第15話 推しです
翌週の土曜日。四人が最後の音に合わせて腕を止めると、客席から拍手が上がった。
「ありがとうございました!」
リオの声に合わせ、ひよりも頭を下げる。顔を上げたところで、前方に一本の青が見えた。眼鏡の男だった。今日もいる。その少し後ろでは、タンクトップの男が両腕を上げていた。
「リトルフレアー!」
相変わらず声が大きい。ひよりは笑いながら手を振った。その後ろからも拍手と声が重なり、ひよりはもう一度客席へ手を振った。
今日は何組も出演する対バンだった。リトルフレアを見るために来た客ばかりではない。知らない色のペンライトも混じっているし、別の出演者の名前が入ったタオルを首へ掛けた人もいる。
後ろの方に、一人の若い女性が立っていた。その人も別のグループのタオルを持っている。最初の曲ではほとんどこちらを見ていなかった。それが二曲目、ナツが一人で歌い始めたあたりから顔が上がった。
ペンライトは振らなかった。名前も呼ばなかった。それでも、最後まで帰らなかった。
「まひる」
横から呼ばれた。
「何?」
「終わるよ」
「あ」
リオに言われ、ひよりは正面へ顔を戻した。
「客見るのはいいけど、挨拶忘れないで」
「忘れてないよ」
「今、忘れてたでしょ」
「忘れかけただけ」
「同じじゃん」
反対側でアンが笑った。ひよりは口を尖らせながらも、三人に合わせてもう一度深く頭を下げた。
*
「まひる、水飲んだら物販!」
楽屋へ戻った途端、レイの声が飛んできた。
「今飲んでます!」
「じゃあ飲んだら来る!」
「分かってますって!」
「アンも!」
「なんであたしまで毎回言われんの?」
「言わないと消えるから!」
「今日は消えてないじゃん!」
「まだ物販始まってないでしょうが!」
アンが言い返す横で、ひよりはペットボトルの水を飲みながら笑った。
汗を拭き、衣装を整えてから物販スペースへ出る。リオ、ナツ、アン。それぞれの前に小さな列ができている。そして自分の前にも。先頭にいたのは、眼鏡の男だった。
「こんにちは」
「こんにちは」
「今日も来てくれたんですね」
「はい」
男が手にしているペンライトを見る。
「今日も青でしたよね」
「もちろん。まひるちゃん推しなんで」
ひよりの手が止まった。
「……推し」
「はい」
言葉の意味は知っている。ただ、自分が誰かの推しだと言われたのは初めてだった。
「嫌ですか?」
「え?」
「推しって言われるの」
「嫌じゃないです」
そこだけは、すぐに答えられた。
「全然。嫌じゃないですけど……なんか、まだ変な感じ」
「もう青担当なのに?」
「色の話じゃなくて」
ひよりは少し迷ってから、男を見た。
「私を見に来てるってことでしょ?」
「そうです」
あっさり返ってきた。ひよりの方が困る。
「なんで?」
男が笑った。
「最初の日、めちゃくちゃ楽しそうだったから」
「そこ?」
「踊りもすごかったですけど。途中から顔が全然違ったし」
ひよりは一瞬、何も言えなくなった。踊りが上手いと言われる方が、まだ分かりやすかった。
「……そんな見えてるんですね」
「こっちも見てますから」
言われて、ひよりも笑った。
「それは私も見てます」
「知ってます」
チェキを一枚撮る。男が写真を受け取ると、青いペンライトを軽く持ち上げた。
「次もこれ持ってきます」
「はい」
今度は迷わなかった。
「ちゃんと見つけます」
眼鏡の男が嬉しそうに笑い、列から離れた。入れ替わるように、大きな影が前へ来る。
「次、俺!」
「近いです。声」
タンクトップの男だった。
「ごめん!」
「謝る声も大きい」
ひよりが言うと、隣のアンが吹き出した。
男の手には、すでに赤、黄色、紫の三人と撮ったチェキがある。ひよりはそこへ自分との一枚が加わるのを見た。
「全員と撮ってるんですね」
「うん!」
「じゃあ、誰推しなんですか?」
「箱!」
「箱?」
ひよりが聞き返すと、アンが横から顔を出した。
「箱推し。グループごと好きってこと」
「ああ。四人全員?」
「そう!」
タンクトップの男が胸を張る。
「全員好き!」
「それはライブ見てたら分かります」
「ほんと?」
「全員の名前呼んでるから」
「聞こえてた?」
「あれが聞こえなかったら、たぶん誰の声も聞こえないです」
隣でナツまで笑った。
「今日一番声出してたよね」
「頑張った!」
「なんでお客さん側が達成感出してるの」
リオが呆れたように言う。
「ライブだから!」
「それはそうだけど」
ひよりは笑いながら男にチェキを渡した。
少し離れた壁際では、鉢巻の男がタンクトップの男と話していた。今日も来ているのに、四人のどの列にも並ばない。手のペンライトはもう電源が切れていた。
見ていることに気づいたのか、軽く頭を下げられ、ひよりも下げ返した。それだけだった。
*
列が一度途切れた。ひよりは水を飲みながら、隣を見る。ナツが常連らしい男と話していた。
「先週、仕事忙しいって言ってなかった?」
「やっと終わった」
「よかったじゃん。ちゃんと寝た?」
「昨日は」
「昨日だけ?」
「今日はライブだから」
「じゃあ今夜も寝るの遅いじゃん」
「ナツちゃんに会えたからいい」
「そうやってすぐ誤魔化す」
ナツが笑うと、相手も笑う。先週話したことを、普通に覚えている。
その隣では、アンが女の子とチェキを撮ろうとしていた。
「待って。もうちょいこっち」
「こう?」
「そこ。顔だけ少しこっち向けて」
アンが自分の立つ位置もずらす。撮影が終わると、二人で出来上がった写真を覗いた。
「ほら。こっちの方がいいでしょ」
「ほんとだ」
「せっかく残るんだから、いい方がいいじゃん」
アンは当然のことのように言い、次の一枚では先に相手の立ち位置を決めていた。
リオのところでは、また別の話をしている。
「今日、二番の入り変わってました?」
聞かれた途端、リオの顔が少し明るくなった。
「分かりました?」
「前、アンちゃんが先に出てませんでした?」
「そう。四人になってから、そこの順番を変えたんです。前のままだと――」
床へ指を向けながら説明し始める。歌やダンスの話になると、急に細かい。
ひよりが見ていると、説明の途中だったリオと目が合った。なぜか向こうが先に目を逸らした。
少し離れたところでアンがそれに気づき、リオとひよりを交互に見て口の端を上げる。リオがアンを睨んだ。アンは何も言わず、次の客へ向き直った。
何なんだろう。ひよりが考えていると、
「あの」
正面から声をかけられた。
「あ、すみません」
黒い帽子を被った若い男が一人、正面に立っていた。その顔を見て、ひよりは少し考えた。
「今日、後ろの左側にいました?」
「え?」
「柱の近く」
男の目が丸くなった。
「いました」
「やっぱり」
「分かるんですか?」
「結構見えてます」
「後ろですよ?」
「最初、ずっと手拍子してましたよね」
「……はい」
「最後の曲だけ青にしてくれた」
男が手元のペンライトを見る。
「そこまで見えてるんだ」
「色変わると分かりやすいです」
「適当に変えられないな」
「なんでですか」
「見られてるなら」
ひよりは一瞬考えたあと、笑った。
「じゃあ次は、最初から青にしてください」
「え?」
「あ」
口から出たあとで、少しだけ強く言いすぎた気がした。けれど男は声を上げて笑った。
「分かりました」
「本当に?」
「次来たら」
「じゃあ見つけます」
チェキを撮る。男が帰ったあと、ひよりはその背中を少しだけ見送った。
ステージの上なら、客席のどこにいるか分かる。顔を合わせてしまえば、そこから話せることもある。ナツのように先週の仕事の話はできない。アンのように写真を見た瞬間、立ち位置を決めることもできない。それでも、自分が見ていたものなら覚えている。
「まひる」
リオの声に顔を上げる。
「次」
「あ、はい!」
また客が来ていた。ひよりはすぐにそちらへ向き直った。
*
物販が終わりに近づくにつれて、列も短くなった。ひよりはチェキを入れたケースを整え、何となく入口の方を見る。見覚えのあるタオルがあった。
「あ」
ライブの後ろにいた女性だ。別の出演者の名前が入ったタオルを、まだ首に掛けている。もう帰ったと思っていた。
女性は物販スペースの外で一度立ち止まり、リオ、ナツ、アン、そしてまひるの間へ順番に視線を動かした。誰のところへ行くのか決めていないらしい。
やがて女性がこちらへ歩き出すと、ひよりは無意識に背筋を伸ばした。あと数歩のところまで来たが、その手前で向きが変わる。女性はナツの列へ並んだ。
「……あ」
小さく声が漏れた。
「何?」
アンが振り向く。
「何でもない」
ひよりは自分のケースへ目を落とした。こっちへ来るなんて、誰も言っていない。それなのに一瞬、自分の列へ並んでくれると思った。少し恥ずかしい。
すぐ次の客が来たので顔を上げ、話して、一枚撮った。その人を見送る頃には、隣で女性の順番が来ていた。
「今日、初めて見たんですけど」
女性がナツに言った。
「ありがとうございます」
「あの、歌、すごくよかったです」
ナツが目を丸くした。次の瞬間、顔いっぱいに笑う。
「ほんと? 嬉しい!」
「一枚、お願いしてもいいですか?」
「もちろん」
二人が並ぶ。撮影が終わると、ナツはチェキを受け取りながら女性に聞いた。
「どの曲が好きだった?」
「二曲目の、途中で一人で歌ってたところがある曲」
「ああ、あれ!」
「そこで、ちゃんと見ようって思って」
「え、嬉しい」
そこから何か話が続いた。女性も途中から笑っている。ひよりには全部は聞こえなかった。ただ、一枚だけだったチェキにナツが何かを書き、女性がそれを大事そうに両手で受け取るところは見えた。
「ありがとうございました」
「こっちこそ、ありがとう」
女性が頭を下げる。ナツも手を振った。そのまま女性は出口へ向かい、今度こそ姿が見えなくなった。
*
最後の客を見送り、四人で片づけ始める。ひよりはチェキのケースを閉じながら、隣のナツを見た。
「ナツさん」
「ん?」
「さっきの人、知ってる人?」
「さっき?」
「別のグループのタオル持ってた人」
「ああ。ううん。今日初めて」
「やっぱり?」
「うん」
ナツは残ったペンをケースへ戻した。
「歌聴いて来てくれたんだ」
「そうみたい」
ひよりは入口へ目を向ける。もう女性の姿はない。
「次も来るかな」
ナツの手が止まった。
「どうだろ」
「分かんない?」
「そりゃ分かんないよ。一枚撮ってくれたからって、次も来てくれるとは限らないし」
「そっか」
ナツも一度、誰もいなくなった入口を見た。
「でも、来てくれたら嬉しいね」
「うん」
ひよりは、もう一度だけ入口を見た。
お読みいただき、ありがとうございます。
アイドルを応援するときによく使われる「推し」という言葉。
「推し」は、特に好きで応援したいアイドルやメンバーのことです。ライブに会いに行ったり、ペンライトを振ったり、チェキを撮ったりと、応援の形はいろいろあります。
一方の「箱推し」は、特定の一人だけではなく、グループ全体を好きで応援すること。もちろん、推しは一人でなくても大丈夫です。
このイラストでは、「推し」と「箱推し」の違いや、アイドルを応援する楽しみ方を分かりやすくまとめました。
※メンバーカラーの有無や応援の形は、グループによって異なります。応援したいアイドルやグループに合わせて、自分なりの楽しみ方を見つけてみてください。




