第31話 普通だった
母親が紹介しようとしたところで、男の方が先に頭を下げた。
「初めまして」
アンも少し遅れて頭を下げる。
「……どうも」
男はそれ以上、何も言わなかった。もっと何かあると思っていた。母親から話は聞いているとか、よろしくとか。けれど男は、アンと母親を交互に見ただけだった。
「アン、ご飯ちょっと食べるって」
母親が言う。
「ちょっとだけね」
「分かってるって。座ってて」
母親が台所へ戻った。男もその後ろへついていく。
「麦茶でいい?」
アンに聞いた。
「はい」
「コップそこ」
母親が振り向かずに言う。
「分かってる」
男は棚を開けた。アンは椅子へ座った。テーブルには二つのマグカップが置かれている。ソファの背には男物らしい上着が掛かり、テレビの横にはゲーム機があった。棚の端には、小さなクリスマスリースが立てかけられている。どれも、アンが来たから用意された物ではない。母親が冷蔵庫を開ける。奥に、小さなケーキの箱が見えた。
「ご飯、これくらい?」
「多い」
「じゃあ減らす」
「それくらいなら食べる」
「どっち」
アンは少し笑った。
「それでいい」
男が冷蔵庫を覗く。
「牛乳ないんだけど」
「朝なくなった。明日お願い」
「分かった」
男は冷蔵庫を閉め、アンの前へ麦茶を置いた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
それだけ言って、自分の席へ戻る。母親が温めた皿を持ってきた。
「熱いから気をつけて」
「子供じゃないんだけど」
「知ってる」
アンは箸を取った。
*
「大阪どうだった?」
食べ始めて少しすると、母親が聞いた。
「何が」
「ライブ」
「最初からそう言って」
「他にないでしょ」
アンは一口食べた。
「うちら目当て、三人だった」
母親の手が止まる。
「三人?」
「会場に三人しかいなかったわけじゃないよ。他のグループの客はいたから」
「ああ」
「初大阪だったし」
「そっか」
「次増やせばいいから」
アンはまた箸を動かした。母親は、かわいそうとも、大変だとも言わなかった。それは少し助かった。
「でも動画は見たよ」
母親が言った。アンが顔を上げる。
「どれ?」
「四人で踊ってるの」
「いっぱいあるけど」
「紫がアンでしょ?」
「そこは合ってる」
「ちゃんと見てるって」
「じゃあ曲は?」
母親が黙った。
「ほら」
「曲の名前までは覚えてないよ」
「見てないじゃん」
「見たって」
母親が笑う。
「でも、あんたカメラ向いたら顔変わるね」
アンの箸が止まった。
「変えてんの」
「昔からじゃない?」
「昔?」
「写真撮るときだけ、急にちゃんとした顔してた」
「一緒にしないでよ」
「違うの?」
「全然違うし」
言いながら、アンも少し笑った。母親は覚えていた。自分でも忘れているような昔のことを。
「ライブって、月に何回くらいやってるの?」
母親が聞いた。
「月?」
「うん」
「だいたい毎週」
「毎週?」
母親が驚いた顔をした。
「そんなにやってるの?」
「前から」
「あ、そうなんだ」
「うん」
一瞬だけ、会話が止まった。アンは残っていたご飯を口へ運んだ。動画は見ていたし、紫が自分だということも知っていた。自分でも忘れていたような、写真を撮るときの癖まで覚えている。それでも、毎週ステージへ立っていることは知らなかった。
「学校もあるんでしょ?」
「あるよ」
「大変じゃない?」
「別に。やってるし」
「そっか」
母親はそれ以上聞かなかった。男が食べ終わった皿を持ち上げる。
「置いといていいよ」
「俺のもあるから洗うよ」
「じゃあお願い」
男は二枚の皿を重ね、台所へ持っていった。水道の音がする。アンは麦茶を飲んだ。
「お父さん、元気?」
母親が聞いた。アンはコップを置く。
「変わんない」
「そっか」
それだけだった。母親は父親のことを悪く言わなかった。アンも何もつけ足さなかった。
*
時計を見ると、ホテルへ戻るにはちょうどいい時間になっていた。
「そろそろ帰る」
アンが立ち上がる。
「もう?」
「遅くなるとナツうるさいから」
「ナツちゃん?」
「黄色」
「ああ」
母親も立った。
「ホテル、遠くない?」
「大丈夫」
「着いたら連絡して」
「ナツと同じこと言ってる」
「そりゃ心配するでしょ」
アンは鞄を肩へ掛けた。男も台所から顔を出す。
「もう帰る?」
「はい」
「気をつけて」
「どうも」
母親と一緒に玄関へ向かう。アンは自分のスニーカーを取った。紐を結んで立ち上がると、母親の靴の横には、来たときに見つけた大きなスニーカーと革靴が残っていた。
「また大阪来たら寄ってよ」
母親が言った。アンは顔を上げた。
「うん」
「今度はもうちょっと早く来て」
「仕事だから分かんない」
「じゃあ来られるときでいい」
「うん」
母親がドアを開けた。
「じゃあね」
「うん」
アンは廊下へ出た。数歩進んでから振り返る。母親はまだ玄関に立っていた。アンが片手を上げると、母親も上げ返した。
「またね」
アンは今度は答えず、手だけをもう一度上げた。ドアが閉まる。廊下が静かになった。エレベーターを待ちながら、アンはスマートフォンを出した。新しい連絡はない。ナツに、
――今から戻る。
とだけ送った。すぐに既読がつく。
――了解。
アンは画面を消した。エレベーターが来る。中へ入り、閉じるボタンを押した。鏡に自分が映った。来たときには直した髪を、今度はそのままにした。
*
建物を出ると、夜の空気が冷たかった。上着の前を閉じて駅へ向かう。通りの向こうでは、白い電飾がまだ点いていた。買い物袋を持った人たちが、その下を何人も通っていく。アンも信号が変わるのを待ち、人の流れに混じった。
*
ホテルへ戻ると、ロビーのソファにナツがいた。スマートフォンを見ながら、ペットボトルの水を飲んでいる。アンに気づいて顔を上げた。
「おかえり」
「ただいま」
「会えた?」
「うん」
ナツはペットボトルの蓋を閉めた。
「どうだった?」
アンはすぐには答えなかった。母親は笑っていて、自分でも忘れていた昔のことを覚えていた。男は皿を洗い、明日は牛乳を買うらしい。玄関には、二人の靴が残っていた。
「普通だった」
ナツはアンの顔を少し見た。
「そっか」




