第14話 ライブのあと
水曜と金曜の練習を終えた次の土曜日。ひよりはライブハウスへ続く階段を、小走りで下りていた。入口脇の傘立てへ透明傘を突っ込んだばかりで、袖口にはまだ細かな水滴が残っている。階段の空気まで少し湿っていた。
集合時刻まで、あと四分。
昨夜、「一話だけ」と見始めたアニメの続きを原作で開いたのがまずかった。次の章まで、もう一章だけ。その次こそ最後。スマートフォンを伏せたときには、午前三時を回っていた。
朝、目覚ましを止めたところまでは覚えている。次に目を開けたときには、かなりまずい時間になっていた。
「セーフ……!」
重い扉を開けて楽屋へ入る。
「何がセーフよ」
すでに来ていたレイが振り返った。リオ、ナツ、アンは着替えまで終わっている。ひよりは壁の時計を指した。
「まだ四分あります」
「四分しかないの。電車一本遅れたらアウトでしょ」
「でも遅刻はしてないです」
「そういう問題じゃないの」
「分かってます」
「昨日何時に寝たの?」
ナツに聞かれ、ひよりは鞄を下ろしながら目を逸らした。
「……三時くらい」
「今日ライブだよ?」
「知ってます」
「知ってる人が三時まで起きる?」
「途中でやめるつもりだったんです」
アンが笑った。
「何、その言い訳」
「言い訳じゃないし」
「はいはい。早く着替えて」
「アンに言われなくてもやる」
ひよりは衣装を抱え、仕切りの向こうへ入った。後ろからレイの声が追ってくる。
「次から、もうちょっと余裕持って来る!」
「……はい」
「急に返事ちっちゃくなった」
「普通です」
アンがすぐに言った。
「拗ねてんじゃん」
「拗ねてない」
「拗ねてる人みんなそう言うよ」
「急いでるから喋ってないだけ!」
「はいはい」
「はいは一回!」
アンが笑った。ひよりはそれ以上返さず、衣装を抱え直して仕切りの奥へ引っ込んだ。
*
出番が近づいて舞台袖から覗くと、前の方に眼鏡の男がいた。いつもとだいたい同じ場所だ。ひよりは顔を見つけてから手元へ目を移し、今日も青いペンライトを持っているのを確かめた。
「あ、いる」
口に出してから隣を見ると、アンがひよりの顔を見ていた。
「また青の人?」
「まだ誰か言ってないじゃん」
「まひる、その人見つけると毎回ちょっと笑うから」
ひよりは口元を引き締めたが、カーテンの向こうでは眼鏡の男がペンライトの先を確かめている。もう一度そちらを見ると、アンも隙間から顔を出した。
「ほんとだ。今日も青」
「だから、いるって言ったでしょ」
その少し後ろには、タンクトップ姿の男もいた。まだ出番前なのに、隣の客と喋りながら大きく身振りをつけている。
壁際には鉢巻の男がいて、手にはペンライトを持っていた。ただし今日も、光っていない。
「鉢巻の人もいる」
「ほんとだ」
アンはそれ以上何も言わなかった。
旧メンバーがいた頃から来ている客だ。四人になってからもライブには来ている。それでも、どの色を振るかはまだ決めていないらしい。ひよりにも、それ以上は分からない。ただ、今日も来ている。そのことだけは分かった。
「二人とも、そろそろ」
後ろからリオに呼ばれた。
「はい」
「うん」
カーテンから離れる。ナツもこちらへ来て、赤、黄色、紫、青の四人が並んだ。一週間前は、この四人でもう一度ライブをしたいと思っていた。その土曜日が、本当に来た。
*
「リトルフレアー!」
ステージへ出た途端、聞き覚えのある大声が飛んできた。ひよりは笑った。誰の声か、もう見なくても分かる。
前奏が始まり、四人が散った。八人だった頃ほど埋まっていない客席には、後ろにまだ空間がある。それでもひよりは、前でリオの名前を呼んでいる人を見た。ナツの歌い出しに黄色を大きく振る人も、アンが目を向けるのを待つ紫もいる。その隣の青が上がった。
「まひるー!」
眼鏡の男へ、ひよりは振付の中で腕を伸ばした。男がすぐに振り返す。その隣でも青が一本上がり、ひよりはそちらへ目を向けた。若い女性は、ひよりに気づかれて驚いたように目を丸くしてから、大きくペンライトを振った。
ひよりは笑いながら身体を返した。アンとすれ違うところへナツの声が伸び、中央にはリオが入ってくる。半歩引いて自分の位置へ戻ると、今度は前へ出る人が見えた。
下がる場所があっても、次に自分へ声が飛んでくるところは分かっている。サビで、四人一緒に横へ広がった。
「はい! はい! はい!」
前から声が重なった。大きいとは言えず、もっと後ろからも返ってきてほしかったが、それでも前より少し増えている。顔を向けた先で眼鏡の男が笑い、ひよりも笑い返した。
少し離れた場所では、鉢巻の男が拍手していた。暗いペンライトを持ったままでも、ちゃんとこちらを見ている。それで今はよかった。
*
最後の曲まで終えると、ひよりは汗を拭きながら楽屋へ戻った。
「あっつ……」
「まひる、前髪」
アンに言われて額へ触れる。汗を吸った髪が張りついていた。
「うわ」
「すごいことになってる」
「アンもそんな変わんないじゃん」
「あたしは直してるから」
「いつの間に?」
「ライブ終わったら最初にやるでしょ」
「水じゃないの?」
「水も飲んだ」
「早いなあ」
ひよりが鏡へ近づいたところで、後ろからレイの声が飛んだ。
「まひる、行くよ」
「はい」
「何も言ってないけど」
「物販でしょ?」
レイが少し意外そうな顔をした。
「分かってるじゃない」
「私だってそれくらい覚えますよ」
「じゃあ早く前髪直して」
「今やってます!」
櫛を通そうとして、途中で絡まった。
「痛っ」
「貸して」
レイに櫛を取られた。
「自分でできますって」
「できてないから言ってるの」
「今ちょっと絡まっただけです」
「動かない!」
前髪を直されながら、鏡越しにアンを見る。口元を押さえていた。
「アン、笑ってるでしょ」
「笑ってない」
「絶対笑ってる」
「ほら終わった!」
レイが櫛を返した。
「行く!」
「はいはい」
「はいは一回!」
「アンにも言ってた!」
「二人とも言わせるからでしょ!」
アンが吹き出した。ひよりも笑いながら、レイに追い立てられて楽屋を出た。
*
ホールの後ろ側には折り畳みの机と椅子が並び、ステージを見ていた客も、まだかなり残っていた。四人が分かれると、ナツの前にはすぐ客が来た。アンはチェキを撮り始め、リオも話し込んでいる。
ひよりは自分の場所へ座り、机に置かれた紙を見た。天野まひる。そこだけ見れば、もうずっと前からそういう人がいたように見える。
顔を上げても、まだ誰もいなかった。肩から少し力が抜けたものの、すぐ横からナツの笑い声が聞こえてきた。アンは写真を撮り続け、リオのところにも次の客が来る。ひよりは、もう一度自分の前を見た。
やっぱり誰もいない。さっきまではもっとこっちを見てほしかったのに、一人も来なければ来ないで落ち着かない。自分でも面倒くさいと思ったところで、一人、列から外れてこちらへ歩いてきた。
「あ」
眼鏡の男だった。青いペンライトは、もう持っていない。手ぶらで目の前へ来ると、少し照れたように頭を下げた。
「一枚お願いします」
「あ、はい。お願いします」
ひよりも頭を下げた。一瞬、何を言えばいいのか分からなくなる。ステージなら何十人も見ていた。今は、一人しかいない。しかもその一人が、自分のところへ来ている。
「今日も、ありがとうございました」
先に口から出たのは、無難な言葉だった。
「こっちこそ。今日もよかったです」
「ありがとうございます」
「四人になってから、結構変わりましたよね」
「ああ……そうですね」
そこで会話が切れた。ひよりは次の言葉を探した。男も同じなのか、少し視線が泳いでいる。
「ちゃんと喋るの、初めてですよね」
男が言った。
「そうですね」
「俺、最初の日から見てるんですけど」
「知ってます」
答えた途端、男が止まった。
「……知ってる?」
「あ」
ひよりも自分の返事に気づいた。
「いや、覚えてます」
「俺を?」
「はい」
「ほんとに?」
「最初の日、途中でペンライト青に変えた人ですよね」
男は自分の胸を指した。
「俺?」
「そうです」
「そこまで見えてたんですか?」
「見えてましたよ」
ひよりは両手を机の上へ出した。
「最初、違う色だったのに、一回下げて、ここ押して」
親指を動かす。
「それで上げたら青だったから」
「うわ……」
「なんで嫌そうなんですか」
「いや、そんな細かいところまで見られてると思ってなくて」
「ステージから結構見えますよ」
「そうなんだ……」
「あとハート」
男が顔を上げた。
「ハート?」
「最初の日」
ひよりは両腕を上げ、頭の上で形を作った。片方だけ高くする。
「こうなってました」
「ああ!」
男が声を上げた。
「覚えてるんですか?」
「覚えてますよ! まひるちゃんに真似されたやつ」
「直したと思ったら、次こっち高くなってましたよね」
「それまで見えてたの!?」
「見えてましたって」
ひよりは笑った。
「それで隣の人に肩叩かれて」
「もうやめてください」
「なんで?」
「恥ずかしくなってきた」
「私なんかステージで同じのやったんですよ」
「それはそっちが勝手にやったんじゃないですか」
「あれはそっちが先に――」
そこから言葉が続いた。最初に声をかけられ、自分を指すと頷いてくれたこと。耳へ手をやったら、本当に声が返ってきて、思っていたより大きくて驚いたこと。あのあともう一度ハートを返したかったのに、次の振付が来てしまったことまで、話していた。
「それで最後のサビのところでも、もう一回見たらちゃんとハート直ってたから――」
言いながら、ひよりは止まった。自分ばかり喋っている。さっきまで何を言えばいいのか分からなかったはずなのに、今は相手が一度も口を挟んでいない。胸の奥が急に冷たくなった。こういうところだった。楽しくなると、続けてしまう。
「あ、すみません」
男が瞬きをした。
「何が?」
「私ばっかり喋ってる」
「いや」
「こうなると、私、止まんなくなるんで」
「でも俺が聞いたんですけど」
ひよりは顔を上げた。
「え?」
「最初の日から見てるって言ったの俺だし」
「それはそうですけど」
「そんなに見えてたんだって、面白いです」
男は笑っていた。スマートフォンにも触れず、後ろの列を気にする様子もなく、まだこちらを見ている。少なくとも、気を遣って話を合わせているようには見えなかった。
ひよりは少しだけ迷った。
「……ほんとに?」
「はい」
「じゃあ、一個聞いていいですか」
「何ですか?」
「なんで青にしたんですか?」
今度は男が黙った。
「最初の日」
ひよりは自分の胸元を指した。
「まだ私、青担当じゃなかったじゃないですか」
「ああ」
「ただ青いリボンつけてただけなのに」
「それは……」
男が少し考えた。
「青いリボンだったから」
「そのままじゃん」
「いや、だって名前も分かんなかったし」
「見習いちゃんでしたね」
「そう。色も分かんないし。でも何か振りたかったから、衣装に合わせて青にしただけです」
「だけ?」
「そのときは」
男が笑う。
「次の週、本当に青担当になっててびっくりしましたけど」
「あれ、私もびっくりしました」
「やっぱり?」
「最初は余ってたリボンだったんですよ」
「余ってたの?」
「ナツさんが、紫はアンの色だからって」
「それで青?」
「そうです」
「じゃあ、本当にたまたまだったんだ」
「最初は」
言ってから、ひよりは少しだけ自分の胸元を見た。今は白い衣装に、大きな青いリボンがついている。もう、あの日だけの色ではない。
「でも、今は私の色です」
男が頷いた。
「うん」
その返事は妙に普通だった。当たり前のことを言われたような気がした。
「じゃ、撮りますよー」
スタッフに呼ばれ、二人で立った。
「ポーズどうします?」
聞かれて男と顔を見合わせると、二人とも同じことを思いついたらしかった。
「ハート?」
「ですよね」
ひよりが両腕を上げる。
「今日は傾けないでくださいね」
「いきなり圧かけないでくださいよ」
「最初にやったのそっちですよ」
「もう二度と忘れてくれなさそう」
「多分」
「そこは忘れてください」
「無理です」
二人で頭の上にハートを作った。撮影の音がすると、ひよりはすぐに出来上がった写真を覗いた。
「できてる」
「よかった……」
「そんな安心します?」
「また真似されたら嫌なんで」
「だから、いじってないですって」
男がチェキを受け取った。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
男は一歩離れ、それからもう一度ひよりを見た。
「また来ます」
ひよりはすぐには答えなかった。初めてライブへ出た次の月曜日、会社の昼休みにスマートフォンで見つけた文章を思い出した。
――見習いちゃん、また出るなら次も行きたい。
誰が書いたのかは、今も知らない。
「はい」
ひよりは頷いた。
「また」
男も笑って列を離れた。その背中を見ていると、すぐ次の客が前へ来た。
「まひるちゃん、一枚いい?」
「あ、はい!」
慌てて次の客へ向き直った。それでも、一度だけ出口へ目をやった。眼鏡の男はもう人の間へ入っていた。ペンライトは持っていないし、青い光もどこにもない。それでもひよりには、あの人の顔が分かった。
お読みいただき、ありがとうございます。
地下アイドルのライブでは、終演後に「チェキ」や「特典会」が行われることがあります。
チェキは、アイドルと一緒に写真を撮ったり、アイドルだけを撮影したりして、その場で受け取れる写真のこと。特典会では、チェキ撮影のほか、短い会話やサインなどを楽しめる場合もあります。
ステージで見ていたアイドルと近い距離で話したり、ライブの感想を直接伝えたりできるのも、地下アイドルならではの楽しみの一つです。
はじめて参加するときは、緊張してうまく話せなくても大丈夫。特典会の内容やルールはグループによって違うので、スタッフの案内を確認しながら、自分のペースで楽しんでみてください。
※チェキや特典会の内容、料金、撮影方法、会話時間などは、グループやイベントによって異なります。




