第90話 アゼルの牙
その姿を目にした時、ヴェロニカは危うく泣きだすところだった。
「バカ……。遅いのよ」
死んでしまったとは思っていなかった。
それでも、心配していた。
「人をさんざん待たせて」
待ち望んだ彼は「人の姿」を取り戻していた。
ただ、人間に戻ったわけでもなかった。
「……『魔鎧』を纏ったか」
ロミュオーの視線が警戒を帯びる。
歩きながら、アゼルは左右に視線を走らせた。
そして傷ついた友人達の姿を見て、眼に静かに怒りを浮かべた。
「魔鎧を形成できる下級悪魔とは珍しいな」
「だから下級悪魔じゃないって言ってるでしょうに」
相手の挑発を軽く受け流してゼルペンティーナが答える。
「これで条件は五分ね」
「五分?五分だって?笑わせてくれる」
ロミュオーが明らかな侮蔑を口にする。
「そんな貧相な魔鎧を形成したくらいでこの僕と互したつもりか?身の程知らずにも程がある」
「……」
悪魔同士のやりとりは無視し、アゼルは黙って足を進める。
「その薄さは何だ?そんなペラペラな薄皮が魔鎧などとは片腹痛い。そんなものは鎧ではなく紙だ!」
一理ある、とヴェロニカは思わずにいられなかった。
クラリモンドが纏う魔鎧は全身を厚く覆った見るからに頑強なもので、おまけに装飾なのか実用的なものなのか、あちこちから凶悪な角やトゲが何本も生えている。
いかにも悪魔らしいというか、見る者に禍々しい印象を与えずにおかない意匠だった。
一方アゼルの魔鎧はと言えばロミュオーが揶揄した通り、お粗末なものと言わざるを得なかった。
余計な装飾といったものがほとんどなく、おまけに身体に密着しているためにボディラインがほぼ浮き彫りになってしまっている。
元々のアゼルの体型が痩せぎすなだけに、貧相に見えてしまうのは否定できない。鎧というより、ただピッタリとした黒い服を身に付けただけにも見える。
ただヴェロニカは、アゼルの身体が細いながらも意外に筋肉質であることに驚いていた。
気のせいか、いつもより身体が一回り大きく見える。
それが悪魔と契約したせいなのか、普段からそうだったのか。ヴェロニカには判断がつかない。
そして、もう一つ。いや二つ、気付いたことがあった。
「羽」と「尻尾」だ。
アゼルは背中から蝙蝠を思わせる小さな羽を、そして腰からは細い尻尾を生やしていたのだ。
先ほどの怪物めいた姿とは明らかに違う。
それでも彼は確かに悪魔憑きになってしまったのだと、ヴェロニカは理解せざるを得なかった。
「小僧、お前も気の毒だな。そんな虫けらの口車に乗ってむざむざ死地に舞い戻ってくるとは」
「……」
ロミュオーの口調がさっきより粗暴になっていることにアゼルは気が付いた。
自分より下等と見なした相手にはこの口調なのだろうか。それとも、この尊大で横柄な態度がこの悪魔の本性なのだろうか?
そんなどうでもいいことを考えつつも、歩みは止めない。
「だが唆されて調子に乗ったお前にも非がある。せいぜい――」
「おい」
ロミュオーの腕を掴んで、アゼルは言った。
「いいかげんこの汚い腕を離せ」
「っ!?」
驚愕に顔を歪めたロミュオーが忙しなく視線を動かす。
さっきまでアゼルが立っていた位置。
そして今、自分の腕を掴んでいる少年の間を。
何度も視線を左右させ、自分の腕を握り潰そうとしている少年が紛れもなくアゼル本人に他ならぬことを悟ると、ロミュオーは改めて驚きの声を洩らした。
「馬鹿な。貴様、いつの間に……!?」
「いいから」
自分より倍ほども太い悪魔の手を力任せに引き下ろしながらアゼルは言った。
「離せと言っているんだ!」
めきめきっ!
「ぐぅぅっ!」
腕を圧迫される痛みと動揺のあまり、ロミュオーが堪らず手を離す。
どさっと音を立ててマルクは床に落ちた。
「がはっ!ごほっ、ごほっ……!」
掴まれていた首を擦りながら盛大に咳き込むマルクに、アゼルは声を掛けた。
「大丈夫か、マルク」
「あ、ああ」
マルクが軽く驚いた顔をする。
次にアゼルはヴェロニカの方を向いた。
「ヴェロニカ」
「えっ!……な、なに?」
「アンジェリカは無事か?」
「ええ、気を失ってるけど大丈夫。傷は完治しているはずだから」
「ならいい。リタのところにいてくれ。まとまっていた方が守りやすい」
そう言うと今度はまたマルクの方を向く。
「アンジェリカを運んでやってくれ」
「わかった」
小さく頷いたマルクが言われた通りに動き始める。
ヴェロニカは暫し呆気に取られた後、アゼルの元に駆け寄った。
「ちょ、ちょっとあんた、大丈夫なの?本当に勝てるの?」
ロミュオーとクラリモンドを目線で示しながら聞く。
先ほどの動きに面食らったのか、悪魔たちは距離を取ってアゼルの様子を窺っている。
そちらを視線で牽制しながらアゼルは答えた。
「ああ、勝てる。そうだなゼラ?」
「もちろんよ、アゼル」
アゼルの背中から鎌首を伸ばしたゼルペンティーナが同意する。
「だそうだ。だから心配いらない」
「心配いらないって……」
相手の口元から何かが覘いたことに気付き、ヴェロニカは口をつぐんだ。
それは、牙だった。
アゼルの上顎の犬歯が伸び、もはや牙と言える程に成長している。
思わずそれに気を取られているヴェロニカにアゼルは告げた。
「あいつは俺が倒す。だから、下がって見ていろ」
「はぃ……」
思わずそう返事をしてしまったヴェロニカが慌てて口を抑える。
赤面して悶える彼女に鼻先を突きつけ、ゼルペンティーナが意地悪くからかった。
「あらあんた、赤くなってんの?」
「うるさい!」
慌てて顔を隠しつつ、ヴェロニカがマルク達のもとへと駆けていく。
それを見送りながらゼルペンティーナは言った。
「マルク、手を出しなさい」
「こうか?」
疑いもせずにマルクが手を掲げる。
するとその上に、なんの前触れもなく鞘に納まった剣が現れ、手の中に落下した。
「これは……」
剣を受け取ったマルクが呟く。
それは彼が使っているものと同じ、柄に騎士団の徽章がついた剣だった。
「さっき拾っておいたのよ。必要でしょ」
「……ああ」
マルクは少し複雑そうな顔で剣を眺めていたが、すぐに割り切って鞘を払う。
それを横目で見ながらアゼルは尋ねた。
「今のは何をしたんだ?」
「亜空間に収容していた物を取り出しただけ。そういう魔法があるのよ」
「なるほど」
そう言えば、以前にも何もない所から燭台を出してみせたことがあった。
先ほど自分の左腕を運んできたのも、今思えばそれだったのだろう。
「あんた達、いい?アゼルが言った通り、あいつは私達が倒す。だけどクラリモンドはともかく、ロミュオーの奴は追い詰められたら何をするかわからないわ」
アゼルに敵への警戒を任せ、ゼルペンティーナがマルク達に指示を飛ばす。
「その時はあんた達が自力でなんとかしなさい。いいわね?」
「ああ」
「わかったわ」
二人が頷くのを見届けると、ゼルペンティーナは満足げに首を引っ込めた。




