幕間① いつも見てます
大阪から戻って、年が変わった。水曜になれば練習へ行き、金曜にも集まった。週末にはライブハウスへ入り、終われば物販に立つ。一月は、そうやって過ぎた。
会社から練習場へ向かう夜はずっと寒くて、ひよりはコートのポケットに両手を突っ込んで歩く癖がついた。
二月に入ったある土曜日。いつものライブハウスへ降りる階段の途中で、ひよりは足を止めた。
壁には赤やピンクの大きなハートが貼られ、その横に、リボンをつけたチョコレートの絵まであった。
「この店、バレンタインもやるんだ」
「うちらがやるんだよ。今日はチョコ付き」
後ろから来たアンがひよりを追い越した。ひよりは一段下りてから、その背中を呼び止める。
「配るの、私たち?」
「作る方じゃなくてよかったね」
「それなら先に言ってよ」
アンが階段の下からスマートフォンを振った。
「昨日、ポーズの写真まで送ったんだけど」
言われて、ひよりはスマートフォンを出した。未読が十六件あった。
上から確認する。レイから今日の集合時間。ナツから了解という返事。アンからバレンタイン用の撮影ポーズ候補が三枚。リオが、そのうち一枚に、
――これかわいい。
と返している。その下にはレイから、
――明日なんだからちゃんと読んで。
ひよりは画面を閉じた。
「……今、読みました」
「遅いから」
*
楽屋の机には、小さな袋に入ったチョコレートが積まれていた。袋には猫、熊、兎、犬の絵が描かれている。中身は全部同じらしい。
アンは鏡の前で唇を塗り直していた。ナツが横から覗く。
「それ、新しい?」
「うん」
「また買ったの?」
「またって何」
「バイク貯金」
アンの手が止まった。
「これくらいいいでしょ」
「先月も聞いた気がする、それ」
「ナツだって酒買うじゃん」
「それは必要経費」
「何の?」
ナツが答える前に、机の反対側からリオの声がした。
「こっちの方がかわいい」
見ると、リオが猫、熊、兎、犬の描かれたチョコの袋を、一つずつ並べていた。そのうち兎だけが、リオの近くへ寄せられている。
アンが眉を上げる。
「何してんの」
「別に」
「兎だけ取ってるじゃん」
「絵見てただけ」
「それファンに配るやつなんだけど」
「分かってる」
「じゃあ戻して」
リオは少し黙ってから、何個か戻した。一個だけ残っている。ひよりが覗き込んだ。
「リオ、兎好きなの?」
「普通」
「普通って何」
「かわいいとは思うけど」
「じゃあ好きじゃん」
「好きっていうほどじゃない」
言いながら、残った一個は戻さなかった。
アンが鼻で笑う。
「それ、余ったら持って帰る気でしょ」
「余ったらね」
「余らせないでよ」
その横で、ひよりは油性ペンを手に取った。
「今日、何書けばいいの?」
アンが鏡越しに見る。
「好きに書けば?」
「だから、それが分かんない」
「『いつもありがとう』とか」
「全員それ?」
「変えたきゃ変えればいいじゃん」
「でも一人ずつ考えてたら、時間なくならない?」
「人生相談でも書く気?」
「そこまで書かないよ」
「じゃあ普通でいいじゃん」
ひよりはペン先を見た。
「今日来てくれた人ですよね、とか」
「全員そうじゃん」
「じゃあ、前も来てましたよね、とか」
「覚えてるならいいんじゃない?」
「覚えてる」
即答すると、アンが少しだけこちらを向いた。
「結構いるよ?」
「うん」
「全員?」
「全員じゃないけど」
青いペンライトを持つ人。柱の横によくいる人。腕をやたら大きく振る人。サビへ入る前から動き始める人。考えていると、アンが言った。
「……何その顔」
「わりと覚えてるなと思って」
「怖」
「なんで?」
*
赤、黄、紫、青の衣装でステージへ出ると、もう何度も見た顔が客席にあった。眼鏡の男は今日も青を持ち、少し離れたところにはタンクトップの男や、鉢巻きを巻いた古参もいる。
ナツの前へよく来る女性が振る黄色の近くには、紫もあった。その間に、ひよりの知らない顔も混じっている。
「もっといけるー?」
アンが客席へ声を投げる。
「いけるー!」
タンクトップの男が真っ先に叫んだ。その後ろからも声が返る。
ひよりは笑いながら腕を伸ばした。前列の青が返る。少し後ろでは、別の客が一拍遅れて真似をする。次の振りへ入る直前、ひよりはそちらへ指を向けた。客が自分のことかと胸を指す。ひよりが頷くと、慌ててもう一度腕を上げた。曲はそのまま進んだ。
*
「今日寒かったね」
物販が始まると、ナツは黄色の女性ともう普通に話していた。
「寒かったです。外で待ってるときやばかった」
「手、冷たそう」
「ナツちゃんもじゃないですか」
「私は踊ったから暑い」
ナツがチョコの箱を見る。
「どれがいい?」
「選べるんですか?」
「今なら」
「じゃあ猫」
「はい、猫」
ナツが差し出したところで、隣から声が飛んだ。
「猫、減らしすぎないで」
リオだった。
「何でリオが管理してんの」
「別に管理してないけど」
「してるじゃん」
黄色の女性が笑いながらチョコを受け取る。
「来週は仕事なんで来れないです」
「そっか」
「その次は行きます」
「じゃあ、その次ね」
ナツはもう次の客へ顔を向けた。その隣では、リオが赤いペンライトを鞄へしまう客に聞かれていた。
「今日、二番のところ変えました?」
「分かった?」
「前よりリオちゃんが前に出てた気がして」
「そう。前まで半歩後ろだったんだけど、今日から――」
「リオ」
さらに隣からアンが呼ぶ。
「何?」
「今日バレンタインだからね」
「知ってるよ」
「振付講座じゃないから」
「聞かれたから答えてるだけじゃん」
そう言いながらも、リオはまだ説明を続けようとしている。アンは自分の客へ向き直った。
「もうちょいこっち」
「こっち?」
「行きすぎ。戻って」
「難しいな」
「何でそれで難しいの」
「アンちゃん細かいんだよ」
「写真残るんだからちゃんとしなよ」
アンも隣へ入り、二人でハートを作る。
「手もうちょい上」
「これ?」
「違う。貸して」
「手は貸せないよ」
アンが止まった。
「……そっか」
「そこ今気づく?」
「うるさい」
客が吹き出したところで、レイがシャッターを切った。吐き出されたチェキを受け取り、少しずつ浮かんでくる写真を二人で覗き込む。
「これいいじゃん」
「あ、ほんとだ」
「でしょ」
「アンちゃん、こういうの上手いよね」
「知ってる」
アンは即答し、チョコを一つ渡した。
「はい」
「ありがとう」
「次」
「早っ」
「後ろいるから」
アンの列から笑いが起きる。一方、リオの前では、さっきの客が出来上がったチェキを見ていた。
「リオちゃん、こういうハート描くんですね」
リオの手が止まる。
「……普通じゃない?」
「もっとシンプルかと思ってました」
「そう?」
顔は平然としている。耳だけ少し赤い。それを見つけたアンが言う。
「かわいいの好きだもんね」
「アン」
「はいはい」
「余計なこと言わないで」
ナツが横で笑っている。四人分の机は離れていない。誰かの話は、大体ほかの三人にも聞こえていた。
*
「お願いします」
眼鏡の男が、ひよりの前へ来た。
「あ」
「え?」
ひよりは手元を見る。
「今日も青ですね」
男も自分のペンライトを見た。
「まあ……はい」
「ずっと青ですよね」
「まひるちゃん推しなので」
「あ、ありがとうございます」
並んでチェキを撮ることになった。
「ハートでいいですか?」
「はい」
男が両腕を上げる。
「ちょっと待って」
「え?」
「こっち高い」
ひよりは片方の腕を指した。
「あ」
「もうちょい下」
「このくらい?」
「そこ」
シャッターが切られた。ひよりは受け取ったチェキの余白へ日付と名前を書く。白かった写真に少しずつ色が出てくる。
「今日はちゃんとしてる」
「今日は?」
「最初のとき、ハート傾いてたから」
眼鏡の男が止まった。
「……覚えてるんですか」
「覚えてますよ」
ひよりはもう一言、何か書こうとしてペンを止めた。迷ってから、短く書く。男へ渡す。
「はい」
「ありがとうございます」
受け取った男が読む。
「……いつも見てます?」
「はい」
「それ、こっちが言うやつじゃないですか?」
「なんで?」
「僕がまひるちゃん見てるんで」
「私も見てますよ」
「え?」
ひよりは客席の方を指した。
「最初の日から青だったし」
「はい」
「この前、後ろの柱の横にいましたよね」
「……はい」
「その前は、もう少し右」
男の顔が変わった。隣からアンが口を挟む。
「怖い怖い」
「何が!?」
「監視みたいになってる」
「してないよ!」
「今の説明だけ聞いたらしてるから」
「客席見てるだけじゃん」
眼鏡の男は、チェキを見ながら笑っていた。
「でも、嬉しいです」
ひよりがそちらを見る。
「何が?」
「覚えてもらえてたの」
「ああ」
そういうものなのか。ひよりは少し考えてから頷いた。
「じゃあ、また見ます」
「それ、やっぱりちょっと怖いです」
「なんで!」
後ろで待っていた客まで笑った。
*
「箱推しだから四つ!」
タンクトップの男の声が物販スペースへ響いた。アンが顔をしかめる。
「声でかい」
「今日は四人分撮る!」
「いつもじゃん」
「今日はチョコも四つ!」
ナツが一つ渡す。
「帰ってから、ゆっくり食べてね」
「今食べたい!」
袋へ指を掛けた男を見て、隣のリオが真顔になった。
「先に写真撮ろう。まだ私のところ来てないでしょ」
「一個くらいなら大丈夫じゃない?」
ひよりが言う。アンが即座にこちらを見る。
「勧めんな」
「小さいじゃん」
「口もぐもぐさせたまま撮るの?」
「じゃあ、撮ってから?」
「何でここで食べる前提なの」
タンクトップの男は、もう袋を開けようとしている。
「ここで食べない!」
レイの声が飛んだ。
「後ろ詰まってるから!」
「はーい!」
「あと声!」
*
物販が終わると、レイが残ったチョコの箱を持ち上げた。
「スタッフ分も取ってあるから、欲しいなら一個ずつどうぞ」
真っ先に伸びたリオの手が、兎を取った。アンがその袋を指さす。
「ほら!」
「何」
「やっぱりそれ狙ってたじゃん」
「今残ってたから取っただけ」
「朝から取ってたでしょ」
「戻したじゃん」
「一個残してた」
「たまたま」
リオは袋を開けた。
「中身一緒だから」
「じゃあ犬と交換して」
「嫌」
「ほら!」
ナツが笑いながら猫を取った。アンは犬。ひよりは残っていた熊を手にした。
「私、熊なんだ」
「嫌なの?」
「別に」
袋を開けようとしたところで、アンのスマートフォンが震えた。画面を見たアンの手が止まる。ほんの一瞬だった。すぐに親指を動かす。
「誰?」
ひよりが聞く。
「父」
「何て?」
「晩飯いるかって」
「いるの?」
「いる」
アンは短く返し、スマートフォンをポケットへ戻した。
「帰ったら食べる」
「その前にチョコ?」
「一個だし」
ナツが言う。
「タンクトップくんも、ここで食べる気だったね」
「もう物販終わったからいいの」
アンは犬の袋を開けた。それ以上、誰も聞かなかった。
*
片付けを終え、四人で外へ出た。地下から階段を上がった途端、冷たい風が顔に当たる。
「寒っ」
アンがコートの前を閉じた。ナツはマフラーへ顎を埋める。リオは両手をポケットへ入れた。兎の袋だけは、捨てずに持っている。駅へ向かって歩き出したところで、ひよりは思い出した。
「ねえ」
「何?」
アンが振り返る。
「『いつも見てます』って、そんな変?」
「まだ言ってんの?」
「普通じゃない?」
「普通じゃない」
ナツも笑う。
「ちょっと怖いかな」
「ナツさんまで?」
「言い方だよ」
「でも見てるし」
「それをそのまま本人に書くからでしょ」
ひよりは納得できず、リオを見る。
「リオは?」
「私は嬉しい」
「ほら」
アンが即座に言った。
「リオは参考にならない」
「なんで!?」
「まひる相手だと何でもいいじゃん」
「何でもよくない!」
「じゃあ、まひるに『いつも見てます』って書かれたら?」
リオが一瞬黙った。
「……嬉しいけど」
「ほら!」
「それとこれは違うでしょ!」
「何が違うの?」
ひよりまで聞く。
「だから違うって!」
ナツが声を上げて笑った。アンも笑っている。リオは二人へ言い返しながら、駅の方へ歩いていく。ひよりはその横へ追いついた。
「で、何が違うの?」
「まひるまで聞かないで!」
冷たい夜道に、また三人の笑い声が重なった。




