第12話 芸人は?
レイの手の中で、外したピンクの飾りが揺れた。ついさっきまでミオとユナがいた場所には、冷えたペットボトルの丸い跡がまだ二つ残っている。ひよりはレイを見た。
「……レイさんも?」
「その言い方やめて。私だけついでみたいじゃん」
「だって、今二人が」
「分かってるわよ。だから言いづらかったの!」
いつもの声だった。大きくて、少し怒っているように聞こえる。それなのにレイは、手の中のピンクを弄ったまま、なかなかこちらを見なかった。
「いつ?」
リオが聞いた。
「来月」
「早くない?」
ナツの声が低くなる。
「もう決めてるの?」
「決めてる」
今度はレイが顔を上げた。
「大阪行くから」
「前に言ってたやつですか?」
「そう」
ひよりが聞くと、アンがこちらを見た。
「まひる、理由は知らないんだっけ」
「理由?」
「レイの彼氏」
「私、レイさんの彼氏まで知ってる前提なんですか?」
「そう言われたら知らないか」
「入ったばっかりですよ、私」
レイが口を挟んだ。
「その彼氏が、大阪で芸人やるの」
「芸人?」
「そう。前からやりたいって言ってて。今度こそ本気でやるから大阪行くって」
「それでレイさんも?」
「うん」
レイはあっさり頷いた。ひよりは少し待った。ミオとユナには、次にやりたいことがあった。リサには、これから一緒に暮らす人と、生まれてくる子供がいる。
「レイさんも、大阪で何かするんですか?」
「まだ決めてない」
「決めてない?」
「向こう行ってから考える」
何となく、口から先に出た。
「みんな、そんな簡単にいなくなるんですか」
楽屋が静かになった。言ってから、遅れて意味が追いついた。
「あ」
レイの眉が寄った。
「簡単じゃないけど」
「いや、今のは」
「私だって昨日今日で決めたんじゃないから」
「すみません」
「だから、すぐ謝んないの」
「でも今のは私が悪いです」
「それはそう」
アンが言った。
「アン!」
「だってそうじゃん」
レイに睨まれても、アンは顔を逸らさなかった。
ひよりは膝の上で指を組んだ。
「……ごめんなさい」
「二回目」
「じゃあ、もう言いません」
「極端なのよ」
レイはそこでようやく笑った。手にしていたピンクの飾りを鞄へ放り込む。
「大阪行くだけだから。死ぬわけじゃないって」
「それ、リサさんのときも似たようなこと言ってませんでした?」
「言ったっけ?」
「言ってない」
ミオが答える。
「まだいたの?」
レイが振り返った。
「荷物取りに戻ってきただけ!」
「帰ったと思ったのに!」
「今から帰るよ!」
廊下からユナの笑い声も聞こえた。ミオは残っていた荷物を拾い、ユナの声がする廊下へ出ていった。さっきまでの空気が少しだけ崩れた。ひよりも笑った。
床にはミオとユナの荷物があった場所が空いていて、今ここにいるのは五人だけだった。レイの最後の日が来れば、さらに広くなる。それだけは分かってしまった。
*
それからの数週間で、練習帰りに駅へ向かう時間でも、空に明るさが残るようになった。六月初めの週末、レイの最後のライブを迎えた。ピンクの光が、いつもより多かった。
「レイー!」
「行かないでー!」
「行くわよ!」
最後のMCでレイが即答すると、客席から笑いが起きた。
「もう引っ越しの荷物送ってんだから!」
「戻ってこーい!」
「早い早い! まだ行ってもないから!」
また笑い声が広がる。レイも笑っていた。けれど、次に飛んできた声には返事が少し遅れた。
「五年間ありがとー!」
レイは口を開きかけ、一度閉じた。
「……こっちこそ」
今度だけは声が少し小さかった。すぐにマイクを持ち直す。
「でも泣くなって! 私まで泣くでしょ!」
「もう泣いてるー!」
「泣いてない!」
客席から一斉に笑いが起きた。ひよりも隣で笑った。レイの目元が少し赤いことには、何も言わなかった。
最後の曲が終わる。五人で頭を下げた。顔を上げると、ピンクが何度も大きく振られていた。ひよりの青も、その隣で揺れている。レイは最後まで両手を振り続けた。
*
「アン、今度から連絡なしで消えたりしないでよ」
「分かってるって」
「ほんとに?」
「その話もう終わったでしょ」
「ナツ」
「はいはい」
「何よ、その返事」
「まだ何も言われてないんだけど」
「ちゃんと三人まとめてよ」
「なんで私なの?」
「一番まともだから」
「リオは?」
レイがリオを見る。リオは嫌そうな顔をした。
「何」
「まひるばっか見てないで、ちゃんと全員見なさいよ」
「最後の日にまで、それ言う?」
リオはひよりの方を見かけて、途中でレイへ視線を戻した。アンがその顔を覗き込む。
「今も見ようとした」
「アン、ちょっと黙って」
「私の踊り、変でした?」
ひよりに聞かれ、リオは慌てて首を振った。
「違う。ちゃんとできてた。……だから、今はレイの話!」
話を振ったレイまで笑い始めたので、リオはとうとう口を結んだ。
「はいはい、リオはいいから」
レイが手を振った。
「最後、まひる」
「私もあるんですか?」
「あんたが一番あるわよ」
「何?」
「すぐ謝るのやめなさい」
「それ、レイさんにも言われるんだ」
「私にもって何よ」
「色んな人に言われるから」
「じゃあ直しなさいよ」
「すみません」
「ほら!」
レイが指をさした。
「今の何?」
「分かんないです」
「もういい!」
レイは大きな鞄を肩へ掛けた。ほんの少し前まで、この鞄が大きすぎるせいで楽屋が狭いと全員で揉めていた。今日は誰も邪魔だと言わなかった。
「じゃあ」
レイが扉の前で振り返る。
「行ってくる」
「いってらっしゃい」
ナツが言った。リオも、アンも続く。ひよりは少し遅れて手を上げた。
「いってらっしゃい、レイさん」
「うん」
「大阪でも頑張ってください」
「私、まだ何するか決めてないけどね」
「あ、そうだった」
「忘れるな!」
最後まで大きな声だった。扉が閉まる。五人いた楽屋に、四人だけが残った。
*
レイの卒業から三週間近く経った水曜日。週末には、四人だけになって初めてのライブが控えていた。練習はもう、四人で始めるのが当たり前になりかけていた。
佐伯が音を止める。
「はい、そこ。もう一回」
「また?」
アンが声を上げた。
「今のバラバラだったでしょうが」
「最後だけでしょ」
「その最後がバラバラだったの!」
ひよりは汗を拭きながら、自分の位置へ戻った。四人用に組み直した振付にも、少しずつ身体が慣れてきている。リオが前へ出て、その右にナツ。アンが後ろへ回るのと同時に、ひよりは反対側へ抜ける。
「頭からいくわよ」
佐伯がスマートフォンへ手を伸ばした。そのとき、扉が開いた。
「ただいま」
全員がそちらを見た。大きなキャリーバッグを引いたレイが立っていた。
「……は?」
最初に声を出したアンの横で、ナツは動かなかった。リオが何度か瞬きをする。ひよりもレイを見て、その手元のキャリーバッグを見て、また顔へ目を戻した。
「レイさん?」
「何よ」
「大阪は?」
「行ったわよ」
「今、大阪から来たんですか?」
「そう」
リオが一歩前へ出た。
「彼氏は?」
「別れた」
また誰も喋らなくなった。ひよりは少し待った。
「早くないですか?」
「ほんっと、あんた遠慮ないわね!」
「いや、だって三週間ですよ」
「数えないで!」
「卒業してから毎週練習あるから分かりますよ」
「そういうところだけ妙に正確なの何なの!」
「まひる」
ナツが肩を震わせている。
「今、笑っちゃ駄目なやつだから」
「ナツも笑ってるじゃないですか」
「私はまだ耐えてる」
「全然耐えてない」
アンが言った。
レイがキャリーバッグから手を離した。
「ちょっと! 人が失恋して帰ってきたのよ!」
「だから理由聞いてるんじゃん」
アンが床へ座る。
「何があったの?」
レイは口を開き、閉じた。眉間に皺が寄っていく。
「大阪までは行ったのよ」
「それは分かった」
「部屋も決めて。荷物も運んで。あいつも『ここから本気でやる』って言ってたの」
「うん」
「次の日、ゲームしてた」
「……うん」
「その次の日、パチンコ行った」
アンの口元が少し動く。
「で、週末は競馬」
「芸人は?」
ひよりが聞いた。
「それを私が聞いたのよ!」
レイの声が部屋に響いた。ひよりは肩を跳ねさせた。
「ネタはって聞いたら『考えてる』。どこか出るのって聞いたら『今探してる』。その次の日もゲーム! 朝起きたら私より遅くまで寝てる!」
「レイさんは?」
「私の話はいいの!」
「はい」
「はいって言うな!」
「じゃあ何て返せばいいんですか!」
「知らないわよ!」
ナツがとうとう吹き出した。
「ごめん、無理」
「笑うな!」
「だってレイ、三週間前まであんな格好よく卒業してたのに」
「それとこれとは別!」
リオだけはまだ真面目な顔をしていた。
「でも、芸人やろうとはしてたんでしょ?」
「してないから怒ってんの!」
レイの声が一段上がった。
「売れないならいいのよ!」
全員が少し静かになった。
「ネタ作って、舞台出て、思いっきり滑って、それなら私だって何も言わない。やるって言ったのに、何もしないの。毎日『そのうち』『来週から』『今考えてる』って」
レイは吐き捨てるように言った。
「二週間くらいして、本気で聞いたのよ」
少し間が空く。
「……で、芸人は? って」
「何て?」
アンが聞いた。
「『急かすなよ』」
レイの顔が歪んだ。アンが「あー」と声を漏らし、ナツも額を押さえる。ひよりが隣を見ると、真面目に聞いていたリオまで顔をしかめていた。
「それで?」
「喧嘩した」
「うん」
「その次の日もパチンコ行った」
「強いなあ」
アンが感心したように言う。
「感心するとこじゃない!」
「それで別れたんですか」
「そうよ!」
レイは腕を組んだ。
「もう知らない。好きにすればいいのよ。芸人でも競馬の予想屋でも何でも!」
「予想屋は増えた」
「まひる!」
「すみません」
「また謝った!」
「あ」
ひよりは口を閉じた。
*
ひとしきり話し終えたレイは、ようやくキャリーバッグを壁際へ寄せた。
「というわけで」
ぱん、と両手を合わせる。
「戻るから」
ナツが眉を寄せた。
「どこに?」
「リトルフレア」
「待って」
リオがすぐに言った。
「何で?」
「何でって、卒業したでしょ」
「したけど」
「卒業ライブもやったよね」
「やった」
「ファンにも送り出してもらったよね」
「もらった」
「じゃあ駄目じゃん」
「何でよ!」
「何でこっちが怒られるの!」
リオの声まで大きくなる。
「別に一回辞めたからって戻っちゃ駄目なんて――」
「次に彼氏がどこかへ行くって言ったら、また辞めるの?」
アンが言った。レイが止まった。
「そんなわけないでしょ」
「こっちは分かんないじゃん」
「アン」
ナツが制した。けれどアンは続けた。
「だって今回、実際それで辞めたんでしょ」
「……そうだけど」
「もう四人で位置も作り直してるし。次のライブだって四人で出るんだよ」
「私一人くらい増えても」
「一人くらいじゃないでしょ」
アンの声も少し強くなった。
「レイが戻るってなったら、また全部変わるじゃん」
「アン、もういいって」
ナツが間に入った。
レイは黙った。さっきまであれだけ大きかった声が消えている。ひよりは三人を見た。リオも困った顔をしていた。
「……でも」
ひよりが口を開く。全員がこちらを向いた。
「レイさん、戻りたいんですよね」
「そりゃ、戻りたいわよ」
「じゃあ戻ればいいんじゃないですか?」
アンが目を閉じた。
「簡単に言うなあ」
「またそれ?」
「だって簡単じゃん、まひるの言い方」
「でも私、レイさんいた方がいいし」
今度はレイがこちらを見る。
「ほら!」
「何がほらなの」
ナツが突っ込む。
「まひるだけよ、私の味方!」
「味方っていうか」
「まひる」
リオが少し困った声を出した。
「戻りたいってだけで、全部元通りにはできないよ」
「それは分かるけど」
ひよりはレイを見ながら、卒業ライブの客席を思い出した。ピンクを振って泣いていた人たちは、レイを送り出したのだ。けれど目の前のレイは戻りたいと言っている。どちらを重く考えればいいのか、まだ分からなかった。
「……戻りたいのに戻れないっていうのも、よく分かんない」
「まあ、その話はあと」
佐伯の声がした。全員が振り返った。
「社長?」
レイが眉を上げる。
佐伯はさっきから壁際に立ち、ほとんど口を挟んでいなかった。
「レイ。明日空いてる?」
「空いてるけど」
「じゃあ来て」
レイの顔が明るくなった。
「え、いいの?」
「いいわよ」
「じゃあ次のライブ――」
「アタシの手伝い」
「は?」
「ちょうど人手足りないの」
「待って」
「明日、十三時ね」
「ちょっと待ってって!」
佐伯はもうスマートフォンを見ていた。レイがその前へ回り込む。
「私、戻るって話してたんだけど!」
「聞いてたわよ」
「じゃあ何で手伝いなの!」
「暇なんでしょ?」
「失恋して帰ってきた人にそれ言う!?」
「忙しいの?」
「……暇だけど!」
「じゃあ決まり」
「何でよ!」
アンが笑い出すと、ナツも我慢できずに顔を背けた。リオまで口元を押さえている。その向こうでまだ佐伯に食い下がるレイを、ひよりは見た。
「よかったですね。ライブには来れるじゃないですか」
「ステージじゃないのよ!」
「でも近くには」
「近さの問題じゃない!」
佐伯が練習用の音楽をもう一度流した。
「はい、四人は戻って。レイは明日」
「まだ話終わってない!」
「十三時」
「だから!」
前奏が大きくなる。ひよりは笑いながら自分の場所へ戻った。
「まひる、始まるよ」
リオに呼ばれ、正面を向く。
「あ、はい!」
最初の拍子に合わせて、四人が一斉に踏み出した。その後ろから、レイの声が追いかけてきた。
「だから私はステージに戻りたいのー!」
アンが吹き出した。ひよりも笑ったまま、次の位置へ飛び込んだ。
お読みいただき、ありがとうございます。
地下アイドルは、アイドル活動だけで生活している人ばかりではありません。
学生として学校に通ったり、会社員やアルバイトとして働いたりしながら、空いた時間でレッスン、SNS更新、配信、ライブ準備などを行う人も多くいます。
平日は学校・仕事と両立しながら練習や準備を進め、週末はライブハウスやイベント会場でライブに出演。ライブ後には物販、チェキ、特典会などでファンと交流することもあります。
忙しい毎日の中で少しずつ経験を積み、ファンを増やしながら活動を続けていく――それが地下アイドルの大きな特徴です。
※活動内容やスケジュールは、グループ・事務所・本人によって異なります。これはあくまで一般的な一例です。




