第8話
英会話教室は薬局の二階にあった。
看板は日に焼けて色が抜け、端も剥がれかけている。
思っていたより小さくて、思っていたよりくたびれていた。
……もっとも、何を想像していたのか、自分でもよく分からない。
中に入ると、壁は妙に明るいアイボリー色だった。
何年も前に「きれいでいること」を諦めた感じの色だ。
ラミネートされたポスターが何枚も貼ってある。
笑顔の外国人が親指を立て、その横に英語のフレーズ。
『Let’s try again!』
やたら前向きなフォントだった。
軽く殴られた気分になる。
スタッフたちは、俺が本当に来たことに安心したみたいな顔で迎え、奥へ案内した。
スタッフルームは狭かった。
揃っていない椅子。
積み上がったまま放置された紙束。
誰も整理する気がない空気だけは統一されている。
室長は四十代半ばくらい。
ずっと疲れている顔だった。
握手が妙に強い。
よく分からないことで三回謝られた。
視線が一瞬だけ俺の痣へ落ち、すぐ戻る。
別のスタッフが教科書の束を押しつけ、ホワイトボードの方を適当に指差した。
そのとき、奥からカメラを持った人が出てくる。
「ああ、講師紹介の写真撮る予定だったんですけど……」
室長が壁を示す。
笑顔の講師写真が並んでいた。
俺の目元を見る。
「また今度にしましょうか」
ありがたかった。
「とりあえず……頑張ってください」
「みんな緊張してるんで」
俺もだった。
金髪を雑に染めた若い講師が、プリントの山の向こうから軽く会釈してくる。
俺の顔を見た瞬間、笑顔がほんの少し止まった。
「初日ですか?」
「まあ」
「大丈夫ですよ。適当に笑って、楽しそうにしてれば何とかなります」
どっちも、もうやり方を忘れていた。
生徒はゆっくり集まってきた。
暇つぶしみたいに通う年配者。
発音を必死に繰り返す主婦。
まだスーツ姿のまま、床ばかり見ている会社員。
それと、数人の学生。
肩を縮め、周囲を警戒するみたいに視線を泳がせている。
……大輔の言う通りだった。
何コマか見学したあと、俺の番が回ってくる。
相手は中学生のグループ。
ただでさえ緊張しているところに、俺の顔を見てさらに固くなる。
痣に触れると、鈍く痛んだ。
くだらない失敗だった。
大したことないと思っていた種類のやつほど、あとで残る。
授業の途中、一人の女子生徒が止まった。
答える番になった瞬間、固まる。
机の端を掴む手に力が入っている。
白くなる指先。
口を開き、閉じる。
誰かを思い出した。
花とは違う。
でも、肩の硬さとか、
見えない誰かを失望させることを怖がる感じが、少し似ていた。
「……すみません」
小さな声。
「できないです」
考えるより先に口が動く。
「大丈夫」
彼女が顔を上げる。
「急がなくていい。待つから」
驚いた顔だった。
それでも彼女は、途切れ途切れに続きを口にした。
最後まで言い切った瞬間、顔から一気に力が抜ける。
その安堵が、妙に痛かった。
胸の奥がねじれる。
一瞬だけ、教室じゃなくなる。
消毒液と、冷めたコーヒーの匂いがする病院の廊下。
進まない時計。
呼吸を整える。
授業が終わると、室長が肩を叩いた。
「ほら、簡単でしょ?」
簡単、ではなかった。
家に戻ると、花はリビングの床に座っていた。
参考書が周囲に広がっていて、結界みたいになっている。
蛍光ペンの蓋は開けっぱなし。
ノートはもう半分以上埋まっていた。
俺に気づいて顔を上げる。
「早かったね」
「初日だからな」
「午後の授業終わったら帰された」
「どうだった?」
「普通」
少し考えてから付け足す。
「思ったより悪くなかった」
彼女は小さく頷く。
「そっか」
それ以上は言わない。
でも、部屋にも戻らなかった。
俺が引っ越しの段ボールを開け始めても、そのまま近くにいる。
昔のノート。
もう持っていない機械のケーブル。
整理できないままの生活。
花は本を読んでいるふりをしていた。
ペンが細かく動く。
途中で止まる。
ちらりとこちらを見る。
また書き始める。
さっきより少しだけ強い筆圧で。
しばらくして、彼女が聞いた。
「昔から医者になりたかったの?」
手が止まる。
「いや。最初は違った」
「何になりたかったの」
「ゲーム作りたかった」
彼女が瞬きをする。
「ゲーム?」
「テレビゲームのほう」
「世界を考えて、そのまま作る仕事だと思ってた」
今度はちゃんと笑った。
「なんか、健一っぽい」
家の空気が少し変わる。
温かいわけじゃない。
でも、空っぽではなかった。
俺は片づけをして、
花は勉強する。
同じ部屋にいるのに、別々の世界にいるみたいだった。
それでも、少しだけ近い。
しばらくして、彼女が参考書を少しだけこちらへ寄せる。
全部じゃない。
ほんの少しだけ。
「そんなに無理しなくていい」
本へ視線を向けながら言う。
「仕事とか勉強とか、飲まれすぎるとろくなことにならない」
「……経験談」
彼女のペンが止まる。
「……分かってる」
少し間。
「ちゃんとやりたいだけ」
少し尖った声だった。
その奥に、まだ別の何かがある。
でも、触れない。
触れたら、たぶん壊す。
最後の箱を片づけ終え、そろそろ一人にしたほうがいいかと思った、そのとき。
「ねえ」
小さな声が聞こえる。
「あとで暇なら……英語、教えてくれる?」
胸が少し詰まる。
「いいよ」
彼女はかすかに笑って頷き、そのまま部屋へ戻っていった。
大したことじゃない。
でも、ちゃんと前に進んでいる気がした。




