第19話 悪くなかった
最初の音に合わせ、四人の足が揃って前へ出た。冷房の効いた袖を離れた途端、肌へまとわりつく空気が変わる。ステージの照明に、午後の日差しと大勢の客がつくる熱まで混じっていた。
ひよりは右腕を上げながら、客席の端を見る。さっきからスマートフォンを見ていた男は、まだ下を向いている。隣の友人がステージへ顔を向けても、親指だけが画面の上を動いていた。
ほんとに見ないんだ。
「まひるー!」
前方から声が飛ぶ。眼鏡の男が青いペンライトを高く上げていた。少し右には黄色い光。何度か来てくれている女性だ。その周りには、何も持っていない人もいれば、別のグループのTシャツを着た人もいる。PRISMIAのタオルを首へ掛けた女性は、ステージを見ながらまだ隣の友人と何か話していた。いつものライブハウスとは、客席の色がまるで違う。誰を見に来たのか分からない客の方が多い。
ひよりはアンの後ろを抜け、次の位置へ入った。
もっと大きく動けば、あの男も気づくかもしれない。一瞬だけ考える。けれど、四人で合わせてきた振付がある。
ひよりは決められた位置まで踏み込み、伸ばした腕を音に合わせて強く止めた。胸元の青いリボンが跳ねる。
次の小節で、ナツが前へ出た。黄色いスカートが大きくひらき、マイクが上がる。声が伸びた。柔らかいのに、広い場所でも埋もれない。離れた別ステージから低い音が風に乗ってきたが、その上をナツの声がまっすぐ抜けていく。ひよりは後ろへ下がりながら、思わずそちらを見た。身体を動かしながらなのに、高い音へ上がっても声が細くならない。
客席で、それまで友人と話していた女性が口を閉じた。腕を組んでいた男が顔を上げる。PRISMIAのタオルを掛けた女性も、ナツを見る。
ひよりは客席の端へ目をやった。スマートフォンの上で動いていた親指が止まっていた。やがて、男の顔が上がる。ほんの数秒だった。それでも確かにステージを見た。
ひよりがさっきから気にしていた相手を振り向かせたのは、自分ではなかった。ナツの歌だった。
当のナツは、その男には気づいていない。別の場所を見ていた。黄色いペンライトの女性が、ナツを見上げていた。周りの客がようやく顔を向ける中、その人の腕はもう高く上がっている。ナツの口元がわずかに緩む。歌は切らさない。大きく手を振ることもしない。ただ一瞬だけ目を合わせて笑った。黄色い光が、もう一度高く上がった。
ひよりまで嬉しくなる。
サビへ入った。
「この声、君まで届け!」
四人の声が重なる。前方の客が一斉に腕を上げた。赤、黄、紫、青。その間には、ペンライトを持っていない手も混じっている。ひよりは身体を返した。ナツの歌で顔を上げた客が、まだステージを見ている。
今度はリオが前へ出た。大きく踏み込み、次の音で止まる。四人の足が同じ拍子に収まった瞬間、客席から声が上がった。
反対側からアンが前へ出る。正面だけではなく、少し離れた客へも笑顔を向ける。さっきまで腕を組んでいた男が、今は口元を緩めていた。
先週とは違う。モールでは、一度こちらを見ても、すぐにみんな自分の行き先へ戻っていった。今日は、一度こちらを向いた顔が残っている。
曲が終わり、拍手が広がった。
「ありがとうございます!」
リオが声を上げる。
「リトルフレアです!」
「知ってるー!」
間髪入れずに返ってきた。タンクトップの男だ。アンが吹き出した。
「声でかっ」
客席にも笑いが起きる。
「褒めてないからね」
「ありがとー!」
「聞いてないし!」
また笑いが広がった。屋外の大きなステージなのに、一瞬だけ客席が近くなる。ナツがマイクを上げた。
「まだいけますかー!」
「おー!」
前方から声が返る。眼鏡の男、タンクトップの男、黄色い女性。いつもの顔が多かった。ナツは客席を見渡した。片手を耳へ当てる。
「え、今ので終わり?」
さっきより大きな声が上がった。ナツが笑う。そのまま次へ行くかと思った。けれど、視線がさらに奥へ動いた。一段高くなった後方には、まだ腕を組んでいる人もいる。
「後ろの方、まだ元気ある?」
一瞬だけ間が空いた。
それから、少しばらばらな「おー!」が返ってきた。
前方ほど大きくない。揃ってもいない。それでも、ひよりが聞いたことのない声がいくつも混じっていた。
ナツの目が丸くなる。すぐに顔いっぱいで笑った。
「あるじゃん!」
今度は前方まで一緒になって声を上げた。歓声がステージへ返ってくる。ひよりの身体がむずむずした。自分も何か言いたくなる。横を見ると、アンも楽しそうに客席を見ていた。リオは笑いながら、もう次の曲の位置へ動いている。ひよりも自分の場所へ戻った。イントロが始まった。
*
二曲目に入る頃には、最初にあった「次のグループを待っているだけ」の空気が薄れていた。
アンが紫の袖を振りながら前へ出る。さっきナツの歌で振り向いた客へも、最初から自分を見ていた相手と同じように笑いかけた。リオのパートでは、赤を持っていない客まで身体を揺らしている。ナツが歌えば、客の視線がまた中央へ集まる。
ひよりの順番が来た。
「まひるー!」
眼鏡の男が上げた青の隣に、知らない女性がいた。目が合うと、女性は少し驚いた顔で自分を指さす。ひよりも頷き、あなた、と伝えるつもりで笑った。女性の顔がぱっと変わった。
次の拍子が来る。ひよりは決められた振付のまま身体を返した。背中側から、小さな歓声が聞こえる。振付を変えなくても返ってきた。それが、なんだか嬉しかった。
四人の位置がまた入れ替わる。揃った瞬間、今度は拍手が起きた。その向こうでは、出演表を見ながら客が行き交っている。別のステージへ向かう人もいれば、こちらへ入ってくる人もいる。それでも今、目の前にいる人たちはリトルフレアを見ていた。
*
「最後の曲です!」
ナツが言う。客席から残念そうな声が上がった。ひよりの胸が跳ねる。もっとやりたい。その気持ちを抱えたまま、位置につく。
「『フライング・ハート』!」
最初の音が鳴った。初めてステージに立った日の曲。あのときは、自分がどこへ立つのかを間違えないだけで精いっぱいだった。客席を見ることすら怖かった。
今は、前へ出た先で誰と目が合うかを楽しみにしていた。眼鏡の男の青を見つけ、その奥へも目をやると、鉢巻の男が曲に合わせて手を叩いている。ペンライトは暗いままでも、腕はもう組んでいなかった。
その周囲の知らない顔まで、同じところで身体を揺らしている。次のサビにはあの人たちも入ってきてくれるだろうか。ひよりは客席を向いたまま、腕を伸ばす拍を待った。
サビで腕を伸ばすと、前から同じ動きが返り、少し遅れてその後ろでも誰かが真似した。ナツの歌に身体を揺らしていた黄色い女性の隣でも、知らない人がサビの手振りを追っている。
ナツも気づいて、一瞬だけ目を大きくした。次の歌詞へ入る頃には、さっきよりもっと楽しそうに笑っている。ひよりも笑い、リオと位置を入れ替えてアンと並んだ。四人の腕が一緒に上がった。
「はい! はい! はい!」
声が返る。前方だけではなかった。少し離れたところからも、今日初めて聞く声が重なった。ひよりは、最後のサビがもう一回来ればいいのにと思った。初舞台でも、もっと客の声を聞いていたかった。今日は、ナツの歌で顔を上げた人たちが、次の曲になっても四人を見ている。リトルフレアを待っていたわけではない人たちまで。次に四人で腕を上げたら、あの人たちは何を返してくれるだろう。もう少し見ていたかった。
最後の音で四人の動きが止まる。一拍遅れて、拍手が押し寄せた。
「リトルフレアー!」
「ナツー!」
「まひるー!」
知らない声も混じっていた。ひよりは息を弾ませながら客席を見る。黄色い女性が両手でペンライトを振っている。その周りでも何人かが拍手していた。客席の端では、さっきまでスマートフォンを見ていた男も、画面を下げたままこちらを見ている。
四人で頭を下げた。
「ありがとうございました!」
*
袖へ戻ると、冷房の風が汗ばんだ腕へ当たった。
「今の、よくなかった?」
ひよりは振り返りながら言った。
「まひる、まだ戻りきってない。そこ空けて」
レイに肩を押される。
「あ、ごめん」
「あと水。先に飲む」
「はい」
壁際へ寄ると、アンも戻ってきた。
「でも普通によかった」
「でしょ?」
「なんでまひるが得意げなの」
「してないよ」
「してる顔」
最後にリオとナツが入ってきた。四人とも汗だくだった。佐伯からペットボトルを受け取り、ひよりは蓋を開けながらナツを見る。
「ナツさん」
「ん?」
「さっきの人、顔上げたよ」
「誰?」
「ずっとスマホ見てた人」
「ああ。まひるが気にしてた人?」
「うん」
ナツがボトルを口へ運びかける。
「ナツさんが歌ったとき」
その手が止まった。
「ほんと?」
「ほんと。最初そこばっかり見てたから」
「そこばっかりは見ないでよ」
「違うって。最初だけ」
ナツが笑った。
「黄色の人は、ナツさんも見えてたでしょ?」
「うん」
「でも、あの人も見た。他にも結構見てたよ」
ナツの目が、黒いカーテンの向こうへ向く。もう客席は見えない。
「……そっか」
ボトルを一口飲んだ。
「じゃあ今日、ちゃんと届いたんだ」
「うん」
アンがタオルで首元を押さえながら口を挟む。
「今日、かなり返ってきてたしね」
「後ろからも聞こえた」
ナツがすぐ答えた。
「あれ、ちょっとびっくりした」
「ナツさん本人がびっくりしてどうするの」
「するでしょ。いつもより全然多かったもん」
リオが水を飲み終え、ボトルを下ろした。
「四人も揃ってたと思う」
ひよりはすぐそちらを見る。
「じゃあ、今日よかったよね」
「うん」
リオは少し考えてから言った。
「悪くなかった」
アンが眉を上げる。
「その言い方だと微妙なんだけど」
「違う。かなりよかったって意味」
「最初からそう言えばいいじゃん」
「じゃあ、かなりよかった」
「急に軽い」
ナツが吹き出した。ひよりも笑う。喉は乾いているし、まだ身体も熱い。それでも、さっきの客席をもう一度見たかった。
「はい、喜ぶのはいいけど通路空けて」
レイが手を叩いた。
「次の人たち来るから」
ひよりの手が止まる。次。PRISMIA。
「見るの?」
アンが聞いた。
「見る」
「即答」
「だってリオが、見れば分かるって」
リオも近くへ来る。
「言ったけど」
「じゃあ見る」
「そんな宣言しなくていいから」
ナツも隣からカーテンの向こうを覗いた。アンまで結局、その横へ入る。
空はまだ明るい。ただ、午前中の白い光はもうなく、昼には目立たなかったステージ照明が少しずつ色を持ち始めていた。客席も動いている。別のステージから来たらしい人たちが横から入り、空いていた場所へ詰めていく。
「増えてない?」
「PRISMIAだけ見る人もいるから」
アンが答える。
「今来たの?」
「フェスなんだから、そういう人もいるでしょ」
「ああ……そっか」
見慣れた顔は、まだ客席に残っている。青や黄色の光も見え、ひよりはさっき自分たちへ返ってきた拍手を思い出した。あの人たちは、次の三人をどんなふうに見るのだろう。
PRISMIAのタオルを掛けた女性は、もうそれを首から外し、両手で持って待っていた。
客席の端では、あのスマートフォンの男もまだいる。ただし、もう画面は見ていなかった。男はスマートフォンをポケットへ入れた。司会者がステージへ出る。まだ名前も呼ばれていないのに、客席のあちこちから声が飛んだ。
「レナー!」
「ユイー!」
「ミアー!」
ひよりの指が、ペットボトルのラベルへ食い込む。
司会者がマイクを上げた。
「続いては――」
一瞬だけ間を置く。
「PRISMIA!」
歓声が膨らんだ。ひよりの肩が反射的に引ける。前方だけではない。少し離れた後方からも、いくつもの声が重なってくる。さっきまでリトルフレアのC&Rに声を返していた人たちも、最初から笑っている。スマートフォンを見ていた男まで、両手を上げて叫んでいた。
三人がステージへ出る。歓声が、さらに大きくなる。ひよりは隣を見る。ナツはペットボトルを口元へ運びかけたまま、客席を見ていた。ひよりは何か言おうとしたが、すぐには声が出なかった。
まだ、三人は踊ってもいない。
ついさっきまで自分たちへ返ってきていた声が、今は袖のひよりを置いて、ステージの奥まで押し寄せていく。同じ客席のはずなのに、急にずっと遠くなったように見えた。




