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第13話

しばらくして、何でもないふりをするようにホワイトボードの前へ戻る。

消す必要のない文字を、意味もなくこすった。


どこまで聞こえていた。

あの部屋にカメラはあるのか。

本当に高校生なのか。

誰かが見ていたら、どう見えた。


考えが次々に浮かんでは、喉の奥で詰まる。


ようやく自習室を出たとき、俺は顔を上げられなかった。

誰とも目を合わせないまま、職員室のほうへ向かう。


その途中で、花に止められた。


彼女は俺の顔を見て、それからりかのほうを見る。

手に持っていた消しゴムで、小さく指した。


「知ってる人?」


「彼女は——」


言いかけて、止まる。


「生徒だ。たまに来る」


花の目が、ほんの少しだけ細くなった。


馬鹿じゃない。

分かっていなくても、空気の歪みくらいは感じ取れる。


花が何か言う前に、近くにいた講師へ声をかけた。


「すみません。花のプリント、少し見てもらえますか」


花が瞬きをする。


「私は大丈夫——」


「頼む」


自分でも、少し強い声だったと思う。


花の指が、鉛筆をきゅっと握った。

一度だけ。

隠そうとした小さな反応だった。


彼女は俺を見た。

傷ついた色が一瞬だけ浮かび、すぐ消える。


「……分かった」


花は参考書をまとめ、何も言わずにその講師についていった。


午後の残りの時間、りかは教室に残り続けた。


席に座り、教科書をめくっている。

まるで、もう覚えている場所をわざと探しているみたいに。


バッグのファスナーは閉まっている。

スマホにも触れない。


時間を潰している。


俺を待っている。


授業が終わると、花はロビーで待っていた。

どこか照れたように、少しだけ笑っている。


「どうだった——」


「悪い」


言葉が早すぎた。


「少し書類を片づけないといけない。先に帰っててくれるか」


笑みが揺れた。


「……そっか。分かった」


花は階段のほうへ向かう。


怒ってはいない。

ただ、少し小さく見えた。

自分が場所を取りすぎたのだと、勝手に思ってしまった人間みたいに。


最低だと思った。


それから数分、コピー機の前で無意味に紙を増やした。

りかが飽きて帰ることを期待して。


代わりに、袖を引かれた。


「先生」


りかが見上げてくる。

目を大きくして、無邪気なふりをしている。


下手すぎて、ほとんど挑発だった。


「もう帰る時間じゃないですか?」


もし、りかが花のことを知ったら。


花が俺にとってどういう存在なのか、少しでも気づいたら。


脅しなんて必要なくなる。

爆弾は、もう彼女の手の中にある。


声を整える。


「まだ仕事が残ってる」


りかが一歩近づき、声を落とした。


「ないでしょ」

「私を避けてるだけ」


答えなかった。


彼女は小さく笑う。

分かっている笑い方だった。


「今夜、会いに来て」


「無理だ」


早すぎた。

鋭すぎた。


りかの表情は変わらない。


でも、目の奥で何かが一瞬だけ揺れた。

傷みたいな、かすかな反応。


すぐに消える。


彼女は少し身を寄せた。

俺にだけ聞こえる距離で囁く。


「いい子には、ご褒美があるんだよ?」


一歩下がる。

仮面が、きれいに戻る。


「だから、今夜」


「行けない」


「どうして?」


「家に、人がいる」


言った瞬間、息が止まった。


余計なことを言った。


りかの目が、すぐに鋭くなる。


「人?」


喉が動かない。


彼女は首を傾げる。

頭の中で、欠片を並べている顔だった。


「隠してるんだ」


小さな声。


「誰かを」


反応しないようにした。


りかは、ゆっくり笑った。

危ない笑い方だった。


「いいよ。今夜はやめてあげる」


少し間を置く。


「でも、近いうちにね」


俺の横を通り過ぎる。


廊下まで届く、明るい声で言った。


「またね、先生」


その場に立ち尽くす。


心臓が鳴っている。


花が何も聞いていないことだけを祈った。


家に戻ると、花は部屋にこもっていた。


家の中は静かだった。

さっきまであったはずの温かさは、最初からなかったみたいに消えている。


食卓につき、何もない場所を見つめた。


一日のことを、何度も頭の中で繰り返す。


花と近づきたかった。


それなのに、俺は突き放した。


彼女を傷つけるほうを選んだ。

そのほうが、安全だと思ったから。


スマホが震える。


由紀からだった。


『明日、夕飯どう? りかも健一に来てほしいって』


画面を見つめる。


断ったら、りかが何をするのか分からない。

行ったら、何をされるのかも分からない。


それでも、指は動いた。


『行くよ』


送信する。


壁が少しずつ近づいてくるような気がした。


花の部屋の前に立ち、軽くノックする。


「なに?」


声は落ち着いていた。


落ち着きすぎていた。

失望していないふりをする人間の声だった。


「明日、夕飯に行くことになった」

「高校の頃の知り合いの家だ。俺の分は作らなくていい」


「……そっか」


少し間があった。


「私も行っていい?」


夕飯が目的ではない。


置いていかれたくないのだ。


また。


「もちろん」


部屋の中で、衣擦れの音がした。


小さく息を吐いたような音も。

ずっと息を止めていたみたいに。


「分かった」


今度の声は、少しだけ温かかった。

ちゃんと本物だった。


俺は廊下に立ったまま、取り返しのつかない間違いをしたような気がしていた。


さっきまで掴めていたはずの温かさが、

指の間からこぼれていく。

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