第96話 降伏勧告
そして、また。
「凄い……」
ヴェロニカもまた、その姿に目を奪われていた。
「あれが本当にアゼルなの?」
悪魔憑きになったことでアゼルの身体能力は強化されている。
だから、普段の彼ではできないような動きだってできる。
それはわかる。
また、今の彼にはゼルペンティーナの未来視がある。
未来視の能力がなければ今の攻撃を全て躱すことはできなかったろう。
それも、わかる。
だが、いくらその二つがあったとして、誰もが彼のようなことができるだろうか?
あの神業のような身のこなし。
どんな負傷にも怯まない不屈の闘志。
恐ろしい強敵に立ち向かう、勇気。
何より、堂々としたあの立ち姿。敵を射抜く鋭い眼光と、凛々しい横顔……。
普段の彼とはあまりにも違う。
よく見知っていたはずの彼が、今はまるで別人のように見えた。
「どうした」
「え?」
「お前、首まで赤くなってるぞ。大丈夫か?」
「うるさいですよっ!」
「……何を怒っているんだ」
マルクが不可解そうに呟く。
「ていうか、あれは本当にアゼルなんでしょうか」
顔をパタパタと手で扇ぎながらヴェロニカは言った。
「なんか別人みたいじゃありません?」
「契約した悪魔に影響されていると言いたいのか」
「そうも見えます」
マルクは少し考えた後、首を振った。
「確かに普段とは少し様子が違うが、芯は変わっていないように俺には見える。むしろあれが本来のあいつなんじゃないかとすら思う」
「……」
「今のあいつには、身分差や立場なんてものはどうでもいいことなんだろう」
「……なんでちょっと嬉しそうなんですか?」
「さてな。それは多分、お前と同じ理由だろう」
「ふん」
ヴェロニカが顔を背ける。頬はいまだ朱に染まったままだ。
しかしその横顔が、ふと曇ったことにマルクは気付いた。
「クラリモンドのことか」
「……」
悪魔と契約した人間が、人が変わったように残忍な言動に及ぶことは珍しいことではない。
だがそれが果たして悪魔と契約したことで精神が変容したせいなのか。それとも、あくまでその人間本来の人格の意志なのか。
それは未だ解明されていない謎だった。
クラリモンドは騎士団の人間や二人の司教を残酷に殺した。
その殺戮に嬉々として手を染めたのがクラリモンド自身であると、ヴェロニカは信じたくなかった。
「捕まえて聞き出すしかないだろう。……そうしなければ彼らは浮かばれない」
「……すみません」
ヴェロニカは頭を下げた。
犠牲になった騎士たちはマルクにとっては身内なのだ。
彼らの遺体は悼まれることすらなく今も戦場に放置されている。
それを目の当たりにせざるを得ない彼に対し、無神経だったとヴェロニカは悔いた。
「マルク様は凄いですね。こんな状況で……いつも通り、冷静で」
堪えていない筈はない。日頃はいつも鉄面皮の彼だが、内面は驚くほど情に篤いのだということは今日だけで十分に理解できた。
そんな彼が取り乱すことも当たり散らすこともせず、むしろ他者を気遣っている。
驚くべき自制心だった。
「そんなことはない。……だが、この状況だ。まずは自分にできることをしなければと気を張っているだけさ」
マルクは床に横たわるリタを一瞥した。
彼女の意識は未だ戻る気配がない。
その寝顔を見ながらマルクは続けた。
「それが彼らに報いることだからな」
「自分に……できること」
ヴェロニカは自分の手を見つめた。
ならば、自分には何ができるのだろう?
顔を上げ、「彼」を見る。
彼女の視線の先で、彼は父の形見だと話してくれた短剣を悪魔に向けていた。
「降伏しろ。お前に勝ち目はない」
「降伏だと……」
クラリモンドの姿を借りたロミュオーが憎々しげに牙を剥き出す。
怯むことなくアゼルは告げた。
「もうわかったはずだ。お前は、俺には勝てない」
「……」
ロミュオーは口惜しげに表情を歪めると、改めて相手を見やった。
みすぼらしい子供。
改めて観察しても、それ以外の何物でもなかった。
強大な悪魔である自分に比べればとるに足らない、あまりに矮小な存在だ。
その筈だった。
騎士でもなければ神官でもなく、ましてや聖女のような特別な存在では決してない。
突出した才もなければ訓練も受けていない。特別な運命の下に生まれたわけでもない。
ただの、子供。
戦闘のセンスが多少あることは認めてやるが、それとて常人の域を超えるほどではない。
たまたま身近に聖女という特別な存在がいただけの、平凡な少年に過ぎない。
上級悪魔に迫る力を持つ強大な悪魔であり、魔王ラウエリンの側近となる予定の自分とは比較にもならない。
自分が天高く聳え立つ山塊だとしたら、この少年は路傍に転がるちっぽけな小石だ。
気まぐれに蹴飛ばしてやったところで、意識に上りすらしない石ころに過ぎないではないか。
「そんなゴミカスが……」
屈辱のあまり、奥歯を力の限り噛み締める。
それでも抑えきれない怨嗟の声が溢れ出す。
「虫けら同然の下級悪魔の力を得た程度でこの僕を脅かすなど、決してありえない! あってはならないのだ!」
激怒のあまり我を忘れたロミュオーが詠唱を始める。
油断なく構えながらアゼルは告げた。
「無駄だ。そんなもの俺にはもう当たらない」
「ふん、そうだろうな。お前には当たらない……」
ロミュオーは魔術の予備動作を行いながら、そう忌々しげに認めた。
しかし一転、下卑た笑みをその口元に浮かべた。
そして――アゼルの後方へと視線を向ける。
「!」
思わず息を呑んだ。
『ロミュオー、何をするつもり!? まさか――』
「ええい、五月蝿い! なりふり構っていられるか!」
ロミュオーはクラリモンドの抗議を無視すると、右手をマルク達に向けて翳した。
「避けられるものなら避けてみるがいい。その代わり奴らは全滅だがな!」
掲げたロミュオーの掌に白い光が膨れ上がる。
瞬間、アゼルは迷った。
マルク達を庇いに向かうか。
それとも、魔術の発動前に敵を斬り伏せるか。
はたしてそれは間に合うのか?
戦闘の経験が足りないアゼルは咄嗟の判断に迷い、その一瞬の迷いが致命的な遅れを生んだ。
「まとめて跡形も無く吹き飛ぶがいい!」
ロミュオーの呪文が完成する。
焦るアゼルの視界の中で、悪魔は残忍な笑みを浮かべた。
「灰燼に帰せ。爆発せよ!」
「く……っ!」
視界が眩い光で埋め尽くされてゆく。
その白光に灼かれたように頭がまっ白になり、無我夢中で駆け出そうとした時――アゼルの耳に、誰かの声が届いた。
『「アゼル!』」
目の眩むような、一瞬の閃光。
――直後。
聖堂全体を揺るがす、大爆発が起きた。




