第22話 撮るよ
水曜日の練習は、いつも通りに始まった。鏡の前に四人で並び、一曲目を通したところで、リオが手を上げた。
「まひる。二番の移動、ちょっと早い」
「早かった?」
「半歩くらい」
「半歩?」
「それくらい」
同じところからやり直す。今度は急がないよう気をつけすぎて、反対側から来たナツと肩が触れそうになった。
「近い近い」
「ごめん」
「半歩、考えすぎじゃない?」
「考えないと直らないじゃん」
「考えてぶつかってるけど」
ナツに笑われた。リオは笑わない。
「もう一回」
「厳しいなあ」
壁際で見ていたアンが言うと、リオがすぐ振り返った。
「アンも最後、ずれてたよ」
「どこ」
「向き変えるところ」
「先に言ってよ」
「今言った」
「感じ悪」
そう言いながら、アンも立ち位置へ戻った。三度目でようやく誰も止めなくなり、そのまま最後まで曲を通す。音が切れた瞬間、ひよりは鏡の前で膝に手をついた。
「暑い」
「休憩しよ」
ナツが壁際のペットボトルへ向かう。ひよりも水を取りに行こうとしたところで、アンが先にスマートフォンを縦向きに持ち上げた。
「はい、撮るよ」
リオが首に掛けようとしたタオルを、額へ戻した。
「今から? せめて汗拭かせて」
「拭きながら聞いて。さっきのサビ、一人ずつ撮りたい」
アンはスマートフォンを構えたまま、鏡の前を空けるように手を振った。ひよりが画面を覗こうとすると、その手がこちらへ向く。
「まひるはあと」
「私も汗拭いてくればいい?」
「まひるは絶対めんどくさいから、最後」
「まだ何もしてないじゃん」
「リオ、そこ」
無視された。リオはタオルを首へ掛け、鏡の前へ立った。
曲が流れた。最初の音で、リオの顔が練習中のものに変わる。腕を伸ばし、大きく踏み込む。三歩目でアンが曲を止めた。
「でかい」
「何が?」
「動き。手、画面から消えた」
「踊れって言ったのアンじゃん」
「画面の中で踊って」
リオがスマートフォンを覗くと、伸ばした腕は肘から先が映っていなかった。
「……手、ないね」
「だから言ってるじゃん」
「ここ、止めるところまで見せたいんだけど」
リオは自分の手が消える画面の端を指したが、アンはもう撮り直すつもりでスマートフォンを構えている。リオはため息をつき、元の位置へ戻った。
「今度は、手まで入ってるか教えて」
二回目は腕を伸ばしきらず、踏み込む幅も少し狭くする。ひよりには、最初の方が気持ちよく見えた。けれど画面を覗いたリオは、
「ああ、こっちの方がちゃんと見える」
と納得した。
「次、ナツ」
「私?」
「歌って」
「急だなあ」
ナツは笑いながら前へ出た。アンが別の曲を流す。ナツは一節待ってから歌い始めた。狭い練習場では、伴奏よりナツの声の方が近く聞こえた。ひよりが聞き入っていると、次の歌詞へ入る直前で曲が切れた。
「そこ」
「え?」
「今のところ、もう一回」
「まだ途中なんだけど」
「今のが一番よかった」
「このあとサビだよ?」
「知ってる」
「じゃあサビまで行こうよ」
「長い」
ナツが眉を寄せる。
「歌ってる途中で切られるの、気持ち悪いんだけど」
「ライブじゃないし」
「曲なんですけど」
「動画です」
「話通じないなあ」
ひよりは吹き出した。リオも口元を押さえる。アンは笑わず、画面を見たままだった。
「もう一回。今のとこ」
「はいはい」
ナツが同じところを歌う。今度は途中で止まると分かっているからか、一度目より声が強かった。アンは画面を見たまま頷いた。
「いい」
「ほんと?」
「うん」
「じゃあ次は最後まで歌わせて」
「それはライブでやって」
「冷たい」
「次、まひる」
笑っていたひよりは口を閉じた。
「私、何するの?」
「踊る」
「また?」
「踊る人でしょ」
それは否定できない。ペットボトルを置き、鏡の前へ出る。アンのスマートフォンがまっすぐこちらを向いた。
「もう撮ってる?」
「まだ。今から」
曲が始まる。さっきリオが大きすぎると言われていたので、ひよりは少しだけ腕を小さくした。
「普通でいいよ」
「リオには大きいって言ったじゃん」
「リオはね」
「何が違うの?」
「まひるはその動きでも画面に入ってるから、そのままでいい」
よく分からないまま踊り直す。正面にはスマートフォン。その後ろにはアンがいる。ひよりは一度、レンズを見た。何も返ってこない。
次の振りで横を向くと、壁際に座ったリオがこちらを見ていた。そのまま次の拍子までリオを見る。
「まひる、こっち」
「見てるよ」
「見てない。今リオ見た」
「いたから」
「カメラ見て」
曲が止まった。アンがスマートフォンを下げる。
「なんでライブだとあんなに客見るのに、カメラ見ないの」
「客は人だから」
「私も人だけど」
「アンじゃなくて、その丸いところ見ろってことでしょ」
ひよりはレンズを指さした。
「そう」
「そこ見ても何もないじゃん」
「あとで人が見るの」
「ああ……」
分からなくはない。ライブなら、目が合えば誰かが笑う。腕を上げれば、客席から腕が上がることもある。声まで返ってくる。今あるのは、小さな黒い丸だけだった。
「もう一回」
「はい」
今度は意識してレンズを見る。見続けていると、だんだん自分の顔が固くなってくる。
「笑って」
「急に言われても」
「ライブでは勝手に笑うじゃん」
「誰かいるから」
アンが眉を寄せた。
「めんどくさ」
「だから最初に言ったじゃん」
「言ったの私だけど」
後ろでナツが笑った。
*
三人分を撮り終えると、アンは自分も撮ると言い出した。
「誰か持って」
「私やる」
ナツがスマートフォンを受け取る。
アンは鞄を開け、小さなリップを取り出した。鏡を見ながら、口元へ薄く重ねる。
「それ、新しい?」
ナツが聞いた。
「うん」
「また買ったの?」
「安かったし」
「バイク欲しいって言ってなかった?」
「だから貯めてるって」
「そういうのが積もるんじゃないの?」
「分かったって」
アンはリップのキャップを閉め、鞄へ戻した。
「前のと色違うし」
「まだ言うんだ」
「違うものは違うでしょ」
アンは鏡の前へ行き、汗で額についた髪を指先で直した。
「そこから動かさないで」
「大丈夫だよ」
「ほんとに」
「はいはい」
いつもの練習着のまま、髪を少し直しただけだった。さっきまでリオと言い合い、ナツの歌を途中で止め、ひよりに「めんどくさ」と言っていた顔と何も変わらない。
「いくよ」
ナツが画面に触れた。アンが顔を上げる。ひよりは、壁に背中を預けかけた姿勢のまま止まった。ほんの少し顎が動く。目がレンズへ向いた。それだけなのに、顔が変わった。
曲が始まる。アンは大きく動かない。けれど、手を頬の横へ持ってくる瞬間も、身体を返したあとに目線だけ戻す瞬間も、自然とそこを見てしまう。十数秒で終わった。
「今、顔変わった」
ひよりが言った。アンがこちらを見る。
「変えてんの」
「どうやって?」
「どうやってって……」
一度考えて、アンは肩をすくめた。
「こう見えた方がいいなって思ってるだけ」
「それで変わるの?」
「変えるの」
「すご」
「まひるもやればいいじゃん」
「できたらさっきやってるよ」
アンは鼻で笑った。
「じゃあ練習して」
「はい」
素直に返すと、アンの方が少しだけ拍子抜けした顔をした。
「戻るよ」
リオが声をかける。
「まだ休憩じゃないの?」
「十分休んだ」
「厳しい」
「半歩直ってないでしょ」
「あ」
「ほら」
ひよりは慌てて立ち上がった。
*
そこからもう一度、四人で曲を通した。二番の移動は急がなかった。ナツにも近づきすぎない。最後まで行き、音が止まる。
「今のは?」
ひよりが先に聞いた。リオが鏡越しに頷いた。
「よかった」
「やった」
「でも最後、アン遅れた」
「え、私?」
「半拍」
「嘘」
「ほんと」
「動画撮ってたからかな」
「関係ないでしょ」
アンは口では言い返しながら、誰より先に壁際のスマートフォンへ向かった。
「はい、今度こそ休憩」
ナツが床に座る。
「ちゃんと休もう」
ひよりも横へ座り、水を飲んだ。アンだけが立ったまま画面を見ている。
「あ」
「何?」
「さっきの、ちょっと伸びてる」
アンがスマートフォンをこちらへ向けた。投稿したばかりの動画が並んでいる。ひよりには、それぞれの数字が多いのか少ないのかよく分からない。
「どれ?」
「これ」
アンが自分の動画を開いた。他より反応が早いらしい。コメントもついている。
――紫の子、表情いい。
――この子かわいい。
「アンのが一番じゃん」
ナツが言った。
「だから言ったじゃん」
アンは笑った。遠慮も照れもなかった。もう一度、自分の動画を再生する。
「こういうのは見せ方なんだって」
リオも横から覗く。
「そんな違う?」
「違う」
「踊りは私の方が大きいよ」
「だから画面から出たんでしょ」
「途中から直した」
「直したから上げたんじゃん」
「まだ言う?」
二人が言い合っている横で、ひよりは自分の動画を開いた。最初から顔が固い。途中、一度だけ横を見ている。リオを見たところだった。
「これ、やっぱ変?」
ナツが覗き込む。
「最初、すごい真剣。何考えてたの?」
「カメラ見なきゃ、笑わなきゃ、あとリオ見ちゃ駄目だなって」
「忙しいねえ」
ナツに笑われ、ひよりも画面の中の自分を見て笑ってしまった。あれだけ考えたのに、結局リオの方を向いている。
アンはもう自分の投稿から離れていた。曲の一覧を次々と送っている。
「次、何使お」
「まだ撮るの?」
「今日じゃなくても使えるじゃん」
さっき自分の動画が一番伸びていたのに、もう次を探している。ひよりは壁に背中を預けた。足が少し重い。アンのスマートフォンから短い音が流れては止まり、「違うな」「これもなんか古い」と次々に飛ばされていく。やがて、軽い電子音が流れた。
「あ、これ」
ナツが反応した。
「最近よく流れてない?」
「『シュガー・ステップ』」
アンが画面を見たまま答える。
「また上がってきてる」
ひよりも聞いたことがあった。何度か短い動画で耳にしている。小さく跳ねるような音に合わせ、右足のつま先が一度、もう一度と床を叩く。その次の音では肩まで動いていた。座ったままでは続けづらくなり、ひよりはペットボトルを床へ置いて立ち上がった。
右へ一歩出ても、左足は寄せずに踵だけを内側へ入れる。胸の前で重ねた手が、次の強い音で左右へほどけた。肩を返して反対へ踏み出すと、小さく跳ねる音がまた来る。膝を弾ませ、最後は片手を頬の横へ持っていきながら、足を入れ替えた。
「ちょっと待って」
音が止まった。
アンだった。
「何?」
「今の、もう一回やって」
「今の?」
「そう」
ひよりは自分の足元を見る。
「どこから?」
「最初から」
「曲流して」
もう一度、『シュガー・ステップ』が始まった。ひよりは右足を出し、肩を入れ、手を開いて足を入れ替えた。二度目は、途中で順番を考える必要もなかった。最後まで動いて、ひよりはアンを見る。
「これ?」
アンはすぐには答えなかった。ひよりの足元から顔まで見て、それからようやく口を開く。
「それ、自分で考えた?」
「考えたっていうか……」
ひよりは両手を下ろした。
「別に振付作ったつもりじゃないけど」
「今の振付じゃん」
「そうなの?」
「そうでしょ」
アンがリオとナツを振り返った。
「今の覚えた?」
「多分」
ナツが立ち上がり、右へ一歩出た。
「こう?」
「最初もうちょい横」
「見てたの?」
ひよりが聞くと、ナツが笑った。
「見えるところで踊ってたからね」
リオも同じ動きを真似する。手を開くところは合っていた。足は逆だった。
「あれ?」
「リオでも間違えるんだ」
「一回しか見てないから」
「私だって、今やったばっかりだよ」
「まひると一緒にしないで」
「なんで」
笑いながら言ったひよりに、リオは何か返そうとした。その前にアンが立ち上がった。
「まひる、そこ立って」
「え?」
「撮る」
「さっき撮ったじゃん」
「これは別」
「またカメラ見るの?」
「見なくていい。踊って」
「それならいいけど」
アンはもう場所を決めていた。
「もう一歩下がって」
「ここ?」
「うん。そこで」
スマートフォンを構える。
「行くよ」
曲が流れた。ひよりは右へ踏み出した。作ったつもりなどなかったのに、身体はもう続きを知っている。足から肩、手へと動きをつなぎ、胸の前から左右へほどいて、最後に片手を頬の横へ持っていった。
アンが曲を止めた。
「もう一回やる?」
画面を確認していたアンが首を横に振る。
「いらない」
「一回だけ?」
「今のでいい」
「ほんと?」
「いいの撮れたから」
それならいいか。ひよりはすぐ鏡の前を離れた。
「リオ、次どこから?」
「最初から一回通そう」
「また最初?」
「さっき休んだでしょ」
「はいはい」
立ち位置へ戻る。背後では、アンの指がスマートフォンの画面を素早く滑っていた。ひよりはもう振り返らなかった。
*
練習が終わるころには、シャツの背中が汗で張りついていた。ひよりは床に座り、タオルで首を拭く。
「今日、長くなかった?」
「撮影してたからでしょ」
リオが答える。
「アンのせいじゃん」
「知らないし」
壁際から返ってきた。アンはまだスマートフォンを見ている。
「まだ見てるの?」
「うん」
「自分の?」
「違う」
画面を送っていた指が止まり、一つ前へ戻ったところで通知音が鳴った。アンは何気なく画面へ触れたが、すぐにもう一度、同じ音がした。
さっき自分の動画を見ていたときは笑っていた。今は笑っていない。
「どうしたの?」
ナツが顔を上げる。
「いや……」
アンが画面を更新した。目が少し細くなる。また数字が変わったらしい。ひよりも身体を起こした。
「何?」
返事はなかった。さらに通知が入り、アンの指が止まった。今度はスマートフォンではなく、ひよりを見る。
「……ちょっと待って」




