第16話 また来た
その次の土曜日。舞台袖から客席を覗くと、今日も青い光があった。まだ開演前なので、ペンライトは膝の上に置かれている。眼鏡の男は隣の客と何か話しながら、ときどきこちらの袖へ目を向けていた。
その少し離れたところには、タンクトップ姿の男もいる。今日はまだ何も叫んでいない。ひよりは少しだけ安心した。
「何見てるの?」
隣からアンに聞かれた。
「いつもの人たち」
「いつものって」
「あの眼鏡の人と、声でかい人」
「名前じゃなくて特徴しか覚えてないじゃん」
「だって名前知らないもん」
「向こうはまひるって知ってるのにね」
「それ言われると、なんか嫌だな」
ひよりはもう一度、客席を見た。鉢巻の男もいた。前のリトルフレアを長く見ていた人だと、レイから聞いている。今日も腕を組み、ステージを見ながら誰かと話していた。
来てはくれる。でも、まだ誰の色も振らない。それでも何度も同じ顔を見るようになり、以前より客席が近く感じるようになっていた。
「あ」
後ろでナツが声を出した。ひよりが振り返る。
「何?」
「んーん」
ナツは首を振った。
「何でもない」
「今、絶対何か見つけたじゃん」
「あとで」
「何それ」
ナツは答えず、黄色い飾りの位置を鏡で確かめ始めた。
「はい、そろそろ行くよ」
レイの声が飛んできた。黒いパーカー姿で、もう完全にスタッフ側へ馴染んでいる。
「アン、水飲んだ?」
「飲んだ」
「リオ、マイク確認した?」
「した」
「ナツ」
「大丈夫」
「まひる」
「はい」
レイが一瞬こちらを見る。
「……あんたは返事だけは一番いいわね」
「いいことじゃないですか」
「いいから行く!」
背中を押され、ひよりは笑いながら袖の入口へ向かった。客席の話は、そこで頭から抜けた。
*
最初の曲が始まり、赤、黄、紫、青の四人がライトの中へ飛び出した。腕を揃え、強い音へ合わせて一歩踏み込む。
「リオー!」
「ナツー!」
「アンー!」
「まひるー!」
名前が順番に飛んでくる中、ひよりは青いペンライトを見つけて腕を伸ばした。眼鏡の男が大きく振り返してくる。
もう、あの人とは何度目だろう。最初のライブでは、自分の名前すらなかった。あの人が客席で初めて青をつけてくれた。今では、曲が始まる前から青を持っている。
ひよりが身体を返すと、入れ替わりにナツが前へ出た。マイクを上げた瞬間、その声がひよりの横を抜け、客席まで真っすぐ飛んでいった。
やっぱりうまい。練習でも何度も聞いているのに、ライブで聞くと少し違う。
歌うナツが手を伸ばした先で、黄色い光が上がった。次の位置へ移動しながら目で追うと、少し奥にいる若い女性の顔が見えた。先週、別のグループのタオルを首に掛けたまま、ナツのチェキを撮りに来た人だった。
今日は、そのタオルがない。手にあるのは黄色いペンライト。
ナツが笑った。振付で作る笑顔とは少し違った。知っている人を見つけたときの顔だった。
――さっきの「あ」って、この人?
考えたところで、自分の番が来た。リオが横を抜ける。ひよりは一歩前へ入り、伸ばした腕を音に合わせて止めた。
「まひるー!」
青い光が跳ねた。反対側からも声が飛ぶ。ひよりはそちらへ顔を向けた。考えるのは、あとでいい。今は目の前にいる人を見たかった。
*
二曲を終えたところで、ナツがマイクを両手で持った。
「みんな、まだ元気あるー?」
「おー!」
前の方から声が返ってくる。
「まだ出せる?」
「おー!」
「もっと!」
「おおおおおおおっ!」
一人だけ、妙に長い声が混ざった。ひよりは吹き出した。アンもすぐに気づく。
「ちょっと待って。一人だけ元気すぎない?」
客席から笑いが起きた。タンクトップの男が胸を張っている。
「お前でしょ!」
アンが指す。
「まだいけるぞー!」
「知ってる!」
また笑いが広がった。ひよりも笑いながら客席を見る。以前なら、こういうとき何をすればいいのか分からず、ナツやリオを見ていた。今日は客席の方を見ていられる。ナツがこちらへ視線を送った。
「じゃあ行くよ!」
マイクを上げる。
「リトルー!」
「フレアー!」
声が返った。ひよりの身体が少し浮く。前の方だけではない。少し後ろからも聞こえた。
「もう一回! リトルー!」
「フレアー!」
今度は大きい。眼鏡の男も叫んでいる。タンクトップの男は当然叫んでいる。さっきの黄色い女性も、ペンライトを上げながら声を出していた。その横では、鉢巻の男の口も動いた。
ひよりは目を見開いた。ほんの一瞬で、男はすぐ腕を組み直してしまった。
でも、今、言った。
「もう一回!」
気づけば、ひよりが声を出していた。
ナツが振り返る。
「やるの?」
「やる!」
アンが笑う。
「まひるが一番乗ってるじゃん」
「いいでしょ!」
リオもマイクを上げた。
「じゃあ最後!」
四人で息を合わせる。
「リトルー!」
「フレアー!」
さっきより大きな声が返ってきた。ひよりは思わず両腕を上げる。
「よし!」
客席から笑いと拍手が起きた。
「まひる、曲!」
「あっ」
リオに言われた瞬間、次の曲の前奏が流れ始めた。
「早い!」
「決まってるんだから!」
慌てて位置へ戻る。客席がまだ笑っていた。ひよりも笑ったまま、最初の腕を伸ばした。
*
「今日、声大きかったよね」
ライブが終わり、物販の準備をしているとアンが言った。
「タンクトップくんが?」
ひよりが聞く。
「全体!」
「あの人、何人分くらいあるんだろ」
「三人分くらいじゃない?」
「そんなある?」
「あるでしょ」
「本人に聞いてみれば?」
ナツが笑う。
「声量何人分ですかって?」
「失礼すぎるよ」
リオが呆れた。
話している間にも、物販へ客が流れてくる。ひよりの前には眼鏡の男が並んだ。最近は顔を見れば、どこにいた人か分かる。
「今日、三回やりましたね」
眼鏡の男が言った。
「何が?」
「リトルー、フレアーってやつ」
「ああ」
「まひるちゃんが『もう一回』って言って増やしたでしょ」
「増やしたって、ちゃんとみんなもやったじゃないですか」
「だってナツちゃんびっくりしてたし」
「でも、三回目が一番大きかったでしょ?」
「こっちが返事する前から、まひるちゃん腕上げそうだったし」
「そこまで見なくていいです」
男が笑った。ひよりはあのときの自分の腕を思い出そうとして、やめた。もう一回やれば、もっと声が来る。そう思った顔まで見えていたのだろう。
「声出す方も必死なんですよ」
「それは見えてました。だから、もう一回やりたくなったんです」
言い返してから、少し恥ずかしくなった。ステージにいるときは平気で求められたのに、本人を前にすると、随分欲張った気がしてくる。
「今になって恥ずかしがるの? ステージでは平気だったのに」
「ステージはいいんです」
「じゃあ今は?」
「今は近いから別です」
男がまた笑う。ひよりも笑いながらチェキを受け取った。
その向こうで、黄色いものが目に入った。さっき客席にいた女性だった。ナツの前には、誰も並んでいなかった。女性はほかの列へ目も向けず、まっすぐナツの正面へ歩いていった。
「まひるちゃん?」
「あ、ごめんなさい」
眼鏡の男へ顔を戻す。
「今、他の人見てた?」
「見てないです」
「見てたじゃん」
「ステージではいいって言ったじゃないですか」
「今ステージじゃないよ」
「……ほんとだ」
自分で言ってから笑ってしまった。
*
列が途切れたところで、ひよりは隣を見た。ナツの前に、あの女性がいる。
「先週、一枚撮ったんですけど」
女性が言った。ナツはすぐに頷いた。
「覚えてるよ」
女性の目が少し大きくなった。
「ほんとですか?」
「うん。この前、別のグループ見に来てたんだよね」
「そうです」
「歌よかったって言ってくれた」
「覚えてる……」
女性が笑った。
「今日、リトルフレア見るために来ました」
「え、ほんと?」
ナツの声が少し高くなる。
「はい。また来ました」
ナツが笑った。ステージの上で黄色い光を見つけたときと、同じ顔だった。
「ありがとう。嬉しい」
二人で並び、チェキを撮る。撮り終わっても、女性はすぐには帰らなかった。
「今日の二曲目、好きです」
「ほんと? あれ私も好き」
「サビの高いところ、すごかったです」
「そこ褒めてもらえるの嬉しいな」
「先週、それ聴いて、もう一回ちゃんと聴きたいなって思って」
ナツが一瞬、言葉を止めた。
「じゃあ、今日も歌ってよかった」
女性が笑って頷く。そこからまた、自然に会話が続いていった。ひよりは自分の列が空いているのをいいことに、しばらく横目で見ていた。
「見すぎ」
反対側からアンに言われた。
「だって」
「何?」
「ナツさん、あの人覚えてた」
「そりゃ覚えてるでしょ」
「一回来ただけだよ?」
「一回喋ってるじゃん」
アンまで同じことを言う。
「みんなそんな覚えてるの?」
「全員は無理だけど、何回か来てくれた人とか、話したことくらいは」
「私、自信ない」
「眼鏡くんのことは覚えてるじゃん」
「あの人は最初からいるから」
「タンクトップくんは?」
「声がでかい」
「それ顔じゃないじゃん」
「分かるからいいでしょ」
アンが笑った。
少しして、女性がナツへ手を振って帰っていく。ナツも最後まで手を振っていた。ひよりは、その背中が見えなくなるのを待ってから声をかけた。
「ナツさん」
「ん?」
「何話したら、あんなに続くんですか」
「今聞いてたでしょ。歌の話」
「途中からしか聞いてないです」
「自分のお客さんいたもんね」
「そっちはちゃんと喋りました」
ナツが笑ったので、ひよりは少しだけ口を尖らせた。聞かれたことには答えられるし、ステージで見たことなら自分から話せる。ただ、向こうが次の言葉を選んでいる間まで見つめていていいのか、まだ迷ってしまう。ナツには、その迷いがないように見えた。
「話してないとき、どこ見てればいいのか分からなくて」
「まひる、客席では自分から見つけるじゃん」
「ステージなら」
「じゃあ近くでも見ればいいでしょ」
「近いんですよ」
ナツが吹き出した。
「まだそれ言ってるの?」
「だって本当に近いんだもん」
「ステージの最前なんてもっと近いじゃん」
「動いてるからいいの」
「何その理屈」
「分かんないけど違うの!」
ナツが笑う。ひよりも言い返しながら、さっき帰っていった女性の方をもう一度見た。もう姿はない。
先週は、別の誰かを見るために来ていた。今日は黄色を持って、ナツを見に来た。客席に増えたのは、たった一本の黄色だった。けれどナツは、ステージへ出る前からその一人を見つけていた。
*
「今日、ちょっとよくなかった?」
片づけをしながらアンが言った。
「何が?」
リオが衣装を畳みながら聞き返す。
「客席。声」
「ああ」
リオも頷く。
「二回目、後ろからも返ってきた」
「三回目はもっと大きかったよ」
ひよりが言う。
「三回目はまひるが急に増やしたやつね」
「でも、みんなやってくれたじゃん」
「予定にはなかったじゃん」
「でも返ってきた」
「それは返ってきたけど」
アンは少し笑った。
「タンクトップくん、今日もすごかったし」
「やっぱりあの人のおかげじゃん」
「全部一人じゃないって」
ナツが笑いながら鞄のファスナーを閉める。
「黄色の人も『フレアー』って返してたよ」
ひよりが言った。ナツが顔を上げる。
「見てたの?」
「見えるから」
「ステージから?」
「うん」
「よく見つけたね」
「ナツさんも見つけてたじゃん」
「あ」
「最初に『あ』って言ったの、あの人でしょ」
ナツが少し驚いた顔をした。
「そこまで見てたの?」
「見えるって言ってるじゃん」
「怖いなあ」
「何で!」
アンが笑い、リオまで口元を緩めた。
「はいはい、楽しそうなところ悪いけど次の予定ね」
レイが紙を一枚持って入ってきた。
「来週はいつものライブハウスじゃないから」
ひよりが顔を上げる。
「どこ?」
「ショッピングモール」
「モール?」
「そう。休日のイベント」
ひよりは一気に身を乗り出した。
「じゃあ、人めっちゃいるじゃん!」
「まあ、いるでしょうね」
レイが答える。
「今日より全然多いよね?」
「そりゃライブハウスよりは」
「じゃあ、もっと見てもらえるんじゃない?」
今日は、前より少し声が大きかった。一度来た人が、もう一度来た。ライブハウスよりずっと人がいる場所なら、その中から何人が足を止めるだろう。ひよりはもう、広い場所いっぱいに人がいるところを想像していた。
アンだけが、配られた予定を見ながら言った。
「……人はいるね」
「何その言い方」
「人は多いよ。あたしたちの前に来るかは知らないけど」
アンは予定を畳み、鞄へ入れた。ひよりが横からその顔を覗き込む。
「じゃあ、前まで来た人には見てもらえるじゃん」
「どんどん条件増えてない?」
「まだ行ってもないのに、駄目みたいに言わないでよ」
ひよりは鞄を肩へ掛けた。アンは返事の代わりに扉を押さえ、ひよりが通るのを待っている。
「来週、その元気残しといてね」
「残すよ。そっちこそ」
追い越しざまに言い返すと、アンが後ろで笑った。
*
その夜。ひよりは自分の部屋でライトノベルを読んでいた。家族にはまだアイドルをやっていることを話していない。ドアは閉めてあるが、もう遅い時間なので声は出さないようにしていた。
スマートフォンが震え、画面に水瀬ナツと出た。何かあったのかと、ひよりはすぐに出た。
「もしもし」
『まひるー』
その一声で、少しだけ嫌な予感がした。
「どうしたんですか?」
『今日ねえ』
「はい」
『黄色だったんだよ』
「……何が?」
『あの子』
ひよりは本を閉じた。
「見ましたよ」
『先週は持ってなかったのにねえ』
「そうですね」
『今日、黄色だった』
「そうですね」
『また来てくれたんだよ』
「知ってます。私もいましたから」
『嬉しかったなあ』
やけに素直だった。普段ならもう少し笑ったり、軽く言い返したりしそうなのに、今日はただ嬉しかったと言う。
「ナツさん、今何してるんですか?」
『飲んでる』
「何を?」
『お酒』
ひよりが止まった。
「……お酒?」
『うん』
「ナツさん、十九歳ですよね?」
『今日さあ、二曲目褒めてくれたんだよ』
「質問聞いてます?」
『高いところがいいって』
「それ、さっき聞いた」
『言ったっけ?』
「言いました」
『そっかあ』
完全に酔っている。
「ナツさん」
『んー?』
「とりあえず水飲んだ方がいいですよ」
『まひる優しいねえ』
「そういう問題じゃなくて」
しばらく同じ話を聞かされ、ようやく通話が終わった。スマートフォンを枕元へ置いた途端、今度はグループチャットが動く。アンからだった。
『ナツから電話来た人』
続いてリオ。
『来た』
アン。
『何回?』
『三回』
『私二回』
ひよりは画面を見つめた。
『今一回来た』
すぐ返事が来る。
アン。
『初めてか』
『何が?』
『酔うと全員にかける』
ひよりが文字を打とうとしたところで、また画面が着信に変わった。水瀬ナツ。
「……ほんとだ」
今度は出ず、呼び出しが止まるのを待った。ところが数秒後にはまた震え始め、ひよりはグループチャットへ戻った。
『また鳴ってる』
アンから笑っているスタンプ。
リオから、
『寝ていいよ』
ひよりはスマートフォンを伏せた。その下で、まだ振動が続いている。
*
翌朝。グループチャットに、ナツから一言だけ入っていた。
『昨日の私のことは忘れてください』
アン。
『無理』
リオ。
『発信履歴見た?』
少し間があく。
『見た』
さらに、
『本当に忘れて』
ひよりは布団の中で笑った。昨日のナツが何度も話していた、一本の黄色を思い出す。あれだけ嬉しかったのだ。電話の回数は、さすがに多すぎるけれど。
お読みいただき、ありがとうございます。
「ライブハウス」は、音楽やアイドルのライブを間近で楽しめる、小~中規模の会場です。
大きなホールやアリーナに比べるとステージと客席の距離が近く、歌やダンス、観客の声や熱気をすぐそばで感じられるのが魅力です。
会場によって違いはありますが、ステージと客席のほか、受付、ドリンクカウンター、物販・特典会スペースなどが用意されていることもあります。地下アイドルのライブでは、対バンやワンマン、特典会など、さまざまなイベントが行われています。
初めて訪れると少し緊張するかもしれませんが、ライブを見るだけでも大丈夫。会場ごとのルールやスタッフの案内を確認しながら、自分のペースで楽しめます。
※会場の広さや設備、入場方法、ドリンク代、物販・特典会の場所などは、ライブハウスやイベントによって異なります。




