第21話 弱い
PRISMIAの三人が袖へ戻ってきた。ステージではまだ名前を呼ぶ声が続いている。
「レナー!」
「ユイー!」
「ミアー!」
その声を背に、レナは額に張りついた髪を指で払い、ユイはスタッフから受け取ったタオルを首へ掛けた。ミアも息を弾ませながらペットボトルの蓋を開けている。さっきまで別世界みたいなステージを作っていた三人が、今は普通に汗をかき、肩で息をしていた。
「お疲れさまでした」
最初にミアが気づいた。
「あ、お疲れさまでした」
ナツが返し、アンも頭を下げる。
「お疲れさまです」
ひよりも続いた。リオだけ、ほんの少し遅れた。
「……お疲れさまでした」
レナたちはそれ以上何も言わなかった。勝った顔もしない。こちらの様子を気にするでもない。スタッフに呼ばれると、三人揃って次の場所へ歩いていく。ひよりはその背中を見送った。少し前まで、あんなに遠く見えたのに。降りてしまえば、同じ通路を歩いている。
*
控室へ戻る途中にも、別のステージから音が聞こえていた。もう夕方が近い。朝から照りつけていた日差しは少し弱まり、そのぶん昼間には目立たなかったステージ照明やペンライトが色を持ち始めている。通路では別のグループのTシャツを着た客が、次の出演表を見ながら早足で行き交っていた。フェスはまだ終わっていない。四人が何を思っていようと、次のグループは歌い、その客は歓声を上げている。
控室へ入ると、アンがすぐ椅子へ座った。ナツもその隣へ腰を下ろす。ひよりは冷えたペットボトルを頬へ当てた。ステージでは汗が流れていたのに、今度は冷房が強すぎる。
リオだけは座らなかった。壁際に立ち、空になったペットボトルを持ったまま黙っている。いつもなら、何か言う。今日の位置はよかったとか、ここは少しずれたとか、四人が揃っていたとか。
何も言わない。
外から歓声が聞こえた。誰のライブなのかは分からない。ナツがペットボトルを両手で挟んだ。
「まあ……向こう、メジャー二年目だし」
「だから?」
アンの返事が思ったより強かった。ナツが顔を上げる。
「別に言い訳してるわけじゃないけど」
「してるみたいに聞こえた」
「じゃあ何。二年分の差とか関係ないって言いたいの?」
「そうは言ってない」
「じゃあ――」
ナツが言いかけ、口を閉じた。アンも視線を外す。いつもなら、どちらかがもう少し柔らかくするところだった。今日は誰もしなかった。
ナツはしばらく自分のペットボトルを見ていたが、やがて小さく言った。
「……私も悔しいよ」
アンが一度だけ横を見る。
「歌、失敗してないと思ったし」
「うん」
ひよりはすぐ頷いた。
「よかったよ」
「ありがと」
ナツは少しだけ笑った。いつもの笑い方にはならなかった。ひよりは頬からボトルを離した。
「でも、今日の私たちも悪くなかったよね」
三人の視線が集まった。
「ナツさんが歌ったら、ずっとスマホ見てた人もこっち見たし。後ろからも声返ってきたし」
ナツの表情が少し動く。
「最後、知らない人も『フライング・ハート』踊ってた」
アンが背もたれへ身体を預けた。
「悪くなかったよ」
「でしょ?」
「悪くなかった」
そこで一度、言葉が切れた。
「悪くなかったのに、あれだけ違った」
ひよりは返せなかった。
間違えたところがあれば、そこをやり直せばいい。けれど今日は、思い出すのが客の笑った顔ばかりだった。ナツが声を伸ばし、四人で最後の腕を上げたところまで、もう一度そのままやりたいくらいなのに。
それを三人へ言っても、さっきの歓声は小さくならない。ひよりは、膝の上で握っていたボトルを持ち直した。
「……あのスマホ見てた人さ」
「何?」
アンが顔を上げた。
「ナツさんが歌って、やっとこっち見たでしょ。向こうは出てくる前から、待ってた」
「知ってるからね。曲も、三人も」
アンはテーブルに置いたスマートフォンを見た。
「うちらは、そこから始めないといけないんだ」
「ああ……」
言われれば、当たり前だった。今日初めて見たリトルフレア。代表曲まで知っているPRISMIA。同じ客席に見えても、始まる前から同じではなかった。アンがテーブルの上のスマートフォンへ手を伸ばした。
「そもそも知ってる人数が違うじゃん。今日だって最初、PRISMIA待ちばっかだったし」
「でも」
久しぶりにリオの声がした。ひよりが振り向く。リオはまだ壁際にいる。視線は床へ落ちていた。
「見てくれた人にも負けてた」
アンの眉が寄る。
「何が?」
リオはすぐには答えなかった。
「……誰かが前に出ても、残りの二人まで見えた」
ひよりは、もう誰もいないステージを思い出す。レナが前へ出たときも、ユイとミアは消えなかった。
「私たち、ああなってない」
「だから、まず見てくれる人増やさないとって話でしょ」
「分かってる」
「じゃあ何?」
握っている空のボトルが、また少しへこんだ。
「……それで片づけたくない」
「片づけてないし」
「分かってるって」
今度はリオの声が少し強くなった。アンも口を閉じる。ひよりには、どちらが間違っているのか分からなかった。たぶん、どちらも別のことが嫌だった。けれど、今ここで聞く気にはなれなかった。
リオが急に壁から離れた。
「ちょっとトイレ行ってくる」
「リオ?」
「何?」
「いや……」
「すぐ戻る」
返事を待たずに出ていく。扉が閉まった。ナツがそれを見たまま何も言わない。アンもスマートフォンへ触れなかった。
*
リオは、思ったより長く戻ってこなかった。
「遅くない?」
ひよりが時計を見る。
「トイレ混んでんじゃない?」
アンはそう言ったが、画面を見ているだけで指は止まっていた。
ナツも何も言わない。
やがて扉が開いた。
「ごめん」
リオが戻ってきた。前髪の生え際が少し濡れている。目元も少し赤い。ひよりは何も聞かなかった。それでも目を向けた瞬間、すぐに気づかれた。
「何?」
「いや」
「じゃあ見ないで」
「……戻ってきたなって」
「戻るって言ったでしょ」
ひよりは頷いた。リオから目を外したあとも、濡れた前髪が気になった。いつもなら何か聞いてしまうところで、今日は黙ったまま、自分のボトルの蓋を触った。
リオは新しいペットボトルを一本取り、今度は椅子へ座った。誰もそれ以上、何も聞かなかった。蓋を開ける音がやけに大きく聞こえた。アンがスマートフォンを膝へ伏せる。
「……うちら、弱いね」
誰もすぐには否定しなかった。ひよりもできなかった。
ひよりは、さっきまで「悪くなかった」と答えてくれるのを待っていた。同じ言葉でもう一度喜べると思っていたのに、リオがこちらを見ないまま頷こうとするのを見て、口を閉じた。
リオが水を一口飲んだ。
「……うん」
ナツも少し遅れて頷いた。それで終わった。
*
しばらくして、アンがまたスマートフォンを開いた。
「何見てるの?」
「今日のフェス」
検索画面を開いているらしい。アンの親指が何度か上へ滑る。
「PRISMIA多いな」
「やっぱり?」
「ほら」
ひよりも隣から覗いた。さっきのライブ動画にレナの写真、『君色シグナル』の感想。ユイの歌やミアのコール&レスポンスについての投稿もある。少し下へ行っても、またPRISMIAの名前が出てきた。
「すご」
「そこで感心しないでよ」
「だって多いじゃん」
アンがさらに画面を送った。
「あ」
指が止まる。
「何?」
「うちら」
遠くから撮られたリトルフレアの映像だった。投稿には短く、
『リトルフレア初めて見た。黄色の子、歌よかった』
と書かれている。ナツが身体を寄せた。
「え、ほんと?」
「ナツさんじゃん」
「見せて」
アンがスマートフォンを少し傾ける。ナツは一度読んでから、もう一度読んだ。
「……ほんとだ」
「何回読むの」
「いいでしょ」
ひよりも笑った。
「他には?」
「ちょっと待って」
アンがまた画面を送った。PRISMIA、別のグループ、またPRISMIA。その間に、今度はリトルフレアの名前が一つだけ混じった。
『初見だったけど普通に楽しかった。また見たい』
ひよりがすぐ反応する。
「あるじゃん」
「あるよ」
「ちゃんとある」
「ゼロだとは言ってないし」
アンはそう答えながら、さらに画面を送った。次にはまた、PRISMIAの写真が何件も続いた。さっき少し上がった空気が、そこで止まる。アンの指も止まった。
「知られてないならさ」
三人がアンを見る。アンは画面から顔を上げた。
「まず、知ってもらうしかないじゃん」




