど」
悠真がスマートフォンへ目を戻す。香織も公式ページを見たままだった。修司は電話をかけず、スマートフォンをテーブルへ置いた。
「何で言わなかったんだ」
誰に聞かせるでもなく言った。
「それは本人に聞かないと分からないでしょ」
香織が答えた。
「聞こうとしてる」
「今じゃなくてもいいんじゃない?」
「じゃあいつ聞くんだ」
「一回、見てみたら?」
「何を」
「ひよりがやってるところ」
修司は妻を見る。
「動画なら今見ただろ」
「そうじゃなくて。実際に」
香織は悠真の画面を指した。
「隠してるなら、何か理由あるんじゃない?」
「だから聞くんだろ」
「何も知らないまま電話して、いきなりあれこれ聞くよりはいいんじゃない?」
修司は返事をしなかった。生誕祭の告知へ目を戻す。
「これ、誰でも行けるのか?」
「チケットあれば行けるんじゃない?」
悠真が答える。
「本人に言わずに?」
そこまで言って、修司は自分で引っかかった。娘が家族に言わずにアイドルをしている。そのライブへ、今度は家族が本人に言わずに行こうとしている。
「嫌がるだろうな」
「絶対嫌がる」
悠真が即答した。
「お前、分かってるなら嬉しそうにするな」
「姉ちゃん、父さん見つけたらどうするかな」
「だから、それを面白がるな」
「父さんも行きたそうじゃん」
「俺は――」
言い返しかけたところで、香織が口を挟んだ。
「三人で行けばいいじゃない」
「お前も来るのか」
「来ちゃ駄目なの?」
「そうじゃない」
修司は少し考えた。ひよりが嫌がる顔なら、簡単に想像できる。家へ帰ってきて、三人がライブを見たと知ったら、顔を真っ赤にして怒るだろう。それでも、自分たちは何も知らない。電話で全部聞く前に、一度くらい見た方がいい。
「……見てから聞くか」
修司が言う。悠真が顔を上げた。
「行くの?」
「お前も来るんだろ」
「いいの?」
「もうその顔で行かないって言う方が無理だろ」
悠真が笑った。香織も予定の画面を閉じる。修司は自分のスマートフォンへ目を戻した。検索欄には、まだ天野まひるの名前が残っている。見慣れた娘の顔の横に、今朝まで知らなかった名前が表示されていた。修司は画面を消した。
「……行くか」




