第23話 シュガー・ステップ
アンがひよりを見たまま、もう一度画面を更新した。
「何?」
「これ」
差し出されたスマートフォンを、ひよりは覗き込んだ。さっき撮った『シュガー・ステップ』の動画が流れている。練習着の自分が右へ踏み出し、肩を返して、胸の前で重ねた手を左右へひらく。動画が終わる前に、画面の下の数字がまた変わった。
「これがどうしたの?」
「もうこんな見られてる」
「多いの?」
「私のもさっき伸びてたけど、これは違う。早い」
アンの親指がコメントを開いた。
――この振付かわいい。
――真似できそう。
――青の子誰?
「あ」
ひよりは最後の一行を指した。
「私だ」
「そりゃそうでしょ」
「名前知られてない」
「そこ気にする?」
横からナツも画面を覗いた。
「ほんとだ。さっきより増えてる」
リオもタオルを首に掛けたまま寄ってくる。
「何で急に?」
「分かんない。だから見てんの」
アンはもう一度動画を再生した。十数秒。右へ一歩、反対へ一歩。間に肩と手の動きが入り、最後に片手が頬の横へ来る。
「やっぱ覚えやすいんだと思う」
「そう?」
「だって、さっきナツもリオも一回見て真似してたじゃん」
「私はできてたよ」
ナツが言う。
「最後間違えてた」
「ちょっとだけでしょ」
「リオは足逆だった」
「次は間違えないから」
リオが鏡の前へ一歩出た。さっきと逆の足から入ると、今度はひよりと同じところに着く。
「合ってる」
「知ってる」
「じゃあ褒めなくてよかった?」
「今の褒めたつもり?」
リオはタオルで顔を拭いた。ひよりには、なぜそこまでむきになったのか分からなかったが、足を間違えたままでは帰らないらしい。
その間にも、アンだけは画面から目を離さなかった。
「これ、もうちょい行くかも」
アンが画面を更新すると、ひよりが覗いている間にも数字が変わった。
「さっき見たときから増えた?」
「増えた。今も誰か見てんの」
「今?」
ひよりは思わず前髪に触れた。アンがその手を見て吹き出す。
「直しても、その動画は変わんないよ」
「分かってるよ。なんか気になるだけ」
アンは笑いながら、また通知を開いた。
ひよりはスマートフォンの中の自分を見た。休憩中に音が流れて、身体を動かした。ただそれだけだった。振付を作ろうと思ったわけでもない。アンにもう一回と言われて、同じように踊っただけだ。
「そんな面白いかな」
「面白いから見られてんじゃない?」
アンは当然のように言った。その顔が少し嬉しそうだったので、ひよりはそれ以上聞かなかった。
*
翌朝、会社の休憩室でスマートフォンを開くと、リトルフレアのグループチャットに未読が溜まっていた。
最初はアンの「起きて」で、その少し後には「起きろ」。ナツからは「朝からうるさい」、リオからも「何?」と返っている。
その下には昨夜の動画やコメント、知らない人の投稿が何件も並び、最後にアンの「もう真似してる人いる」があった。
ひよりは紙コップのコーヒーを机へ置いた。
「え?」
向かいの席に人がいたことを思い出し、慌てて声を小さくする。音量も下げてから、アンが送った動画を開いた。知らない女の子が、自分の部屋らしい場所で『シュガー・ステップ』を踊っている。女の子が右へ踏み出し、肩を返し、手をひらく。ひよりは途中で画面へ顔を近づけた。最後まで見て、もう一度最初へ戻す。アンに返信した。
――足逆じゃない?
すぐに既読がついた。
――そこ?
――だって逆だよ。
――真似されてることに驚け。
ひよりはもう一度見た。確かに、自分が昨日やった動きだった。少し違う。それでも、同じだ。会ったこともない人が動画を見て、覚えて、自分の部屋で踊っている。途中で一度足を間違えたらしく、その子は吹き出していた。そのまま笑いながら最後まで続けている。ひよりはそこをもう一度再生した。楽しそうだった。数字が増えたと聞いたときより、その笑っている顔を見たときの方が、変な感じがした。
――もう一人いる。
アンから次の動画が届く。今度は二人組だった。一人が途中で動きを忘れ、隣を見て慌てて追いついている。ひよりは笑った。
――これ面白い。
――だから伸びてるって言ってんの。
――そうじゃなくて、この二人。
返事が少し遅れた。
――そっちか。
ひよりはまた笑い、それから「アン当たったじゃん」と送った。今度はすぐ、「でしょ」と返ってきた。謙遜する気はまったくないらしい。それもアンらしかった。
*
金曜日の練習場へ入ったひよりは、靴を脱ぐより先にアンに呼ばれた。
「まひる、これ見て」
「また増えた?」
「見れば分かる」
差し出された画面を送ると、一人で踊る人、二人組、制服姿の女の子たち、部屋着の人が次々に現れた。みんな同じ曲に合わせ、同じところで右へ踏み出している。
「この人うまい」
「そこじゃないんだけど」
「こっち、最後変えてる」
「だから、そこじゃないって」
アンがスマートフォンを取り返した。
「今日、四人でも撮るよ」
ストレッチをしていたリオが顔を上げる。
「シュガー・ステップ?」
「そう」
ナツも鞄を置いた。
「また撮影?」
「今伸びてんだから、今やるの」
アンは当然のように答えた。ひよりは上着を脱ぎながら聞く。
「私のあるじゃん」
「まひるだけで終わったら意味ないでしょ」
「何が?」
「リトルフレア知られてないんだから」
アンが壁際にスマートフォンを置く。
「これ見た人に、四人いるって分かってもらうの」
そう言われて、ひよりは少しだけ黙った。昨日から増えているコメントの中には、「青の子誰?」が何度もあった。リトルフレアという名前を書いている人は、まだそれほど多くなかった。
「じゃ、まひる。もう一回やって」
「教えるの?」
「元なんだから教えて」
「短いよ?」
「いいから」
曲が流れる。ひよりは右へ踏み出した。最初に踊ったときよりも、身体が勝手に続きを選ぶ。肩を返し、手をひらいて、反対へ。最後の音に合わせて片手を頬の横へ持っていった。
「はい」
「早い」
ナツが笑った。
「もう一回お願い」
「さっき見てたじゃん」
「まひる基準でやらないで」
リオに言われ、もう一度やる。今度は三人も後ろで真似した。リオは最初の足こそ合っていたが、手をひらく位置が少し高い。ナツは最後に足が一歩余った。アンは動きながら、鏡よりも壁際のスマートフォンを気にしている。
「あれ?」
ナツが最後に止まった。
「一個多い」
「言ったじゃん」
「分かってる。今分かった」
「終わってから?」
「今!」
ナツが笑う。リオはすぐに最初へ戻った。
「もう一回」
「リオ、そこまで揃えなくていいよ」
アンが言った。
「撮るなら揃えた方がいいでしょ」
「揃えるけど、同じにしなくていい」
「どういう意味?」
「リオはそのままでいいって意味」
「説明になってない」
「もう、踊れば分かるから」
「アン、さっきからそれ多くない?」
ナツが笑う。ひよりもつられて笑った。
「じゃあ撮るよ」
アンが壁際のスマートフォンを確かめ、三人の隣へ並ぶ。すぐに曲が始まった。
リオは一つ一つの位置をはっきり見せ、隣のナツは肩を返すところで少し身体を弾ませた。同じ振付でも、踊っている感じが違う。アンが向きを変えたあと、目だけを早くカメラへ戻したので、ひよりはついそこを見てしまった。自分の足が半拍遅れる。
「まひる」
曲が止まった。
「何」
「今、私見たでしょ」
「見えたから」
「自分の振付で遅れないでよ」
「だってアンだけ顔違った」
「それ、この前も言ってたじゃん」
「今日も違った」
リオが吹き出した。
「本当に人のこと見すぎ」
「いるんだから見るでしょ」
「今は前見て」
「はい」
二回目。今度は最後まで止まらなかった。四人の足が揃って床へ着く。アンがすぐに撮った動画を確認した。
「これでいい」
「もう一回やらない?」
リオが覗き込む。
「いらない」
「私、最後ちょっと笑ってるけど」
ナツも横から見る。
「そこがいい」
「そう?」
「うん」
アンは迷わず投稿した。ひよりも画面を覗く。赤、黄、紫、青の四人は、同じ振付を踊っているのに少しずつ違って見えた。
「アンだけずっとカメラ見てない?」
「見てるよ」
「リオ、すごいきれい」
「まひる、また私見てるじゃん」
「今は動画見てるからいいでしょ」
「そういう話じゃない」
「ナツ、最後笑ってる」
「だから、それはいいって言われたの」
アンがスマートフォンを胸元へ引いた。
「もう投稿したから直せないよ」
「早っ」
「いいの撮れたんだからいいでしょ」
その言い方が最初に撮ったときと同じで、ひよりは少し笑った。
*
練習が終わる前には、四人版にも反応がつき始めていた。
「こっちも来てる」
アンが壁際に座ったまま言った。ひよりは隣へしゃがむ。
「最初のより?」
「元の方がまだ強い。でもこっちも全然悪くない」
コメントを見せてもらう。
――四人組なんだ。
――赤の子ダンスきれい。
――紫の子、前の動画にもいたよね。
――黄色の子かわいい。
下へ送ると、リトルフレアという名前を書いている人もいた。
「あ」
ひよりはそこを指した。
「名前出てる」
「公式から出してんだから、そりゃね」
「でも、この人、昨日までは知らなかったんでしょ」
アンの指が止まった。
「まあね」
口元が上がる。
ナツが水を飲みながら近づいてきた。
「アン、本当に当てたね」
「だから言ったじゃん」
「何回言うの」
「何回でも言う」
「はいはい」
ナツが笑った。アンも笑っていた。自分の動画が一番反応されたときと同じ、隠す気のない笑い方だった。
ひよりはまた画面を送った。一つ、読めない投稿が混ざっている。
「これ何?」
「どれ」
「これ」
名前も文章も日本語ではなかった。動画を開く。見たことのない部屋で、女の子が一人踊っている。後ろの棚に並んだ本も、壁に貼られた紙も読めない。けれど、流れているのは『シュガー・ステップ』だった。右へ踏み出して肩を返し、手をひらいて反対側へ。最後まで、ちゃんと同じ振付だった。
「え」
ひよりは身体を起こした。
「これ海外じゃない?」
アンが画面を取る。
「……っぽい」
「何て書いてあるの?」
「知らない」
「海外ドラマ好きじゃん」
「字幕で見てんの!」
すぐに返ってきた。ナツが声を上げて笑う。
「字幕派なんだ」
「普通でしょ!」
「海外好きっていつも言うから」
「旅行したいのと英語できるのは別!」
ひよりは笑いながら、もう一度動画を再生した。どこの国なのか分からない。リトルフレアを知っているのかも分からない。天野まひるという名前だって、たぶん知らない。それでも、自分が水曜日の練習場で何となく動いた振付を、その人は覚えて踊っている。
最後まで見てから、ひよりは画面をアンへ戻した。
「ちゃんと合ってた」
「そこはもういいって」
「でもすごくない?」
「何が?」
「こんな遠いところで踊ってる」
アンは一瞬だけひよりを見た。それから、また画面へ目を戻す。
「だから、届いたってことでしょ」
「うん」
今度は、ひよりもすぐに頷いた。新しい投稿が一つ増えた。アンが開く。二人組だった。
「また来た」
「見せて」
「自分ので見なよ」
「あ、そっか」
ひよりが自分の鞄へ手を伸ばしたところで、アンのスマートフォンに通知が入った。アンが先に四人版の投稿を開き、ひよりへスマートフォンを渡した。新しいコメントがついていた。
――リトルフレアっていうんだ。
ひよりはその一行を少し眺めた。
「アン」
「何?」
画面を見せる。
「これ」
アンが読む。ひよりは言った。
「名前、覚えてる人いる」
アンは返事をしなかった。代わりに、笑った。
「そう」
スマートフォンを受け取る。
「それが欲しかったの」
もう一度画面を更新すると、また新しい反応が増えていた。アンの目が細くなる。今度は迷いなく、楽しそうだった。
「これ、まだ伸びるよ」
「まだ?」
「まだ」
練習場の壁際で、またスマートフォンが鳴った。




