第12話
最初に気づいたのは、動きだけだった。
遅れて入ってきた誰か。
床を擦る靴音。
それから、膝上まで伸びたソックスと、歩くたびに揺れる短いプリーツスカートの裾。
顔より先に、制服が目に入った。
そして視線がそこまで上がった瞬間、息が止まった。
よりにもよって、りかだった。
最初に湧いたのは、彼女への恐怖ではなかった。
花に見られることへの恐怖だった。
もし、ほんの一部でも何かを察されたら——
そのとき花がどんな顔をするのかを想像して、胃が冷えた。
りかの表情に、一瞬だけ得体の知れないものがよぎる。
それから、ゆっくりと笑った。
「こんにちは、先生」
最前列の席に、堂々と腰を下ろす。
数人の生徒がこちらを見る。
俺はぎこちなく頷いた。
「……こんにちは」
声だけは、なんとか落ち着いて聞こえた。
視界の端で、花が背筋を伸ばすのが分かった。
りかは教科書を開き、わざとらしいほどゆっくりページをめくった。
誰が見ても真面目な生徒にしか見えない——完璧な演技だった。
俺以外には。
黒板へ向き直るたび、背中にねっとりとした視線を感じた。
急がず、焦らず、じっくりとこちらを値踏みしている。
やがて、りかが手を上げた。
「先生」
「この部分、教えてもらえますか?」
一拍遅れた。
彼女の机の横にしゃがみ、声を落とす。
「何がしたい」
りかは少し身を寄せ、耳元で甘く息を吐いた。
「かまってほしいだけですよ?」
「仕事中だ。頼むから——」
指先が、俺の手首を優しくかすめた。
ほんの小さな接触。
見える場所で。
反応したら不利になる距離で。
心臓が激しく鳴った。
「落ち着いてよ」
彼女が囁く。
「ちゃんといい子にしてるでしょ?」
「やめろ」
立ち上がるのが早すぎた。
何人かがこちらを見る。
俺は無理やり笑顔を作った。
りかは気だるげに、しかし楽しげに俺を見ていた。その目は全く笑っていない。
「先生」
「待って。まだ分からないです」
室長が声をかけてきた。
「自習室、使っても大丈夫ですよ」
一瞬迷った。
「扉は開けたままで」
りかは俺の横をすり抜けながら、廊下に聞こえる声で言った。
「今日はずいぶん厳しいんですね、先生」
視界が一瞬滲んだ。
花に聞こえていたら——。
自習室に入ると、りかは扉をほとんど閉めた。
完全に閉めきらず、絶妙な隙間を残して。
「五分だけだ。何しに来た」
りかは肩をすくめた。
「ちょっと勉強しようと思って」
「ついでに挨拶」
「高校生だったなんて聞いてないぞ」
彼女は俺の腕を指でゆっくりと撫で、口元だけで笑った。
「聞いてなかったんですか? ……あの夜は、それどころじゃなかったですもんね」
「何が目的だ」
りかは首を傾げ、微笑んだ。目が笑っていない。
「目的って、冷たい言い方ですね」
「ただ……手伝ってほしいだけなのに」
制服の襟元に指をかけ、ゆっくり引き下げる。
谷間が強調される。俺は慌てて目を逸らした。
「今日は優しくしてあげてるのに…」
俺はすぐに目を逸らした。
「…つまらない人」
りかは向かいに座り、教科書を開く。
「仕事中だ」
「私のことも、ちゃんと見てよ」
答えない。
教科書が、ぱたりと閉じられた。
「ねえ。最近、考えてたんです」
「……何を」
りかは立ち上がり、スカートの裾を整えながら一歩近づいた。
「この町、狭いですよね」
「噂って、すぐ広がっちゃう」
脈が跳ねた。
「職場の人たち、どう思うんでしょうね」
「室長さんとか……他の先生たちとか」
「りか」
彼女は手を伸ばし、俺の痣のある頬に指を滑らせた。
「その痣、似合ってる」
耳元で囁く。
「ちょっと、色っぽいかも」
反射的に彼女の手首を掴んだ。
「やめろ」
強くは握っていない。
でも、触れた時点で失敗だった。
りかは引かず、俺を見上げて少し声を張った。
「先生、顔が赤いですよ? 大丈夫ですか?」
薄い壁の向こうまで届く声だった。
慌てて手を離す。
りかは喉の奥で小さく笑った。
「大丈夫。今日はまだ騒ぎにしないから」
そして再び唇を耳元に寄せ、甘く囁く。
「健一が、私にそうさせなければ……ね?」
「なんでこんなことする」
声がかすれた。
「何が欲しいんだ、お前は」
りかの笑みが冷たくなる。
「えっ、本気で聞いてるんですか?」
「私を使ったから、かな」
静かな声。
「ううん。違うかも」
彼女は俺の袖を指先で軽く摘まむ。
「あの夜、健一はちょっと違った」
「優しかった。無理に来なかった。私の顔、ちゃんと見ようとしてくれた」
りかは笑った。でも目は笑っていない。
「そういうの、迷惑なんだよ」
「私みたいな女でも、ちゃんと扱われることがあるんだって……勘違いしちゃうから」
声が低くなる。
「なのに最後は同じだった」
彼女の手が俺の胸に触れる。
激しくなった鼓動を、確かめるように。
「結局、男ってみんな犬なんだね」
表情がふっと変わる。
甘く、柔らかく、しかし底冷えのする笑顔に。
「だったら、ちゃんと躾けないとダメですね」
りかは俺の袖に指を滑らせ、誰が見ても分かる動きで撫でた。
「いい子にしてたら」
少し間を置いて。
「ご褒美、あげるかも」
シャンプーの甘い匂いが、息がかかる距離まで迫る。
「別に、健一を壊したいわけじゃないよ」
「……そんなの、すぐつまらなくなっちゃうし」
そう言って、りかは何事もなかったように部屋を出て行った。
俺はその場に立ち尽くした。
心臓だけがうるさく鳴っていた。
手には、いつの間にかホワイトボードのイレーザーを強く握りしめていた。




