第25話 前の方がよかった
ライブが始まる前、ひよりは舞台袖から鉢巻の男を見つけた。今日は誰かと話しながら、ステージに貼られた進行表を指している。
「今日もいる」
ひよりが言うと、隣で紫の髪飾りを直していたアンが鏡越しにこちらを見た。
「誰」
「あの人。鉢巻の」
「いるでしょ。いつも」
「最近ほんとに毎回来てない?」
「前から来てるし」
アンはそう答え、鏡へ顔を戻した。
ひよりも客席へ目を戻す。前の週から見かけるようになった顔も残っていた。青が一番分かりやすく増えたのは、自分でももう気づいている。それでも赤も黄色も紫も、以前より知らない顔が混じるようになった。
「あ」
アンが小さく声を出した。ひよりが振り返る。
「何?」
アンは答えず、カーテンの隙間をほんの少し広げた。ひよりも同じ方を覗くと、右側に紫のペンライトを持った女性がいた。前回、アンの列に並んでいた人だ。
「あの人、アン見に来たんだね」
「まだ分かんないでしょ」
そう言いながら、アンは鏡へ向かい、いま直したばかりの髪飾りへもう一度触れた。
「見つけたって手、振らないの?」
「ここから?」
アンが呆れた顔を向けた。
「本番でやる。あたしの番まで待ってもらうの」
そこへレイの声が飛んできた。
「二人とも、もう出るから! 遊んでない!」
「遊んでません」
ひよりが答える。
「返事だけは早い!」
「いいことでしょ」
「早くこっち来なさい!」
アンが先にカーテンから離れた。ひよりも笑いながら後を追った。
*
二曲目を終えたところで、ナツがマイクを上げた。
「次、ちょっと久しぶりの曲いくよ!」
客席の前の方から声が返った。
ひよりにとっては、久しぶりでも何でもない。加入してから覚えた曲だ。けれど元々は、七人で歌っていたらしい。四人になったあとで立ち位置と歌割りを変え、今もセットリストへ時々入っている。イントロが流れるとリオが前へ出て、ひよりは一歩下がりながらアンと位置を入れ替えた。
「はい! はい!」
すぐに、眼鏡の男とタンクトップの男、その後ろにいる何人かから声が入った。
ひよりは腕を伸ばしながら客席を見る。
次のコールでは、一つだけ妙にはっきりした声が聞こえた。鉢巻の男だった。ペンライトは持っていない。けれど、声を入れる場所がぴったりだった。ナツが一節歌うたび、その終わりへすぐ声が入る。次も、その次も迷わない。
隣にいた若い男が鉢巻の男を見る。一拍遅れて、その人も同じ言葉を叫んだ。ひよりは少し笑った。あの人、本当に前から見ているんだ。
間奏に入ってアンが前へ出ると、紫の光が上がった。アンがそちらを見て笑い、身体を返した。そのまま反対側へ腕を伸ばす。鉢巻の男がまた声を入れると、今度は周りからも重なり、アンの顔がそちらへ向いた。一瞬だけ、目が合ったように見えた。
鉢巻の男は何も振っていない。ただ、次のコールでも誰より早く口を開いた。アンの口元が上がった。ほんの少しだったが、ひよりには分かった。次の拍子でアンが戻ってくる。二人で向き合い、同じ動きで腕を交差させた。
「アン、楽しそう」
音に紛れるくらいの声で言う。
「喋んないで」
すぐ返ってきた。ひよりが笑って顔を上げると、アンも同じように笑っていた。
*
「今日よかったじゃん!」
終演後、物販の準備をしていると、少し離れたところから大きな声が聞こえた。タンクトップの男だった。隣には鉢巻の男がいる。
「昔の曲、めちゃくちゃ声出てたじゃん」
「まあな」
「全部知ってんだな」
「そりゃ知ってるよ」
ひよりはチェキ用のペンを並べながら、何となく耳を向けた。
「じゃあ今日楽しかったでしょ」
「楽しかったよ」
「じゃあいいじゃん」
「まあ」
「何だよ、その言い方」
タンクトップの男が笑う。鉢巻の男も少し笑った。
「俺は、前の方が好きだったかな」
ひよりの手が止まった。
「七人のとき?」
「うん。今が嫌って意味じゃないよ。嫌なら来てないし」
「毎回来てるもんな」
「うるさい」
二人がまた笑う。ひよりは無意識にアンを見た。少し離れた机で、アンがペンの蓋を閉めている。顔はいつもと変わらない。聞こえただろうか。距離を考えれば、多分聞こえている。
「人数多くてさ。ごちゃごちゃしてたじゃん。MCも毎回どっか脱線してたし」
「あれ褒めてんの?」
「褒めてるって」
「じゃあ今は?」
少し間が空いた。
「今は今で好きだよ」
アンが顔を上げた。鉢巻の男の方を一度だけ見て、それから何も言わず、次のペンをケースから出した。
「まひる」
「え?」
「それ、そこじゃない」
ひよりが手元を見る。チェキ用のペンを、自分のケースではなくアンの方へ置こうとしていた。
「あ、ごめん」
ひよりはペンを戻したが、アンの手元をまた見てしまった。アンはその視線を追って顔を上げる。
「聞こえてたよ」
「……うん」
「だから、いちいちこっち見なくていい」
ひよりは自分のペンケースへ目を落とした。何か言えばよけいな気遣いになる気がして、蓋を閉めようとする。まだ並べている途中なのに気づき、また開いた。
「まひる。もうお客さん来るよ」
アンは言いながら椅子を引き、さっきの鉢巻の男の方を見た。
「はい、物販始めるから!」
レイの声に、ひよりも顔を上げる。客が机の前へ進んでくると、アンは自分の前まで来た鉢巻の男へ、まっすぐ顔を向けた。
*
ひよりが最初の客とチェキを撮っている間、隣からアンの声が聞こえた。
「今日どうだった?」
ひよりは日付を書きながら、横目で隣を見る。アンの前にいたのは、鉢巻の男だった。
「楽しかったよ」
「へえ」
アンはペンを指先で回した。
「前の方が好きだったんでしょ」
鉢巻の男が、少しだけ目を見開いた。
「聞こえてた?」
「近いし」
「いや、あれは――」
「私も七人のとき、いたんだけど」
今度は、男が黙った。アンは笑っていない。怒ってもいなかった。
「分かってる」
鉢巻の男が、ゆっくり言った。
「アンが嫌とか、今の四人が嫌とかじゃないんだ。七人でわちゃわちゃしてた頃が、俺は好きだったっていうか」
「うん」
「だから、そういう意味じゃなくて」
「分かってるって」
アンはそこで、ようやく少しだけ笑った。
「嫌なら来てないんでしょ」
「そう」
「じゃあ来週も来る?」
「来るよ」
即答だった。アンは一瞬だけ目を細め、それからチェキ券を受け取った。
「じゃ、撮るよ」
鉢巻の男が列を離れる。次にアンの前へ来たのは、前回も来ていた紫のペンライトの女性だった。
「今日、髪ちょっと違います?」
女性が聞く。
アンの顔が明るくなった。
「分かる?」
「前よりこっちの方が上がってる」
「そう。今日ちょっと変えた」
「やっぱり」
「よく見てるじゃん」
「見てますよ」
アンが笑った。写真を撮る前に、二人で立つ位置を少しずらす。
「もうちょいこっち」
「こう?」
「そう。そっちの方がいい」
シャッターが鳴った。出てきた写真を二人で覗き込み、女性が嬉しそうに笑う。アンも笑っていた。
「まひるちゃん?」
正面から呼ばれ、ひよりは慌てて自分の客へ向き直った。
「はい。次どうぞ」
*
物販が終わるころには、入口へ向かう客が増えていた。ひよりは残ったチェキをケースへ戻しながら、何となく客の流れを見る。タンクトップの男がいた。隣には鉢巻の男もいる。
「来週、場所違うからな!」
「知ってる!」
「絶対間違えるじゃん」
「間違えねえよ!」
「前も言ってた」
二人が笑っている。鉢巻の男はスマートフォンを開き、来週の予定らしい画面をタンクトップの男に見せた。来週も来るつもりなのだろう。
「何見てんの?」
隣からアンに聞かれた。
「あの二人」
「また?」
「来週の話してる」
「ふうん」
アンはチェキケースの蓋を閉めた。
「ほんとに来週も来るんだね」
ひよりが言うと、アンはチェキケースを鞄へ入れた。
「本人が来るって言ったじゃん」
「前の方が好きでも?」
アンの手が一度だけ止まる。
「それと来るのは別でしょ」
「そういうもの?」
「知らない。でも、ずっといるし」
アンは鞄のファスナーを閉めた。それから、さっきまで鉢巻の男がいた方を見る。もう人の流れに紛れて、姿は見えなかった。アンは鞄を肩へ掛けた。
「ほら、帰るよ」
ひよりは一度だけ客の消えた方を見てから、その後を追った。




