第26話 また次
水曜日の練習は、ナツが最後に来た。
「ごめん、遅れた!」
扉を開けるなり鞄を壁際へ置き、急いで靴を履き替える。研究機関の仕事を終えて直接来たらしく、髪はいつもより少し乱れていた。床で足を伸ばしていたひよりは、そのまま顔を上げた。
「仕事?」
「仕事。今日ちょっと長引いた」
「お疲れさまです」
「ありがと。……あ、そうだ。聞いてよ」
ナツは髪をまとめ直しながら鏡の前まで来た。
「今日、職場でミオとユナ見てる人いた」
アンがスマートフォンから顔を上げる。
「配信?」
「切り抜き。休憩中に普通に見ててさ。『この二人最近よく見ますよね』って」
「へえ」
ひよりも少し驚いた。ミオとユナがVTuberになってから、二人の動画は何度か見ている。元々ミオは喋るのが上手かったし、ユナは好きなことになると止まらない。二人とも以前より好き勝手やっているように見えて、それが妙に似合っていた。
「ナツさん、一緒にやってたって言ったの?」
「言わないよ」
「なんで?」
「そこから説明長くなるでしょ。『水瀬さんもアイドルだったんですか』って聞かれて、今もやってますって言って、地下アイドルって何ですかってなって」
「確かに長い」
アンが笑った。
「でも、すごいね」
リオがストレッチを終えて立ち上がる。
「リトルフレア知らない人が、ミオさんたちは知ってたんでしょ」
「そうなんだよね」
ナツは嬉しそうに答え、その場でスマートフォンを取り出した。何かを打ち始めたので、ひよりは横から覗こうとした。
「何してるの?」
「二人に送ってる」
「何を?」
「おめでとうって」
「見せて」
「なんでよ」
ナツが画面を胸元へ引く。
「別に変なこと送ってないでしょ?」
「そういう問題じゃないの。近い近い」
ひよりが離れたところで、通知音が鳴った。
「あ、ユナ」
「何て?」
「職場の人って誰!? だって」
「知らないでしょ」
「知らないよ」
ナツが笑いながら返信する。すぐにもう一度通知が来て、今度は少しだけ読む時間が長かった。
「ミオ?」
「うん」
「何て?」
「内緒」
「また?」
ひよりが不満そうにすると、ナツはスマートフォンを鞄へしまった。
「はい、始めるよ。待たせたんだから、私が一番動きます」
「それは普通じゃない?」
アンが言う。
「そういうこと言わないの」
「自分で言ったんじゃん」
「始めます!」
ナツが手を叩き、四人が鏡の前へ並んだ。
*
二曲目の途中で、ひよりはアンと位置を入れ替えた。肩が触れそうになり、とっさに半歩ずれる。
「あ、ごめん」
「そっち行きすぎ」
「え?」
「今度リオに近い」
言われて戻ると、アンとの間がまた狭くなった。
「じゃあどこ?」
「いつものとこ」
「分かんないから聞いてるんだけど」
「床の線見て。そこ」
「あ、ここ?」
「そう」
「最初から言ってよ」
「見れば分かるでしょ」
アンの声はいつも通りだったが、そこで会話が切れた。以前なら、ひよりが何か言い返し、アンももう一つ返していた気がする。少しだけ変な間が残ったところで、ナツが曲を止めた。
「そこまで。まひる、今のでいい。アンも寄りすぎないで」
「私?」
「二人とも」
「まひるが来たんだけど」
「アンも少し動いてたよ」
「動いてないし」
「見てたから」
ナツは言い切り、もう曲を戻している。
「はい、もう一回。今度ぶつからない」
ひよりとアンは顔を見合わせ、それぞれ元の位置へ戻った。
次は綺麗に入れ替われた。そのまま曲が進み、リオが前へ出る。ひよりとアンが左右へひらき、中央へ入ったナツが歌い始めた。高い音へ上がるところで、ほんの少しだけ声が揺れた。ひよりが反射的にナツを見る。本人も気づいたらしく、曲が終わると先に手を上げた。
「ごめん。今の最後、もう一回やっていい?」
「珍しいね」
リオが言った。
「何が?」
「ナツが自分から歌やり直すの」
「私だって失敗するよ」
「眠い?」
ひよりが聞くと、ナツはすぐに首を振った。
「眠くない」
「目、半分だけど」
「開いてる」
「これくらい」
ひよりが両手の指で自分の目を細くすると、アンが吹き出した。
「似てる」
「似てない!」
リオまで笑い始める。ナツはひよりの額を軽く押した。
「人の顔で遊ばない。もう一回やるよ」
「誤魔化した」
「やるよ!」
「はい」
ひよりは笑いながら位置へ戻った。鏡の中には四人いる。ナツが曲を最初へ戻した。
*
練習が終わると、ナツは壁際へ座り込み、水を一口飲んだ。
ひよりが靴紐を結び直していると、その隣でスマートフォンの音が小さく鳴った。画面には、さっき話していたミオとユナの切り抜きが流れている。
「見るんですね」
「見るよ。元メンバーだもん」
ナツはそう言って、最後まで再生した。
「嬉しい?」
「嬉しいよ。普通にすごいし」
すぐに答えたあとで、ナツは画面を消さなかった。
「……ちょっと、先行かれたなって思っただけ」
「競争してたんですか?」
「してない。してないんだけどさ」
ナツは笑って、再生が止まった画面を親指で消した。
「同じところにいたから、思うくらいはいいでしょ」
ひよりは何と返せばいいのか分からず、とりあえず頷いた。ナツは立ち上がり、仕事用の鞄を肩へ掛ける。
「帰ろ。明日も仕事」
「明日も?」
「今週はね」
*
その夜。ひよりは自分の部屋で、読みかけのライトノベルを開いていた。スマートフォンが震える。画面に水瀬ナツの名前が出ている。ひよりは一度だけ天井を見てから、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『まひるー』
「今日は何回目ですか」
『何が?』
「電話」
『まひるには一回目』
「そうじゃなくて」
向こうでナツが笑った。声を聞けば分かる。
「飲んでますね」
『飲んでるよ』
今回はあっさり認めた。
「リオとアンにもかけた?」
『リオは出た』
「アンは?」
『出ない』
「賢いですね」
『ひどくない?』
「前にも何回もかけてたじゃないですか」
『そんなかけたっけ』
「翌朝、忘れてって言ってましたよ」
『……それは忘れて』
「覚えてるじゃないですか」
電話の向こうで、ナツが声を上げて笑った。ひよりも少し笑う。前と同じだ。酔うとよく喋る。同じ相手へ何度も電話する。翌朝になって後悔する。
『ねえ、まひる』
「はい」
『今日ね、ミオからまた返事来た』
「何て?」
『お互い頑張ろうねって』
「いいじゃないですか」
『うん』
それきり、ナツが黙った。さっきまで話し続けていたので、ひよりはスマートフォンを耳から少し離した。
「もしもし?」
『聞いてる』
「寝ました?」
『寝てない』
「じゃあ何ですか」
『……二人、すごいよね』
「ミオさんとユナさん?」
『うん』
ナツの声から、さっきまでの笑いが少し消えていた。
『職場の人まで知ってた』
「今日聞きました」
『リトルフレアは知らなかったのに』
ひよりは答えなかった。
『別に、それが嫌なわけじゃないんだよ』
「うん」
『ほんとに嬉しいし。二人とも楽しそうだし』
「分かってます」
『でもさ』
また少し間が空いた。
『私、まだここで歌ってていいと思う?』
ひよりは、本に置いていた指を止めた。
「……何ですか、それ」
『そのまま』
「なんで私に聞くんですか」
『まひる冷たい』
「そうじゃなくて。ナツさんのことでしょ」
『そうだけど』
「辞めたいんですか?」
『それは嫌』
今度は迷わなかった。ひよりは少しだけ目を丸くする。
「嫌なんだ」
『嫌』
「じゃあ、辞めたくはないんですね」
『うん』
「だったら、酔ってないときに考えた方がいいんじゃないですか」
『正論やめてよぉ』
「明日も同じこと思ってたら、そのとき考えればいいでしょ」
『まひるってさあ』
「はい」
『たまに可愛くないよね』
「切りますよ」
『待って待って』
声がまた少し明るくなる。ナツはそこから、明日の仕事へ行きたくないとか、アンが電話に出ないとか、リオは二回目で切ったとか、どうでもいい話を続けた。ひよりも適当に返した。けれど、さっきの一言だけは頭から消えなかった。
通話が終わってしばらくすると、グループチャットにアンからメッセージが来た。
『ナツから来た人』
リオがすぐに返した。
『来た』
ひよりも、
『来た』
と返した。アンから、
『何の話?』
ひよりは入力欄を開く。指を動かしかけて、止めた。
『ミオさんとユナさん』
それだけ送った。すぐにアンから、
『酔うと昔話長いんだよね』
と返ってくる。ひよりはスマートフォンを伏せた。
今日は、昔話だけではなかった。
*
金曜日の練習で、ナツはいつも通りだった。仕事の話をし、アンに水を渡し、リオの歌へ口を挟み、ひよりが位置を間違えると普通に止めた。休憩中、ひよりが何となく見ていると、すぐに気づかれた。
「何?」
「別に」
「何、その顔」
「何でもないです」
「だったら見ないでよ」
「見てただけです」
「だから何で」
結局、電話の話はしなかった。
*
土曜日、ライブが始まる前にひよりが舞台袖から客席を覗くと、すっかり見慣れた顔がいくつもあった。
眼鏡の男は青いペンライトを膝へ置いて隣の客と話し、少し離れた場所ではタンクトップの男が開演前から誰かと笑っている。壁際には鉢巻の男もいて、前の週に見かけた新しい客も何人か残っていた。
その中に黄色いペンライトを持つ女性を見つけ、ひよりは後ろを振り返った。
「ナツさん」
「何?」
「あの人いるよ」
「誰?」
ひよりが指した先をナツが覗く。
「ああ」
それだけ言って、普通に笑った。ひよりは少し物足りなくなった。
「反応薄くない?」
「何が?」
「最初にまた来たとき、『あ』って言ってたじゃん」
「いつの話よ」
「あの人が二回目に来たとき」
「そりゃ、もう何回来てくれてると思ってんの」
ナツは鏡へ戻り、黄色い髪飾りの位置を直した。
言われてみれば、その通りだった。最初は別のグループを見るために来て、一枚だけナツとチェキを撮った。次の週には黄色を持ち、今度はリトルフレアを見るために来たと言った。それから何度か、同じ黄色を客席で見ている。もう「来た」と驚く相手ではなくなっていた。
「二人とも、出るよ!」
レイの声が飛んでくる。
「はーい」
ナツが返事をすると、すぐに、
「ナツまで返事軽くなってきた!」
と怒られた。
「聞こえてるからいいでしょ」
「そういう問題じゃない!」
ひよりは笑いながら、ナツの後ろを追って舞台袖へ向かった。
*
最初の曲が始まり、四人がライトの中へ飛び出した。ひよりはすぐに青い光を見つけて腕を伸ばす。眼鏡の男が大きく振り返し、次の位置へ移れば、今度はリオへ赤い光が上がる。アンが身体を返すと紫が揺れ、その次にナツが中央へ入った。歌声が客席の奥まで伸びていく。
ひよりは移動しながら黄色い女性を探した。今日は隣に背の高い客がいるためか、いつもより少し端へ寄っている。それでもナツはすぐに見つけたらしく、歌いながらそちらへ手を伸ばした。黄色い光が大きく揺れた。ナツも笑った。けれど、その顔には以前のような驚きはない。いつも来る人を見つけたときの、ごく普通の笑顔だった。次の拍子にはもう別の客へ視線を移している。
「まひるー!」
自分の名前が飛んできた。ひよりもすぐに客席へ顔を戻す。今は、目の前にいる人を見る。
*
終演後の物販で、ひよりのところには眼鏡の男が来た。
「今日、途中でナツちゃんの方見てましたよね」
「……今日は見てました」
「今日は?」
「今日は。でも、青もちゃんと見つけたでしょ」
「見つけてくれましたけど」
「じゃあ、そこも覚えててください」
男が笑った。ひよりも少し遅れて笑い返したが、ナツの歌が始まったときのことは、それ以上話さなかった。
一枚チェキを撮り、ひよりが日付を書いている間、隣から黄色の女性の声が聞こえた。
「今日もよかったです」
「ありがと」
ナツが答える。
「最後の高いところ、すごく好きです」
「あそこ今日ちょっと怖かったんだけど」
「全然分からなかったですよ」
「じゃあ言わなきゃよかった」
女性が笑い、ナツも笑う。
「はい」
ひよりは眼鏡の男にチェキを渡した。
「ありがとうございます」
「次も来る?」
「来ますよ」
あまりに即答されて、ひよりは笑った。
「早い」
「何回来てると思ってるんですか」
さっきナツから聞いたばかりの言葉と似ていた。眼鏡の男が離れ、次の客が来るまで少しだけ間が空く。その向こうでは、黄色の女性が物販机に置かれた予定表を見ていた。
「あ、来週これですよね」
「うん」
「私、行けないんです」
ナツが顔を上げた。
「仕事?」
「はい。休めなくて」
「そっか」
ほんの少しだけ声が低くなった。女性は予定表の次の欄へ指を移した。
「でも、その次は行きます」
「こっち?」
「はい」
「ああ、これね」
ナツが頷いた。
「じゃあ、その次で」
「はい。また」
チェキを受け取った女性が笑う。ナツも笑って、
「待ってる」
と返した。
「行きます」
女性が列から離れると、すぐに次の客がナツの前へ入った。
「お待たせ。今日どうだった?」
いつものように会話が始まる。ひよりは、その横顔を少しだけ見ていた。来週はいないけれど、その次にはまた来る。大した話ではないはずなのに、ナツは予定表のその日を一度だけ見直してから、次のチェキを受け取った。
「まひるちゃん?」
「あ、はい」
正面から呼ばれ、ひよりも慌てて自分の客へ向き直った。
*
物販を終え、四人で駅へ向かった。夜の空気は少し冷たく、リオとアンが前を歩き、ひよりとナツは少し離れてその後をついていく。しばらく歩いたところで、隣から小さな欠伸が聞こえた。
「あ」
「何」
「やっぱ眠いんじゃん」
「眠いよ」
「水曜、眠くないって言ってた」
「あれ水曜でしょ。今日は眠いの」
「ずるい」
「何がずるいの」
ひよりは持っていたペットボトルの蓋を開けた。
「明日も仕事?」
「仕事」
「日曜なのに?」
「あるときはあるよ」
「大変ですね」
「大変だよ」
ナツはあっさり認めた。前を歩くアンが何か言い、リオが振り返って笑っている。水曜日も四人で練習し、金曜日も四人で踊り、今日も四人で歌った。来週、いつもの黄色は客席にいない。その次にはまた来る。
「なのに今日もライブ来たんですね」
ひよりが言うと、ナツが少しだけこちらを見た。
「そりゃ来るでしょ」
「疲れてるのに?」
ナツはすぐには答えず、前へ顔を戻した。
「でも歌いたいし」
ひよりは一拍だけ黙った。
「じゃあ仕方ないですね」
「何それ」
「歌いたいんでしょ?」
「まあね」
「じゃあ仕方ない」
ナツが笑った。
「仕方ないね」
「二人とも、置いてくよ」
前からリオの声が飛んできた。
「今行く!」
ナツが歩く速度を上げたので、ひよりもその横を追った。振り返ったアンが、早く来いというように片手を振っている。四人で歩く速度が、また同じになった。




