第29話 芸人は?
アメリカ村RIFTの物販スペースで、レイは男の正面まで歩いていった。
「何で、あんたがここにいんのよ」
「ライブ見に来た」
「そうじゃなくて」
レイの眉間に皺が寄る。
「大阪で何してんのって聞いてんの」
「大阪に住んでる」
「それは知ってるわよ!」
声が物販の端まで響いた。近くにいた客が何人か振り返る。レイもそちらを見たが、声を落としたのはほんの少しだった。
「久しぶり」
「久しぶりじゃないのよ」
「いや、久しぶりだろ」
「誰のせいで私が東京戻ったと思ってんの?」
「いきなりそこまで言う?」
「他に何から始めろっていうのよ」
ひよりは隣のアンへ顔を寄せた。
「あの人、誰?」
「元彼」
「この人が?」
「そう」
男と目が合った。
「あ、どうも。三上航平です」
「どうも、三上さん」
ひよりが頭を下げると、ナツたちも「三上さん」と声をかけた。航平は軽く頭を下げ返す。
「航平でいいよ。みんなも」
レイが勢いよく振り返る。
「何で普通に挨拶してんのよ!」
「初対面だから」
「今そこじゃないでしょ!」
「じゃあ、いつ挨拶すればいいんですか」
「知らないわよ!」
ナツが顔を背けた。肩が揺れている。
「ナツ、笑ってるでしょ」
「まだ笑ってない」
「肩!」
「これはちょっと無理」
「何がよ!」
航平まで笑った。その顔を見たレイが、また航平へ向き直る。何かを思い出したらしく、急に口を閉じた。
「コーヘイ」
「何」
レイは腰へ手を当てた。
「で、芸人は?」
航平の笑顔が消えた。ひよりにも、その言葉は覚えがあった。レイが大阪へ行く理由だった。航平は視線を逸らした。
「……まだ考えてる」
「まだ!?」
レイの声が一段上がった。
「考えてるって」
「前も考えてたでしょうが!」
「ネタはある」
「やったの?」
「まだ」
「やれ!」
アンが吹き出した。
「聞いてたまんまじゃん」
航平がアンを見る。
「俺のこと何て聞いてるの?」
「ゲーム、パチンコ、競馬」
「それだけ聞いたら終わってるじゃん」
「違うの?」
「今は毎週じゃない」
「基準そこなの!?」
レイが額を押さえた。ひよりは航平を見る。
「競馬はまだ行くんですね」
「行くよ」
「まひる、そこ広げなくていい!」
「気になったから」
「今は芸人!」
リオまで顔を逸らしていた。航平は困ったように笑う。
「別に諦めたわけじゃないって」
レイの声が少しだけ下がった。
「だったら、やればいいじゃん」
航平が黙る。
「やって、滑って、それで駄目だったら考えればいいでしょ」
レイは航平をまっすぐ見た。
「コーヘイ、まだ一回も駄目になってないのよ」
「……うん」
「何にもやってないから」
今度は誰も笑わなかった。すぐ近くでは別のグループが客とチェキを撮っていた。楽しそうな声だけが、途切れずに聞こえてくる。航平は足元を見た。レイは少し待ったが、それ以上は何も言わなかった。
「もういい」
「いいの?」
「今はね」
「今はって何だよ」
「それより」
レイが航平の胸元を指した。
「ほんとに何で今日ここにいるの?」
「だからライブ」
「誰の?」
「リトルフレア」
「私に会いに?」
「今、お前ステージ立ってないだろ」
「そこはちょっと迷いなさいよ!」
ナツがとうとう声を上げて笑った。
「ほんとにライブ見に来ただけだから」
レイはまだ疑っている。
「今日、うち目当てで入ったの?」
「そうだけど」
ひよりも航平を見る。
「じゃあ、航平も三人の一人?」
「三人?」
「今日、リトルフレア目当てのお客さん、三人だったんです」
「ああ」
航平は少し考えた。
「受付でリトルフレアって答えたから、その一人じゃない?」
楽屋で聞いた「三人」が、ひよりの頭へ戻ってきた。そのうちの一人が、目の前に立っている。
「何で?」
レイがまだ聞く。
「何が」
「コーヘイ、そんなにうち見てた?」
「見てたよ」
「いつから?」
「東京にいた頃から」
「それ、私がいたからでしょ」
「最初はな」
航平は四人を見た。
「大阪来てからも動画は見てるし」
アンがすぐ反応した。
「シュガー・ステップも?」
「見た」
「どれ?」
「最初に青い子が踊ってたやつ」
ひよりは自分を指した。
「私?」
「天野まひるでしょ」
「あ、名前も知ってる」
「そりゃ知ってるよ」
大阪で、自分の名前が何の説明もなく通じた。ひよりは思わず笑った。アンが続ける。
「四人のも?」
「見るよ」
「へえ」
「何、その反応」
「別に」
アンはそう言ったが、口元が少し緩んでいた。ひよりはそれ以上、何も言わなかった。レイだけは別のところが気になったらしい。
「じゃあ、さっきリオのところ並んでたのは?」
リオが顔を上げた。
「何でそこで私を見るの」
「だって並んでたじゃん」
「私は何も知らない」
航平が答えた。
「今日はリオと撮った」
レイの口が少し開く。
「……私じゃなく?」
「お前、物販やってないだろ」
「分かってるわよ!」
「じゃあ何なんだよ」
「何か腹立つのよ!」
「理不尽だろ」
「うるさい!」
ひよりは吹き出した。すぐレイがこちらを見る。
「笑ったでしょ」
「だって、リオと撮ったら駄目なんですか」
「駄目なんて言ってないわよ。リオはいいの!」
レイの声でリオまで顔を上げた。ひよりは唇を噛んで笑いをこらえたが、航平が気まずそうにリオへ会釈したところで、また吹き出した。
そのとき、会場スタッフが物販スペースへ顔を出した。
「すみません、あと五分でお願いします」
「はい!」
レイの声が変わった。航平から離れ、机の上へ目を走らせる。
「あと五分! まだ並んでる人から先ね。チェキ受け取ってない人いないか確認して!」
散っていたペンを集め、空になった袋をまとめる。
「アン、あと何人?」
「二人」
「リオ?」
「一人」
「ナツとまひる、終わったら片づけ始めて。ゴミこっち」
「はーい」
ナツが返事をする。
「まひる、それ渡したらテーブル空けて」
「はい」
「アン、次!」
「はいはい」
「はいは一回!」
「分かったって!」
アンが少しむっとした顔で客の前へ戻った。航平は邪魔にならないよう、壁際まで下がった。レイはもう航平を見なかった。客の列を確認し、会場スタッフへ手を上げ、空いた場所を片づける。誰かが何か聞くたび、すぐに答えが返った。
壁際から、航平がその様子を見ていた。何も言わなかった。
*
着替えと片づけを終えてRIFTを出ると、冷たい空気が一気に首元へ入ってきた。
「寒っ」
ひよりが肩を縮める。
「だから先にコート着なって言ったじゃん」
ナツに言われ、鞄から出しかけていたコートへ慌てて腕を通した。アメリカ村にはまだ人が多い。冬物の上着を着た人たちが行き交い、店先の赤や緑の明かりが夜道へこぼれていた。少し離れたところでは、クリスマスツリーを背景に写真を撮っている人もいる。大阪まで来たのに、新大阪駅とライブハウスくらいしか見ていない。
「何食べる?」
ナツが聞いた。
「大阪っぽいやつ」
ひよりが答える。
「広すぎない?」
「粉もの?」
「もっと広がったじゃん」
後ろから航平がついてきた。レイが振り返る。
「何でいるの?」
「もう帰っていいの?」
「待ちなさい」
「どっちだよ」
航平が足を止める。レイは当然のように言った。
「ご飯行くから」
「俺も?」
「まだ話終わってない」
「何の」
「芸人」
「まだやるの?」
「やるわよ」
ナツが笑った。
「航平にも一緒に来てもらえば?」
「そのつもり」
「俺の予定は?」
「あるの?」
「ない」
「じゃあいいじゃない」
「勝手だなあ」
航平はそう言いながら、帰ろうとはしなかった。
「佐伯さんみたいですね」
ひよりが言う。
レイがこちらを見る。
「何が?」
「人の予定、勝手に決めるところ」
「一緒にしないで!」
「でも今、同じことしてましたよ」
「コーヘイが暇なのが悪いの!」
「暇って言うなよ」
「じゃあ芸人やりなさいよ!」
「また戻った」
アンが言った。ひよりが吹き出すと、アンと目が合った。アンも少しだけ笑った。先に目を逸らしたのはアンだった。
「アンは何食べたい?」
ひよりが聞く。
「私、行かない」
「え?」
アンはスマートフォンを見ていた。
「用事あるから」
ナツが足を止める。
「今から?」
「うん」
「一人で?」
「一人」
「大阪で?」
ひよりが聞くと、アンが顔を上げた。
「大阪だからあるの」
「何それ」
「そのまま」
スマートフォンが一度震えた。アンは画面を見る。さっきまで笑っていた口元が止まった。
「誰?」
ナツが聞く。
アンはすぐには答えなかった。画面には短いメッセージが出ていた。今日、大丈夫だよ。アンは画面を消した。
「母さん」
ひよりはアンを見る。
「お母さん?」
「うん」
ナツが少しだけ表情を変えた。
「会いに行くの?」
「そのつもり」
アンはスマートフォンを鞄へ入れた。
「終わったらホテル戻るから」
「遅くなるなら連絡してね」
「分かってる」
「ほんとに?」
「ナツ、心配しすぎ」
「するでしょ」
アンは少し笑った。
「じゃ、あとで」
「うん」
ひよりも手を上げる。
「またあとで」
アンは片手を上げ返し、一人だけ違う方向へ歩き出した。ひよりは少しだけ、その背中を見ていた。
「まひる、行くよ」
リオに呼ばれる。
「あ、うん」
振り返る。後ろから、レイの声が追ってきた。
「だから、考えるのはやってからにしなさいって言ってんの!」
「飯食ってからにしない?」
「逃げる気?」
「逃げないって」
ナツが横で笑った。ひよりも笑いながら、リオたちの方へ追いついた。少し歩いてから、もう一度振り返った。
レイの声はまだ聞こえていた。
アンの姿はもう見えなかった。赤や緑の明かりが続く冬の人混みの中へ、一人で消えていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
「遠征」とは、いつもの活動地域を離れて、ほかの街や地域へライブをしに行くことです。
たとえば東京を中心に活動しているアイドルが、大阪や名古屋などのライブやイベントに出演するのも遠征の一つ。対バンやフェス、ワンマンライブなど、さまざまな目的で行われます。
普段なかなか会えないファンに会えたり、初めてそのグループを知る人に見てもらえたりするのも遠征の魅力です。アイドルにとっても、いつもとは違う会場や客席でステージに立つ特別な機会になります。
このイラストでは、地下アイドルの「遠征」がどんなものなのか、出発からライブ、現地での出会いまで分かりやすくまとめました。
※遠征の場所や移動方法、ライブの内容などは、グループやイベントによって異なります。




