第30話 用事あるから
鉄板の上で、お好み焼きがじゅう、と音を立てていた。
「触らないで」
レイが言った。伸ばしかけていたひよりの手が止まる。
「まだ何もしてないです」
「今ひっくり返そうとしたでしょ」
「裏を見ようとしただけです」
「焼けたら見えるから待ちなさい」
向かいに座った航平が笑った。
「お前、そんな仕切るタイプだったっけ」
レイの顔がそちらへ向く。
「東京戻ってから、こういう役回り増えたのよ」
「それ、俺は関係ないだろ」
「あるわよ」
「何が?」
「何かあるのよ!」
「雑だなあ」
ナツは口元を手で隠したが、笑い声が漏れた。リオは笑いながらも、自分たちの鉄板が気になるらしく、何度もそちらを見ていた。
「これ、本当に触らなくていいんですか」
「リオまで何なのよ。店の人が焼いてくれるって言ったでしょ」
「さっきから焦げてる匂いするから」
「ソースよ!」
レイが二人分まとめて答える。
ひよりが足元へ目を落とすと、リオの椅子の横に透明な袋が置いてあった。中には、小さなカワウソのぬいぐるみが入っている。店へ来る途中、リオがゲームセンターから抱えてきたものだった。
「それ、いくらかかったの?」
リオは答えなかった。
「二千八百円」
代わりにナツが言った。
「ナツ」
「だって途中で両替頼まれたし」
ひよりは袋の中のカワウソを見る。首を少し傾けた顔で、こちらを見ていた。
「それ、普通に買った方が――」
「まひる」
リオの声が低くなる。
「それは言わないで」
「まだ最後まで言ってないよ」
「分かるから」
ひよりは口を閉じた。向かいの航平が吹き出す。
「何?」
リオがそちらを見る。
「いや。真面目そうなのに、そういうのやるんだな」
「かわいかったから」
「二千八百円かけるほど?」
「もうこの話終わり」
リオは水を飲んだ。ナツが肩を揺らしている。
アメリカ村RIFTを出てから、ずっとこんな調子だった。航平を見つけたときには本気で怒っていたレイも、店へ入るころには席を決め、荷物を邪魔にならないところへ押し込み、注文が足りないと言って追加までしていた。
航平がコップを置く。
「でも、お前、ほんとにマネージャーやってんだな」
「見れば分かるでしょ」
「東京戻って、またアイドルやってると思ってた」
レイが答えるより先に、ひよりが言った。
「戻ろうとはしてましたよ」
「まひる!」
「え、駄目でした?」
「本人いるところで言う?」
「本人の話ですよね」
「そうだけど!」
航平が吹き出した。
「やっぱ戻ろうとしてたんだ」
「一瞬よ。一瞬」
「で、マネージャーになった?」
「気づいたらね」
航平はレイを少し見た。
「そっちの方が向いてるんじゃない?」
「何が」
「マネージャー」
レイが黙った。ひよりもレイを見る。
「私もそう思います」
「……まあ?」
レイが髪を耳へかけた。
「でしょ?」
「今のでそこまで乗る?」
「何よ。コーヘイが言ったんでしょ」
「向いてるって言っただけ」
「十分じゃない」
ナツが鉄板の向こうで吹き出した。
「レイ、ほんと褒めると早いね」
「事実を受け入れてるだけよ」
「五秒前まで『何が』って言ってたけど」
「うるさい」
航平も笑っていた。レイはその顔を見ても、もう「芸人は?」とは言わなかった。店員が鉄板へ近づいてくる。
「焼けましたので、切りますね」
「お願いします」
レイの声が一瞬で外向けのものに変わった。ナツがまた笑った。
「何よ」
「切り替え早いなって」
「店員さんに怒鳴るわけないでしょ」
四つに切られたお好み焼きから湯気が上がった。ひよりが一切れ取ろうとして、すぐ手を引く。
「熱っ」
「当たり前でしょ!」
レイの声が戻った。
*
駅を出ると、アンはコートの前を閉めた。スマートフォンの地図を開く。画面を持つ右手だけが冷たかった。さっきまでいたアメリカ村の人混みも、会場のツリーも、もうここからは見えない。
駅から少し歩いた住宅街で、アンは地図を閉じた。目当ての建物を見上げる。普通のマンションだった。明るいエントランスの奥に郵便受けが並び、仕事帰りらしい女性がアンの横を通って中へ入った。アンも少し遅れて、その入口を抜けた。
エレベーターの鏡に自分が映った。紫の衣装も髪飾りも、もう身につけていない。ライブ用のメイクも落としていた。髪を手ぐしで直すと、根元だけ少し固かった。何度かスプレーをかけられたせいだ。アンは前髪を指で整え、鏡を見る。もう一度触りかけて、やめた。
何直してんだろ。
階数表示が一つずつ上がっていく。
スマートフォンが震えた。ナツからだった。
――着いた?
アンは画面を見る。
――もうすぐ。
それだけ返した。すぐ既読になった。追加のメッセージは来なかった。アンはスマートフォンをコートのポケットへ入れる。
エレベーターを降りると、人の声はせず、遠くで車の走る音だけが聞こえた。部屋番号を追っていたアンの足が、目的の部屋を見つけたところで少し遅くなる。インターホンの前まで来て、止まった。
スマートフォンには、会場を出たあとに母親から届いた短いメッセージが残っている。今日、大丈夫だよ。アンは一度だけ画面を見て、消した。呼び出しボタンを押す。少し待った。
「はい」
聞き慣れていたはずの声が、機械を通して聞こえた。アンは一度口を閉じた。
「……私」
向こうも一瞬黙った。
「あ、アン?」
「うん」
「今開ける」
通話が切れた。中で鍵の音がした。アンは鞄の持ち手を握り直した。
ドアが開いた。母親が立っていた。髪は、記憶より短くなっていた。それ以外は、思っていたほど変わっていない。母親もアンを見る。
「久しぶり」
「うん」
「髪、伸びた?」
「そっちが短くなったんでしょ」
「あ、そうか」
母親が自分の髪に触れた。アンは少しだけ口元を緩めた。
「入って」
母親が身体をずらす。アンは玄関へ入った。靴を脱ごうとして、手が止まる。母親の靴の横に、大きなスニーカーと革靴が揃えてあった。
男がいることは聞いていた。靴の大きさまでは知らなかった。
「そこ、置いていいよ」
母親が空いている場所を指す。
「うん」
アンは自分のスニーカーを置いた。少し斜めになった。つま先で直す。母親はもう廊下を歩いていた。
「ライブだったんでしょ?」
「うん」
「疲れた?」
「別に」
「お腹は?」
「……ちょっと減った」
「何かあるよ」
「あとでいい」
「そう?」
会話はそこで途切れた。アンは母親の後ろを歩いた。知らない家のはずなのに、前を歩く背中だけは知っている。
リビングへ入る手前で、奥から物音がした。アンの足が止まった。母親も振り返る。
「あ」
部屋の奥から、男が出てきた。アンよりずっと背が高い。初めて見る顔だった。男もアンに気づき、足を止める。母親が二人を見比べた。
「前に話した――」
アンは、男を見た。




