第10話
汗びっしょりで目が覚めた。
心臓がうるさい。
忘れてはいけないことを、今さら思い出したみたいに。
一瞬、ここがどこか分からなかった。
空気が静かすぎる。
きれいすぎる。
それから目の下が鈍く疼いて、思い出す。
そうだ。
家だ。
ゆっくり体を起こす。
背中の汗が冷えていく。
痣は脈に合わせて痛んでいた。
何かを数えているみたいに。
台所には、もう花がいた。
膝まで届く大きなTシャツ姿で、髪は急いで乾かしたのか、まだ少し湿っている。
俺が入ると、彼女の視線が反射的に俺の顔へ向かった。
「おはよう」
「早いな、いつも」
「おはよう」
少し迷ってから、何でもないことみたいに聞いてくる。
「昨日、どこ行ってたの」
「帰ってくるの、遅かった」
視線が一度流れ、また頬の痣へ戻る。
測るように。
喉が詰まる。
「外」
彼女は待った。
「誰と」
冷蔵庫を開ける。
棚の中に答えがあるふりをした。
「高校の頃の友達」
花は一度だけ頷いた。
納得したわけじゃない。
責めているわけでもない。
ただ、覚えておくような頷き方だった。
りかの笑顔が頭の端に浮かぶ。
店で見せたものでも、玄関で見せたものでもない。
今のところは。
あのときの笑顔。
噂になったら。
由紀に話されたら。
せめて、その前に花だけはここを出ていてほしい。
考えを押しのける。
「悪かった。勉強見るって言ってたのに」
「帰ったときには、もう寝てると思って」
花はいつもより少し長く俺を見た。
「今日、仕事?」
「ああ。研修期間だから、早めには帰れると思う」
マグカップにコーヒーを注ぐ。
焦げた味がした。
それでも飲んだ。
「遅くなければ、帰ってから見るよ」
花は首を振った。
「参考書は逃げないし」
「暇ならって言っただけ」
それ以上、追及しない。
花は、押したところで何も変わらないことを知っている。
食べ終えると、彼女は何も言わずに部屋へ戻っていった。
英会話教室は、誰にも大きな期待をされていない場所特有の静けさに包まれていた。
狭い、というより圧縮されている。
室長がプリントの束をこちらへ滑らせる。
「考えすぎなくて大丈夫です」
「生徒さんが安心してくれれば、それで十分なので」
安心。
それなら、できる気がした。
授業は何事もなく過ぎていった。
文法の説明。
発音練習。
分かったふりの頷き。
必要なところで笑う顔。
緊急事態はない。
怒鳴り声もない。
取り返しのつかない結果もない。
個別レッスン用の小さなブースや面談室はいくつかあったが、基本は自習スペースだった。
誰かに質問されなければ、ただ教室を回って、必要なときにそこにいる。
それだけ。
拍子抜けするほど楽だった。
午後になる頃には、それがこの仕事の本質なのだと分かってきた。
最後の授業のあと、簡単なフィードバックを受けて帰された。
家に戻ると、花はまたリビングの床に座っていた。
参考書に埋もれている。
俺が入っても、顔を上げない。
「腹減ってるか」
入口で、役にも立たず立ったまま聞く。
「もう食べた」
台所でしばらく迷う。
動くべきか、そこにいるべきか分からない。
数分後、鋭いため息が静けさを切った。
続いて、参考書が閉じられる音。
花がこめかみを押さえる。
「手伝うか」
彼女は参考書をこちらへ滑らせ、テーブルについた。
「ここ、分かんない」
一度読む。
もう一度読む。
「説明が悪いな、これ」
花が顔を上げる。
「そうなの?」
「ああ。お前が分かってないわけじゃない」
「見てろ」
ゆっくり崩して説明する。
できるだけ短く。
できるだけ余計なものを抜いて。
鉛筆の音が止まる。
肩の力が少し抜けた。
「あ」
「それだけ?」
「それだけ」
花はページに向かい、今度は迷いなく書き始めた。
「頭いいな」
口に出してから、しまったと思った。
花の手が止まる。
それから、小さく笑った。
笑っていいのか、まだ確かめているような笑い方だった。
無意識に手が伸び、頭を軽く撫でていた。
触れた瞬間、間違えたと思った。
すぐに手を引く。
「悪い。今のは――」
「いい」
早口だった。
慎重でもあった。
怒ってはいないように見えた。
「いい子だよ、花」
今度は、肩に一瞬だけ手を置く。
どれくらい長い間、誰にもそう言われていなかったのだろう。
それとも、俺が言ったところで意味なんてないのだろうか。
「次は?」
花はノートを閉じた。
「休憩したい」
「少し外に出たほうがいい」
「町でも見てこい。参考書以外のものも見たほうがいい。夏は短いしな」
分かったように頷く。
それから、少し迷った。
「英会話、たまに行ってもいい?」
瞬きをする。
「そういう意味で言ったんじゃないぞ」
「分かってる」
その正直さに、少し虚を突かれた。
「でも、まだ他に行くところ知らないし」
息を吐く。
「来たいなら、来ればいい」
花は頷いた。
隠しきれない安堵が、一瞬だけ顔に出る。
「夕飯、作る。何か食べたいものあるか?」
「……私が作ってもいい?」
「無理しなくていい」
「作られたくないの?」
慌てた声だった。
「そうじゃない」
「研修が終わったら、帰りは遅くなる。コンビニ弁当か、自分で作ることになるぞ」
「平気」
「料理、好きだし」
花は少し緊張した手つきで台所を動き回った。
材料を取り出す様子が、どこか練習してきたみたいだった。
皿を置かれて、瞬きをする。
オムライスだった。
「好きって言ってたから」
こちらの反応を、近すぎるくらい見ている。
笑いを堪えきれなかった。
花がむっとする。
「ごめ――」
「うまい」
もう一口食べる。
花の表情が、小さくほどけた。
「秘密を教えてやる」
少し笑う。
「これは、お母さんが唯一まともに作れた料理だった」
「それは言えなかったから、安全策で好物ってことにしてた」
花が笑った。
「今も上達してないよ」
「じゃあ、本当は何が好きなの?」
簡単な質問なのに、答えが出なかった。
好きなものなんて、何年も考えていない。
「さあな」
「花が作るものなら、何でもいいんじゃないか」
「じゃあ……これから夕飯、作ってもいい?」
少し迷ってから、続ける。
「そしたら、どれが好きか分かるかもしれないし」
手を伸ばし、今度は迷わず頭を撫でた。
少しだけ、そのままにしておく。
「なあ」
「うん?」
「お母さんには、そのうち言わないといけない」
花の表情がわずかに固まる。
「もう少し待って」
「言ったら、帰れって言われると思う」
頷いた。
夕飯のあと、花が皿を洗い、俺が拭いた。
家の空気が、少し変わっていた。
温かい、と思うにはまだ早い。
それでも、前よりは確かに近い。
俺がそれを受け取っていいのかは、分からなかった。




