第27話 上手かったら何してもいいの?
リトルフレアの出番まで、まだ一時間以上あった。ひよりは楽屋の隅で、ナツが買ってきた水を飲んでいた。同じライブハウスではもう別のグループが歌っていて、扉を閉めても低い音が床から伝わってくる。
「まひる」
呼ばれて顔を上げた。佐伯が入口に立っている。その隣には、首からスタッフパスを下げた女性がいた。
「ちょっといい?」
「はい」
ひよりが立つと、リオたちも何となくこちらを見た。スタッフの女性が頭を下げる。
「急にすみません。次に出るグループなんですけど、一人、出られなくなっちゃって」
「はあ」
「それで、一曲だけなんですけど」
女性が一度、佐伯を見る。
「天野まひるさんなら、今から入れないかって」
ひよりは自分を指さした。
「私?」
「短時間で振りを覚えられる子だって聞いてて。歌は残りのメンバーで回すので、ダンスだけです。もちろん無理なら大丈夫です」
佐伯は何も言わなかった。ひよりが隣を見るとリオと目が合い、アンもこちらを見ていた。
「出番、何分後ですか?」
「二十五分くらい」
「二十五分」
短い。それでも頭の中ではもう、三、四分の動画なら何回見られるかを数えていた。
佐伯がスタッフの女性に向く。
「少しだけ、本人と話していいですか」
「もちろんです」
女性が廊下へ出た。扉が閉まると、佐伯がひよりを見る。
「で、どうする?」
「社長は?」
「アタシが決めることじゃないでしょ。踊るのはあんたなんだから」
ひよりはもう一度、リオたちを見る。ナツが水を持ったまま笑った。
「やりたい顔してるけど」
「してないです」
「してる」
アンまで言った。
「さっきから時間しか聞いてないじゃん」
「……それは」
否定しようとして、やめた。ひよりは佐伯へ向き直った。
「やります」
*
渡されたスマートフォンの中では、四人が踊っていた。ひよりが入るのは、一番右。一度目で全体を見て、二度目は足を追う。三度目は、誰の前を通るかだけ確認した。
「ここ」
先方のメンバーが画面を止める。ひよりより少し背の高い女の子だった。
「二番の頭だけ、私の後ろ通って反対側。ここ狭いから気をつけて」
「はい」
「最後、こっち向いたらそのまま止まる。次の音まで動かない」
「分かりました」
もう一度だけ再生する。さっきまで画面の中にいた四人が、頭の中では自分の立つ位置へ置き換わっていた。指先まで全部同じにはならない。けれど、どこへ行くかは分かる。
「いけそう?」
「多分」
「多分なんだ」
「本番の広さでやってないので」
正直に答えると、相手が少し笑った。
「ぶつかりそうになったら避けて」
「それはできます」
「そこ自信あるんだ」
衣装も借りた。普段のリトルフレアとは全然違う黒を基調にしたもので、青いものは一つもない。肩まである茶色のウィッグを被せられ、前髪も普段より重くなった。
ひよりは鏡を見た。
「誰これ」
思わず口から出た。隣で紫の髪飾りを直していたアンが吹き出す。
「いいじゃん。絶対分かんない」
「私も一瞬分かんなかった」
「自分は分かるでしょ」
リオが後ろから鏡を覗いた。ひよりが振り返る。
「リオ、分かる?」
「分かる」
「嘘」
「分かるよ」
「どこで?」
「……顔」
「顔変えてるのに」
アンが横から言った。
「リオに聞いたのが間違い」
「なんで」
「何着ててもまひるしか見てないから」
リオは口を開きかけたが、ひよりと目が合うと、視線をウィッグの毛先へ逃がした。
「……その髪、ターンのとき邪魔にならない?」
「一回回ってみようか?」
「今ここで回らないで。人いるから」
アンが笑いを堪えきれなくなった。
「さっきまで顔しか見てなかったくせに」
リオはアンへ、じろりと目を向けた。先方のメンバーが迎えに来たので、その続きは聞けなかった。
*
名前は紹介されなかった。
「本日はサポートメンバーを一人迎えてお送りします!」
それだけだった。客席から拍手が起こる。ひよりは右端に立った。リトルフレアのときとは違う色のペンライトが並んでいる。知っている顔も、ほとんどいない。
最初の音に合わせて足を出す。隣の動きを視界の端で捉え、ひよりも同じだけ下がった。
短い時間に数回見ただけの振付でも、音が鳴ると身体は思ったより迷わなかった。
腕を上げ、音に合わせてぴたりと止める。そのまま身体の向きを変えると、茶色い髪が頬へ当たった。
いつもの髪ではないせいで、回ったときの感覚が少し違う。それでも足は次の位置へ着いた。
二番に入ると、前のメンバーがひよりの前を通った。その背中を追って反対側へ抜けると、狭い舞台でもぶつからず、次の位置へ間に合った。
客席から声が上がった。ひよりは反射的にそちらを見る。知らない女の子が笑っていた。次の拍子で、その人へ少しだけ笑い返す。すぐに前を向く。
「……まひる?」
聞こえた瞬間、踏み込んだ足に力が入った。今、確かに呼ばれた。それでも顔は向けなかった。
ここはリトルフレアのステージではない。
次の動きに合わせ、決められた通りに腕を上げた。すると別の場所から、
「え、あれ天野まひるじゃない?」
今度は聞き間違いではなかった。前髪も衣装も違い、青なんてどこにもないのに。
それでも曲は進む。ひよりは考えるのをやめた。最後まで、教えられた通りに踊った。
曲が終わり、四人で揃って頭を下げる。顔を上げた瞬間、
「まひるー!」
はっきり飛んできた。ひよりは思わず笑ってしまった。
*
「なんで分かったの?」
袖へ戻った途端、ひよりは言った。待っていたアンが即答する。
「そりゃ分かるでしょ」
「分かんないようにしたじゃん」
「髪変えたくらいでしょ」
「メイクも違うし、衣装も違うよ」
ひよりはウィッグの毛先を持ち上げる。
「これだよ?」
「それでも分かる」
リオまで言った。
「どこで?」
リオは少し考えた。
「踏み込むところとか」
「うん」
「止まるところとか」
「うん」
「あと、客見つけたらすぐそっち見る」
ひよりは黙った。アンが笑う。
「最後ので十分じゃん」
「そんな見てる?」
三人が黙った。
「何」
ナツが先に笑った。
「見てるよ」
「そんなに?」
「めちゃくちゃ見てる」
アンが言う。
「リオは参考にならないけど」
「なんで私だけ」
「まひるなら何でも分かるじゃん」
「そこまでじゃない」
「じゃあ今のウィッグ、後ろ向きに被ってても分かる?」
「それは分かる」
「ほら」
「後ろ向きなら誰でも分かるでしょ」
ひよりも笑った。青も名前も出していないのに、踊れば気づく人がいた。ひよりはウィッグの毛先を指でいじりながら、さっき客席から飛んできた「まひるー!」をもう一度思い出した。
*
一時間後、青いリボンを胸につけ直したひよりは舞台袖から客席を覗いていた。眼鏡の男にタンクトップの男、鉢巻の男もいる。
その周りには、最近増えた顔があった。シュガー・ステップから来た人たちもいる。一人の女性が、隣の友達に何か教えながら肩を動かしていた。
「また見てる」
隣でアンが言った。
「見るでしょ」
「まだ出てないけど」
「前もそれ言ってた」
「言ったっけ」
「出るよ!」
レイの声が飛んだ。
「四人とも、こっち!」
ひよりはカーテンから離れた。リオ、ナツ、アンが並び、ひよりもその横へ入った。
「行こう」
リオが言った。
四人で舞台へ出ると、さっきよりずっと聞き慣れた声が四人を迎えた。
*
ライブは最初からよかった。リオが前へ出ると赤が揺れ、ナツの歌には後ろから拍手が返ってくる。アンが客席の端まで顔を向ければ、紫のペンライトが大きく動いた。ひよりも青を見つけた。眼鏡の男だけではなく、知らない顔が増えている。前へ踏み出して腕を伸ばすと、すぐに声が返ってきた。ひよりは笑った。さっきとは違う。ここは自分たちのステージだった。
最後の曲がサビへ入る。前の客はよく動いていた。コールも入る。ひよりは後ろを見る。少し前から来るようになった二人組が、振付を真似しようとしていた。腕を上げるのが一拍遅れ、次の細かな手の動きで止まる。一人が友達を見て笑い、また途中から入ろうとする。けれど、追いつかない。
ひよりは腕を交差させながら、その二人を見た。シュガー・ステップなら、すぐにできた。あれはもっと短くて、大きい。次に来るのは、胸の前で手を返し、指をひらいて肩へ戻す動きだった。
ひよりは手を返さなかった。そのまま大きく、右から左へ腕を振った。眼鏡の男がすぐに真似し、その隣も動く。さっき追いつけなかった二人組も、少し遅れて同じように腕を振った。できた、と分かった瞬間、ひよりの口元が上がった。
次の拍子、本来なら元の振付へ戻る。横を見ると、リオがこちらを見ていた。ほんの一瞬だけ目が合い、そのままリオも大きく腕を振る。ナツも続いた。
ひよりの胸が跳ねた。三人なら分かる――そう思った。
もう一度、同じ動きが来る。今度はさっきより大きく振った。客席で真似する腕が、前から真ん中、さらに少し後ろまで増えていく。青だけではない。赤も黄色も、ペンライトを持っていない手まで動き、声も大きくなった。ひよりは笑いながら、客席へもう一度大きく腕を振った。すると同じ動きがまた返ってくる。それが嬉しくて、次の振付も同じように変えた。
そこで初めて、アンが目に入った。本来の振付通り、胸の前で手を返しかけている。アンの目がひよりへ動き、一拍遅れて大きく腕を振った。次の瞬間には、四人が揃っていた。客席から声が上がった。
「はい! はい!」
次はもっと返ってきた。ひよりはもう、元の振付へ戻さなかった。最後の音まで、そのまま走った。曲が終わると、歓声が押し寄せた。さっき振付に追いつけなかった二人組が、笑いながら大きな腕の動きをもう一度やっている。ひよりはそちらを指した。二人が気づき、さらに大きく腕を振った。ひよりも笑って返した。
*
「今の何?」
舞台袖へ戻ってすぐだった。ひよりは振り返る。アンが立っている。
「最後?」
「振付」
「ああ」
「変えたよね」
「うん」
「なんで?」
思っていたより硬い声だった。ひよりはまだ息が上がっている。
「後ろの人もやろうとしてたから」
「だから?」
「あれなら一緒にできると思って」
アンが眉を寄せた。
「相談してないじゃん」
ひよりは口を閉じた。
「……ごめん」
「うん」
「でも、みんなやってくれたよ」
アンの顔から、さっきまでの笑いが消えた。
「そういう話してない」
「でも」
「相談してないって言ってんの」
ひよりも少し眉を寄せる。
「あの場じゃ聞けないじゃん」
「じゃあ、やらなきゃいいじゃん」
すぐ返ってきた。ひよりは黙った。
「結果は良かったと思う」
リオが口を挟んだ。アンが振り向く。
「ほら、それ」
「何?」
「リオ、まひるのときだけ甘くない?」
「甘くない」
「じゃあ結果がよかったら、相談なしでもいいんだ?」
「そうは言ってない」
「じゃあ何?」
リオが言い返そうとする。アンはその前に続けた。
「上手かったら何してもいいの?」
ひよりの頬から、すっと熱が引いた。さっきまで聞こえていた歓声が、急に遠くなった気がした。リオも口を閉じる。
「アン」
ナツが呼んだ。アンは返事をしなかった。ナツが一度、額の汗をタオルで拭う。
「良かったことと、勝手に変えたことは別」
ひよりを見る。
「今日の変更は良かった。私もそう思う」
ひよりは何も言わなかった。
「でも、私たち三人は知らなかった」
アンが言った。
「合わせたんじゃない」
ひよりがそちらを見る。
「合わせるしかなかったの」
ステージの上で、アンがいつもの振付通りに手を返しかけたところが浮かんだ。胸の前にあった手を、こちらを見てから大きく振った。ほんの一拍遅れていた。
ひよりはあのとき、分かってくれたと思った。
「……ごめん」
今度は、その先に何もつけなかった。
アンは返事をしない。ナツも、それ以上は何も言わなかった。リオが床へ視線を落とす。外では、次のグループを呼ぶ声が聞こえていた。
*
次の水曜日も、四人は全員練習へ来た。アンはいつも通りに挨拶をし、ひよりも同じように返した。それでも、前とまったく同じとは思えなかった。
「そこ、もう一回」
リオが音を止めた。新しく合わせ始めた曲の、二番の頭だった。四人は鏡の前へ戻った。
「ここ、一人前に出した方がよくない?」
ナツが鏡を指した。
「今のままだと横一列すぎる」
「誰出す?」
アンが聞く。
ひよりも鏡を見る。そのとき、リオの視線が一瞬だけこちらへ向き、すぐに鏡の中の自分へ戻った。
「そこ」
リオが言った。声はいつもと変わらなかった。
「私やりたい」
ナツとアンが見る。ひよりもリオへ顔を向けた。リオの耳が、少しだけ赤くなっている。それでも目は逸らさなかった。
「私が前、やりたい」




