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第9話

夕飯の前に、少し外の空気が欲しくなった。


作る気力もなく、コンビニへ向かう。

その途中で、名前を呼ばれた。


「健一?」


振り返る。


買い物袋を提げた由紀が立っていた。

髪を後ろでまとめ、シンプルなブラウスにジーンズ姿。

高校の頃と、ほとんど変わらないように見えた。


ただ、目元だけが少し柔らかくなっている。

人生に壊されたというより、ゆっくり擦り減らされたような顔だった。


「由紀」

「……久しぶり。元気そうだな」


「戻ってきたって聞いた。和也くんが言ってた」


「連絡しようと思ってた」


嘘だった。


彼女は責めなかった。


「よかった。ほんとに久しぶりだね」


「ああ」


由紀は少し迷ってから言った。


「もし今夜空いてたら、うちでご飯でもどうかなって。大したものじゃないけど。ただ……久しぶりだし」


普通の誘いだった。

何もおかしくない。

断るほうが不自然なくらいに。


家で参考書に向かっている花のことを思った。

落ち着いた夕方だったことも。


それでも、断る理由は作れなかった。


「行くよ」


「じゃあ、一時間後くらいに」


そこで、由紀の視線が俺の目元に止まった。


「それ、どうしたの」


「引っ越しでな」


彼女は納得していない顔をしたが、それ以上は聞かなかった。


由紀が歩き去っていく。

俺は必要以上に長く、その背中を見送っていた。


家に戻り、白いシャツとスラックスを脱いで、少しだけ色のある服に着替えた。

これからそれが制服になると思うと、もう少し抵抗したくなった。


花はまだ部屋にいる。


その扉の前でしばらく迷った。

出かけると伝えるべきか。

そう考えること自体が変だった。

まるで、もう決めたことの許可をもらいに行くみたいで。


結局、台所のテーブルに夕飯代を置き、メモを残した。

ついでに英語でも書き直して、上に重ねておく。


どこへ行くかなんて、花は気にしない。

一人でいられる場所が必要なだけだ。


夕方の熱気の中へ出る。


ただの夕飯だ。

昔話をするだけだ。

それ以上じゃない。


運が残っているうちは、あまり欲を出さないほうがいい。

まだ片目は残っている。


由紀の家の前で、必要以上に長く立ち尽くした。

ノックしようとした瞬間、扉が開く。


ゆるく結ばれたアッシュブラウンの髪。

顔にかかる数本の髪。


由紀ではなかった。


りかが立っていた。


固まる。


シンプルなTシャツとショートパンツ。

コンカフェの制服とはまるで違う。

そういう格好だと、彼女は少し幼く見えた。


若い。


若すぎる。


その考えに頭がつまずき、すぐに引き返す。

まだ何も知らない。

聞いていない。

考えようともしていなかった。


それでも、他人の目にどう映るかは想像できた。


目は同じだった。


鋭い。

分かっている。

危うい。


しばらく、互いに黙っていた。


やがて彼女が笑う。

ゆっくりと。甘く。慣れた笑顔で。


一瞬だけ、世界がその顔だけに狭まった。

細く引かれたアイライン。

片方の肩から少し落ちたシャツ。

隠しきれていない笑み。


「こんばんは」

「健一さん、ですよね」


喉が詰まる。


「ああ」


りかは玄関の枠にもたれた。

ほんの少しだけ入口を塞ぐように。


首を傾げる。


視線が、一瞬だけ俺の痣へ落ちる。

正確に。短く。


そして目に戻る。


覚えている。

当然だ。


「びっくりしてる」


答えを知っている声だった。

この瞬間を待っていたみたいに。


「いや……まさか」


「私?」


首を傾ける。


「どうして?」


声は無邪気だった。

目は違った。


奥から由紀の声がする。


「りか、誰?」


彼女は目を逸らさないまま、一歩横へずれた。


「お母さん。健一」


由紀が台所から顔を出した。

手をタオルで拭きながら、ぱっと表情を明るくする。


「来てくれたんだ。入って」


中へ入る。


りかの横を通る瞬間、指先が俺の腕をかすめた。

偶然と言えないこともない、ほんの小さな接触。


何でもない。


何でもあった。


俺にとって、ではない。

誰かが見ていたらどう見えるか、という意味で。


由紀に案内され、食卓につく。


家の中には、味噌の煮える匂いと焼き魚の匂いがしていた。

本来なら、ほっとする匂いのはずだった。


まったく、そんな気分にはならなかった。


りかは向かいに座り、頬杖をついて俺を見ている。

薄く、楽しそうに。


由紀が目を逸らすたびに、表情が変わる。

遊ぶように。からかうように。試すように。


これは、昨夜の話だけじゃない。


もしこの部屋から話が外へ出たとき、誰が信じられるか。

その話だった。


「この子が娘のりか」


「会ったことあるよ」


りかがいたずらっぽく笑う。


「この前、道を教えてもらったんだ」

俺はすぐに割り込んだ。

「まだ町に慣れてなくて」


自分の笑い声が聞こえた。

嫌な音だった。


由紀は笑う。


「りか、昔からそういうところあるのよね」


そう言って、彼女の頭を軽く撫でた。

りかは避けない。


「面白いね」


りかの目は俺から離れない。


「今日は迷わず来られたんだ」


胃が落ちる。


台所でタイマーが鳴った。


「あ、ごめん。ちょっと見てくる」


由紀が席を立つ。


りかが身を乗り出した。


「緊張してる」


「してない」


「嘘」


落ち着いた声だった。


由紀が戻り、俺の前に皿を置く。


「それで」

お茶を注ぎながら、由紀が言う。

「こっちの生活は慣れた?」


「少しずつ。まだ荷ほどきも終わってない」


テーブルの下で、りかの足が俺の脚に触れた。


体が跳ねる。


彼女は動かない。


英会話教室のことを思い出す。

生徒たち。

扉の看板を信じて、そこに立つ男を信じようとする親たち。


消えるときは、たぶん一瞬だ。


由紀は何も知らずに話し続ける。


りかは俺を観察していた。

どこにひびが入るのか、覚えようとするみたいに。


そのとき、ようやくはっきり分かった。


俺は、何も悪いことはしていない。


でも、安全ではない。


「戻ってきてくれて嬉しい」


由紀が、心からの笑顔で言う。


「この町も、知ってる顔が増えると安心するし」


りかがお茶を一口飲む。

視線は俺に向いたまま。


「知ってる顔にも、いろいろあるよね」


小さな声だった。


脈が跳ねる。


由紀は意味を分からず笑う。


「最近、りかちょっと機嫌悪いの。年頃って難しいわね」


りかは甘く笑った。


「普通だよ、お母さん」


由紀はまた笑った。

自分が地雷と、その上に立っている男の間に座っていることに、まるで気づいていない。


由紀は仕事の話をした。

工場の夜勤。

ころころ変わるシフト。

英会話教室のこと。

実家のこと。


俺は自動的に答えた。


りかは聞いていた。

遮らない。

じっと見つめるわけでもない。

笑うべきところで笑い、皿を回し、グラスを満たす。


途中で学校の話も出た気がする。

何か聞かれた気もした。

気づいたときには、質問を聞き逃していた。


由紀が見ていないとき、りかが少しだけ身を寄せる。


「疲れてるね」


箸が止まる。


「もっと休んだほうがいいよ」


甘い声だった。


飲み込む。


由紀が笑う。


「昔からそうだったものね」


りかの笑みが深くなる。


「分かる」


由紀は楽しそうにお茶を注いだ。


「そういえばね」

由紀が言う。

「私、高校の頃、健一くんのこと好きだったんだよ」


湯のみを口元へ運ぶ途中で、固まった。


りかの箸も止まる。

視線が母親へ向き、それから俺へ戻った。


鋭い。

計算している。

気に入らない何かを測っている目だった。


「ほんとだよ」

由紀は気づかず続ける。

「みんな、けっこう好きだったと思う。静かだけど優しくて、先生にも信頼されてて」


小さく笑う。


「東京の大学に行くって聞いたとき、私も同じところ受けようって必死だったんだから。まあ、頭が足りなかったんだけど」


「そんなことは――」


「いいの」


由紀は手を振る。


「勉強、得意じゃなかったし。ただ、近くにいたら何か変わるかもって思ってた」


りかが椅子にもたれた。


ゆっくり伸びをする。

腕を上げると、シャツの裾が少しだけ持ち上がり、腰の上に細い肌が見えた。


何気ない動き。

退屈そうですらある。


それでも、目が落ちた。


由紀は気づかない。


「覚えてないと思ってた」

由紀が照れたように笑う。

「健一くん、いつも自分の頭の中で忙しそうだったし」


「覚えてる」


思ったより重い言葉になった。


由紀が顔を上げる。


「覚えてるの?」


「考えたことはあった。あの頃」


俺はテーブルから目を上げなかった。


「ただ……タイミングを待ってるうちに」


由紀の笑みが変わる。

明るくも、期待しているわけでもない。

もっと古い笑い方だった。


「健一くんらしい」


りかの視線が俺に戻る。

鋭く、値踏みするように。


「ねえ」


突然、りかが言った。


「昨日の夜、何してたの。健一」


昨日、という言葉が針みたいに刺さる。


箸が滑り、椀に小さな音を立てて当たった。


由紀が顔を上げる。


「昨日?」


「うん」


りかは箸先で器の縁を軽く叩く。


「駅前、混んでたって聞いたから」


無理に笑う。


「昔の友達と飲んでただけだ」


「友達」


りかは、その言葉を味わうように繰り返す。


「楽しそう。けっこう……濃かったんじゃない?」


テーブルの下で、また足が触れる。


今度は、偶然ではない。


俺は料理を見つめた。


由紀は何も気づかず笑う。


「昔の友達と会えるのって大事よね。昔の自分を覚えてくれてる人って、貴重だし」


りかがまた少し身を寄せる。

俺にしか聞こえない声で言った。


「覚えてる人にも、差があるよね」


由紀が皿を下げに立つまで、息ができなかった。


「デザート持ってくるね」


由紀が台所へ戻る。


りかは身を乗り出し、声をほとんど吐息まで落とした。


「安心して」


「秘密は守ってあげる」


そして、肌が粟立つほど甘い声で付け足す。


「今のところは」


胃がねじれる。


沈黙の約束ではない。

これは、弱みを握ったという宣言だった。


由紀が戻ってきて、俺は何も言えなくなった。


その後の会話は、ほとんど耳に入らなかった。


帰るとき、由紀は余ったおかずを持たせてくれた。


「ありがとう。いろいろ」


「いつでも来て」


由紀は温かく笑う。


「また会えてよかった」


玄関へ向かおうとしたとき、りかが俺の腕を掴んだ。


「もっと優しくしたほうがいいよ」


耳元で囁く。


「気が変わるかもしれないし」


胸が締めつけられる。


「りか――」


彼女は柔らかく、残酷に笑った。


「またね、健一」


外へ出ると、夜の空気が薄く感じた。


スマホを見る。


花からメッセージが来ていた。


『もう帰ってくる?』


思ったより長く、その文字を見つめていた。

震えていたことにも気づかなかった。


『今向かってる』


そう打つ。


何時間も遅かった。


歩き出す。

家を振り返らなかった。


振り返ったら、

まだそこに立って笑っている気がした。

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