第28話 目当て、三人
新幹線の窓から見えていた景色が、いつの間にか建物ばかりになっていた。ひよりはスマートフォンを鞄へ入れ、窓へ顔を近づけた。速度が落ち、線路沿いの看板やビルの文字が読めるようになる。雲の切れ間から差す冬の日差しが、ガラスへ白く反射していた。
「大阪だ」
「まだ新大阪」
向かいからアンが言った。
「大阪じゃん」
「そうだけど」
「初めて来た」
「観光しに来たんじゃないからね」
「分かってるよ」
ひよりが返すと、アンはもう膝の上のスマートフォンへ目を落としていた。画面の上で指を二度滑らせ、また何かを開く。それ以上は返ってこない。ひよりも窓へ顔を戻した。通路を挟んだ隣では、ナツが小さな袋から菓子を取り出している。
「着く前に食べ切らないと」
「なんで買ったんですか」
「新幹線乗ったらなんか食べるでしょ」
「昼も食べてませんでした?」
「これは別」
ナツが一つ差し出してきた。受け取る前に、前の座席からレイが振り返る。
「食べるのはいいけど、ゴミ残さないでよ。着いたらそのまま移動だからね」
「分かってるって」
「アン、ずっとスマホ見て酔わない?」
「大丈夫」
「リオは?」
「起きてます」
窓側のリオが目を開けた。ナツが笑う。
「寝てたじゃん」
「寝てない」
「今びくってしたよ」
「してない」
ひよりも笑った。リオは何も言わず、もう一度窓の方を向く。
水曜日の練習で、リオが「私が前、やりたい」と言った場所は、今日のライブでもそのまま使うことになっていた。
誰も反対しなかった。アンも普通に位置を確認し、ひよりとも話す。挨拶もするし、振付がずれればいつも通り指摘してくる。それでも、前とまったく同じには戻っていなかった。アンに言われた言葉は、ひよりの中にもまだ残っている。
合わせたんじゃない。
合わせるしかなかったの。
客が一緒に動いてくれたことは、今思い返しても嬉しい。あのときアンが一拍遅れたことも、今は覚えている。その二つをどう並べればいいのか分からないまま、新幹線は新大阪駅へ入った。
*
ホームへ降りた瞬間、冷たい空気がコートの隙間へ入った。
「寒っ」
ひよりが肩をすくめる。
「東京も寒かったじゃん」
アンはマフラーを巻き直しながら歩いていく。
「大阪ってもっとあったかいと思ってた」
「どんなイメージなの」
「西だから」
「雑すぎ」
久しぶりに少しだけ、いつもの言い方だった。駅構内には赤や金色の飾りが下がり、改札近くの大きなクリスマスツリーを何人もの人がスマートフォンで撮っていた。
新大阪から移動して、大阪・アメリカ村のライブハウス、RIFTへ着いた。地下へ続く階段の入口にも、小さなツリーが置かれていた。その横には今日の出演者写真と、「大阪クリスマススペシャル」と書かれたポスターが貼られている。ちょうど階段から、サンタ帽をかぶった別グループのメンバーが上がってきた。
「うちら何もしないの?」
ひよりが聞く。
「何を?」
「サンタとか」
アンがひよりを見る。
「やりたいの?」
「いや、そこまで」
「じゃあ言わないでよ」
ナツが横から笑った。
入口の前には、開場前から何人もの客が集まっていた。違うグループ名の入ったTシャツや、肩に掛けたタオル。少し離れた物販スペースには、もう列までできている。
「結構いる」
ひよりが階段の下を見た。
「普通にいるじゃん」
アンの声も少し弾んだ。
「ね」
アンがスマートフォンを見る。
「大阪から動画見てる人、結構いたんだよね」
「シュガー・ステップ?」
「それも。四人の動画も」
「じゃあ知ってる人いるかもね」
「いるんじゃない」
アンは画面を消した。ひよりも少し楽しみになった。東京から遠く離れた場所でも、自分たちの動画を見た人がいる。画面の中で見ていた人が、今度は目の前にいるかもしれない。
レイは四人を楽屋へ入れると、荷物を置く間もなく出ていった。
「受付と進行見てくる。着替えてて」
「はーい」
ナツが返事をする。四人で衣装を出した。白を基調にした赤、黄、紫、青。場所が変わっても、着るものはいつもと同じだった。
ひよりが青いリボンを留め終えたころ、レイが戻ってきた。
「確認してきた」
「何を?」
アンが鏡越しに聞く。
「受付のお目当て」
ひよりも振り返った。レイは手にした紙を見た。
「うち、三人」
少し間が空いた。
「……三人?」
ひよりが聞き返す。
「うん」
「今の時点で?」
「今の時点で」
アンの手が止まっていた。紫の髪飾りを持ったまま、レイを見ている。
「でも外、人いるじゃん」
「いるよ。他のグループのお客さん」
「そっか」
アンはそれだけ言った。鏡へ向き直る。さっきまで何度も見ていたスマートフォンを、机の上へ伏せた。ナツが自分の黄色い飾りを留めながら口を開く。
「初遠征だしね」
「三人いるなら増やせばいいじゃん」
アンが言った。ナツが鏡越しに見る。
「今日見てる人はいるんでしょ」
「まあね。対バンだから」
レイが答える。
「だったら、次うちら目当てで来てもらえばいいじゃん」
「強いねえ」
「三人で落ち込んで増えるなら落ち込むけど」
「増えないね」
「でしょ」
アンは髪飾りを留め、椅子から立った。
「だったらライブする」
ひよりは自分の胸元を見た。少し曲がっていた青いリボンを直す。
「うん」
*
舞台袖から見る客席には、確かに人がいた。前方だけでなく、その後ろや壁際にもいる。ただ、知っている顔は一つもなかった。眼鏡くんも、タンクトップくんも、鉢巻くんもいない。ここは大阪なのだから、当たり前だった。
「そろそろ」
レイが言った。
四人が袖へ集まる。リオは床に貼られた立ち位置を見て、一度だけ足を動かした。二番で前へ出る場所。自分から欲しいと言った場所だ。ひよりは横から見た。
「頑張って」
リオが顔を上げる。
「うん」
返事は短かった。アンがカーテンの隙間から客席を覗いた。
「三人、分かるかな」
「何が?」
「うち目当ての人」
ナツが笑う。
「始まったら分かるんじゃない?」
「リトルフレアさん、お願いします!」
スタッフの声に押されるように、四人でステージへ出た。思っていたより多くの拍手が来る。けれど、名前を呼ぶ声はない。ひよりは自分の場所へ立ち、最初の音に合わせて四人で腕を上げた。
リオが動けば、ひよりとアンが左右へ広がる。ナツが歌い始めると、後ろで話していた二人がステージへ顔を向けた。一本、黄色い光が上がった。少し離れたところには赤。反対側には紫。三本。あれがそうなのかもしれない。
アンも紫を見つけて笑ったが、そのまま隣へ目を移した。別のグループのTシャツを着た女性が、腕を組んで見ている。次の振りでアンがそちらへ手を伸ばしても、反応はなかった。
アンは反対側を向き、数拍後にはまた女性を見た。腕はまだ組まれていたが、顔はさっきよりまっすぐこちらへ向いている。アンは笑い、その笑顔のまま、さらに客席の端へ視線を送った。
ひよりにも分かった。アンは三人だけを見ているわけではない。今ここにいる、まだリトルフレアを知らない人まで見ている。ひよりも前を向いた。
サビへ入る。前の客が腕を上げた。少し遅れて、その後ろの男性も真似する。細かな手の形までは追いつかず、途中で動きが止まった。ひよりは気づいた。次の動きなら、大きくすればもっと簡単になる。一瞬、前のライブが頭をよぎった。
客席。自分が変えた振付。合わせるしかなかったアン。
次の音が来た。ひよりは決められた通り、胸の前で手を返した。指をひらく。肩へ戻す。男性は途中で止まり、それでも笑って手拍子へ戻った。
ひよりはその顔を見る。次に来る大きな腕の振りだけ、いつもより遠くまで伸ばした。形は変えない。見えやすくするだけ。
男性の腕が、今度は間に合った。ひよりの口元が上がる。誰にも急に、自分へ合わせてもらわなくていい。
二番へ入った。リオが前へ出る。赤い衣装が一歩深く踏み込み、客席へ腕を伸ばした。自分から欲しいと言った位置で、真正面を見る。赤い光が上がった。少し遅れて、別の色のペンライトまで同じ方向へ動く。
「リオー!」
一人だった。それでも、はっきり名前が聞こえた。リオが笑う。そのまま次の拍へ入る。
ナツの声が重なるころ、アンがまた客席の端を向いた。さっき腕を組んでいた女性が、胸の前で手拍子をしている。
アンが手を振ると、女性は一瞬迷ってから小さく振り返した。アンの笑顔が大きくなる。もう一度振った手には、さっきより大きな動きが返ってきて、ひよりまで嬉しくなった。
最後の曲へ入るころには、最初よりステージを向いている顔が増えていた。大きなコールはない。名前を知らない人も多い。それでも、途中から見てくれた人がいる。
曲が終わる。四人で頭を下げた。拍手が来た。顔を上げると、さっきの女性も手を叩いていた。アンがそちらを見る。女性と目が合ったらしく、二人とも笑った。
*
「ありがとうございました!」
舞台袖へ戻った途端、ナツが水を取った。
「暑っ」
「大阪だから?」
ひよりが聞く。
「箱の中は東京も大阪も同じでしょ」
アンが言った。
「結構見てくれたよね」
ひよりはまだ客席の方が気になっていた。
「最初より見てた」
リオも言う。アンがスマートフォンを取った。
「今日の動画、使えるとこあるか後で見る」
「もう次?」
「使えるなら使うでしょ」
外から次のグループを呼ぶ声が聞こえた。途端に歓声が上がる。さっきより大きい。ひよりはカーテンの隙間へ顔を寄せた。次のグループが出てくる。さっきアンへ手を振り返していた女性が、今度は別の色のペンライトを高く上げていた。身体を前へ乗り出し、名前を呼ぶ。さっきとは声が違った。
「……あ」
ひよりの後ろからアンも覗いた。
「あの人、さっきアンに」
「うん」
アンは数秒だけその姿を見た。女性は楽しそうだった。リトルフレアを見たときも笑っていた。でも今は、声の大きさまで違う。アンはカーテンから離れた。
「着替えるよ。物販あるし」
机へ置いていたスマートフォンを取る。画面は開かなかった。
*
物販が始まった。さっきライブを見ていた人たちの多くは、別のグループの列へ行った。そのまま次のステージを待つ人もいる。リトルフレアの前へ来た顔は多くない。それでも、来る人はいた。赤いペンライトを持っていた男が、リオの前へ並ぶ。黄色を振っていた女性はナツのところへ行った。紫を持っていた客はアンの前へ来た。
「大阪来てくれてありがとうございます」
客が先に言った。アンが一瞬笑う。
「あたしも、それ言おうとしたんだけど」
「来てくれて、ですか?」
「そう。見に来てくれてありがと」
チェキの前で並ぶと、アンはすぐに顔を作った。撮り終わったあとも少し話す。東京では一度も見たことのない顔だった。それでもアンは、客の前ではいつもと変わらなかった。
ひよりの前にも、一人来た。
「今日初めて見ました」
「あ、ありがとうございます」
「途中の大きい腕のやつ、分かりやすかったです」
ひよりは一瞬、相手の腕を見る。
「できてました?」
「たぶん」
「たぶん?」
相手が笑った。ひよりもつられて笑う。
受付で聞いた三人が、大勢に増えたわけではない。それでも、最初にはいなかった人が一人、ここまで来ていた。
ひよりが客を送り出して顔を上げると、アンと目が合った。
「何」
「アン、先にお礼言われてたね」
「あたしが言おうとしてたのに」
アンは客が去った方を見て、ペンのキャップを指で押し込んだ。
「また来たときは、先に言う」
「また大阪来るんだ」
「来るでしょ。三人のままで終われないし」
ひよりが笑うと、アンも口元を緩めた。
まだ、あのライブのことは何も話していない。話せば、また噛み合わないところもあるかもしれない。それでも今は、さっきまで四人で同じ曲を踊っていた。
そのとき、少し離れたところでレイの動きが止まった。ひよりは笑ったまま、そちらを見る。物販の端に男が一人いる。さっきリオの前へ並んでいた男だった。男もレイを見ている。二人とも、すぐには動かなかった。
「レイさん?」
ナツが呼ぶ。レイは返事をしない。男が先に口を開いた。
「……久しぶり」
レイの眉が寄った。ひよりは男とレイを見比べる。レイが一歩、前へ出た。
「…………は?」




