第24話 まひるのグループ
土曜日、歌舞伎町のライブハウスへ入って、ひよりは舞台袖から客席を覗いた。駅からここまでの道はまだ暑く、首元にはうっすら汗が残っている。それでも日陰へ入ったときの風は、少し前より軽かった。
まだ開演前だった。前の方では、眼鏡の男が誰かと話している。少し離れたところにタンクトップの男もいて、壁際には鉢巻の男が立っていた。そこまでは、いつもと同じだった。
「あれ」
ひよりはカーテンを少しだけ広げた。眼鏡の男の近くに、見覚えのない女性が二人いる。後ろにも知らない顔があった。二人組の片方がスマートフォンを見ながら右へ小さく足を出し、肩を返して、胸の前で重ねた手を左右へひらいた。
「アン」
「何」
後ろで紫の髪飾りを直していたアンを手招きした。
「ちょっと来て」
「もう出るんだけど」
「いいから」
アンが隣へ来る。ひよりは客席を指した。
「あの人」
「どれ」
「スマホ持ってる人。今やってた」
「何を?」
「シュガー・ステップ」
アンが客席へ目を向ける。ちょうど女性が、片手を頬の横へ持っていった。
「あ」
「でしょ?」
ひよりが振り返ると、アンの口元が少しだけ上がった。
「来たんだ」
「動画見た人かな」
「じゃない?」
アンはもう一度客席を見る。女性たちの後ろにも、以前はいなかった顔がある。
「今日、人多くない?」
ナツまで後ろから覗き込んだ。
「ちょっとね」
アンが答える。
「ちょっと?」
ひよりには、もう少し増えているように見えた。満員ではない。後ろにはまだ空いている場所があり、壁際まで客が並んでいるわけでもない。それでも、いつもの週末より明らかに人が多かった。
「ほんとに来るんだね。動画見て」
「そりゃ来る人もいるでしょ」
「嬉しくないの?」
「嬉しいよ」
アンが即答した。
「だから言ったじゃん」
「出た」
ナツが笑う。
「ほら、戻るよ。もう出番」
リオに呼ばれた。ひよりがカーテンから離れる。アンだけは最後にもう一度客席を見てから、三人の後を追った。
*
四人がステージへ出た瞬間、声が飛んだ。
「リオー!」
「ナツー!」
「アンちゃーん!」
ひよりも手を上げる。
そのとき、
「まひるー!」
真正面から名前を呼ばれた。眼鏡の男だった。すぐ横から、別の声が重なる。
「まひるちゃーん!」
ひよりは反射的にそちらを見た。さっき舞台袖から見つけた女性が、青いペンライトを持っている。さらに少し後ろにも、もう一本青があった。
「あ」
思わず声が漏れた。イントロが始まり、慌てて前へ向き直る。最初の音に合わせてリオと踏み出した。ナツの歌が入る。アンが反対側へ抜けていった。
振付はいつもと同じだった。けれど、客席が少し違って見えた。赤い光の中にも、知らない顔がある。黄色を振っている女性も増えていた。
右端に紫のペンライトを持つ女の子を見つけた瞬間、アンの顔がそちらへ向いた。目が合ったらしい。紫の光が大きく揺れた。アンが笑う。次の拍子ではもう身体を返し、反対側の客へ目を向けていた。
ひよりが客席へ目を戻すと、青い光が二本、三本と入ってきた。前から振ってくれている眼鏡の男の青は、もう見分けられる。その後ろは知らない。右側にも、知らない青があった。
サビへ入った。
「はい! はい! はい!」
声が重なる。前より大きい。ひよりが腕を上げると、知らない客も同じタイミングで腕を上げた。つい数日前まで、自分たちのことを知らなかったかもしれない人が、今ここで同じ曲に合わせて動いている。
踏み込む足が少し大きくなった。横のリオがこちらを見る。ひよりも見返した。注意されるかと思ったが、リオの口元が上がった。ひよりも笑い、そのまま次の腕を遠くまで伸ばした。客席から声が返ってきた。
*
「いきなり名前呼ばれた」
舞台袖へ戻った途端、ひよりは言った。
「いつも呼ばれてるじゃん」
アンが水を取りながら返す。
「知らない人に。私が見つける前に」
「見てたね」
ナツも頷いた。
「後ろからも返ってきてたよ」
「前より声大きかった」
リオはタオルで額を拭きながら言った。
ひよりは胸元をぱたぱたと扇ぐ。
「暑い。でも楽しかった」
「それ毎回言ってない?」
アンが水を飲む。
「楽しいんだから仕方ないじゃん」
「はいはい」
「アンも楽しそうだったよ」
「普通だけど」
「紫の子見つけたとき、顔変わった」
アンがペットボトルを口から離した。
「あたしのこと見てくれてたからね」
「すぐ見つけたよね」
「そりゃ見つけるよ。あたしの紫だもん」
ひよりは少し驚いてアンを見た。アンは言いすぎたと思ったのか、蓋を閉めながら顔を背ける。
「……物販も来てくれるといいけど」
リオが小さく笑った。ナツも鞄からタオルを出しながら言う。
「でも、本当に来たね。動画見た人」
「多分ね」
アンが答えた。その声は、少しだけ弾んでいた。
*
物販が始まると、四人の前にはいつもより長い列ができた。リオの列にも、ナツの列にも、見覚えのない顔がいる。アンの前にも、初めて見る女性が並んだ。
「初めまして」
「初めまして」
アンは笑顔で迎えた。
「一枚お願いします」
「はい。ポーズどうする?」
チェキを撮り終え、写真が出てくるのを待っている間に、女性が言った。
「動画見て来ました」
「シュガー・ステップ?」
「それも見ました。でも、その前の動画です」
「前?」
「一人ずつ上がってたやつ。紫の子、表情すごいなって思って」
アンの目が少し大きくなった。
「私の?」
「はい。カメラ向いた瞬間、急に雰囲気変わるじゃないですか」
アンは写真を受け取りながら笑った。
「ありがと」
「今日、実際に見てもすごかったです」
「ほんと?」
「また来ます」
「うん。来て」
女性がチェキをしまい、列から離れる。アンはその背中を少しだけ見送った。次の客が来る前に、口元が緩んだ。
離れたところで、まひるの列にいた男が声をかけた。
「さっき、アンちゃんの方見てました?」
自分の名前が聞こえ、アンもそちらを見る。ひよりは男の方を向いた。
「ちょっとだけ」
「仲いいですね」
「普通です」
「そうなんですか?」
「普通です」
ひよりはそう言い切ると、すぐ男のスマートフォンへ目を向けた。
「あ、それ」
「シュガー・ステップ見ました」
「やっぱり」
「それで今日、初めて来ました」
「ほんとに?」
身体ごと前へ寄る。
「真似しました?」
「しました」
「難しくなかったですか?」
「最初、足間違えました」
「ああ、やっぱり」
ひよりが笑う。男も笑った。後ろからレイの声が飛んできた。
「まひる」
「はい」
「後ろ待ってる」
「あ」
ひよりが列を見る。
「すみません」
「いや、楽しかったです」
「また来てください」
「来ます」
男が離れ、次の客が前へ出る。
「初めまして」
「初めまして」
ひよりはまた笑った。
*
アンの列が一度途切れた。ペンを机へ置いて肩を回しながら周りを見ると、リオの前には一人、ナツのところには二人、まひるの前にはまだ何人か並んでいた。
少し離れたところで声がした。
「シュガー・ステップの子って、あの青?」
「そう。まひるちゃん」
「あの子か」
二人組のうち一人が、まひるの列の最後尾へ向かう。アンは机の上のチェキを揃えた。
「アン」
隣からナツが呼ぶ。
「何」
「今日、青すごい増えたね」
「別に気にしてないから」
ナツが止まった。
アンも止まった。
「……まだ何も言ってないけど」
「うるさい」
「はいはい」
ナツはそれ以上何も言わなかった。ちょうどアンの前へ、新しい客が来る。
「初めまして!」
鞄から紫のペンライトが覗いていた。アンはすぐに顔を上げた。
「初めまして」
「四人の動画見ました」
「ほんと?」
「アンちゃん、写真とかめっちゃ映えますよね」
「でしょ?」
相手が笑う。アンも笑った。チェキのシャッターが鳴った。
*
物販が終わるころには、ひよりの喉はライブ後より乾いていた。
「喋った……」
椅子へ座り、水を飲む。リオが隣で荷物をまとめながら言った。
「ライブより疲れてない?」
「今日、人多かったから」
「よかったじゃん」
「うん」
ひよりはすぐに頷いた。
「知らない人、ほんとにいっぱい来た」
ナツも鞄のファスナーを閉める。
「赤も黄色も紫も増えてたね」
「青も」
リオが付け足す。
「かなり」
「そうなの?」
ひよりが顔を上げた。アンが呆れた顔をする。
「見てなかったの?」
「目の前の人と喋ってた」
「だろうね」
「なんで分かるの」
「声聞こえてたから」
「そんな大きかった?」
「ずっと振付の話してたじゃん」
「聞かれたから」
アンが鼻で笑った。
「最初に真似したか聞いたの、まひるでしょ」
「……そうだったかも」
ナツが吹き出し、リオまで笑った。
「でも、また来るって言ってたよ」
「じゃあいいんじゃない?」
ナツが言う。
「うん」
ひよりは満足そうに頷いた。アンはそれを見てから、自分のスマートフォンを鞄へしまった。
*
空いている帰りの電車で、アンは端の席へ座った。膝に置いた鞄から、しばらくしてスマートフォンを取り出す。今日のイベント名を検索し、画面を送っていった。
「リトルフレア初めて見た。ライブ楽しかった」「赤の子、ダンス綺麗だった」「黄色の子、歌うまい」。
そして、「紫の子、写真より実物の方がかわいかった」。
アンの指が止まり、もう一度読むうちに口元が緩んだ。
「でしょ」
誰にも聞こえないくらいの声で言い、次へ送った。
――シュガー・ステップのまひるちゃんがいるグループ、初めて見た。ライブ楽しかった。
アンの親指が止まる。
悪いことは何も書かれていない。ライブが楽しかったと言っている。もう一度、画面を送った。
――まひるのグループ、また行きたい。
その投稿にも、いくつか反応がついていた。アンはしばらく文字を見た。PRISMIAと共演した日、大量の投稿の中に、リトルフレアの名前は少し混じっているだけだった。だから、自分でスマートフォンを構えた。まひるが何気なく踊ったとき、もう一回やってと言ったのも自分だった。
四人でも動画を撮り、リトルフレアの名前を覚えた人が出てきた。今日、実際にライブへ来た人もいて、自分の列にだって新しい客が来た。
アンは一つ前の投稿へ戻った。
――紫の子、写真より実物の方がかわいかった。
アンは少しだけ笑い、そのままもう一度下へ送った。
――まひるのグループ、また行きたい。
今度は笑えず、アンは画面を消した。
電車の窓に、車内の明かりが流れていく。
「……リトルフレアだから」
アンは膝の上の鞄を抱え直した。




