第8話 悪魔と悪魔憑きについて
「とにかく、悪魔は俺達の世界の住人じゃない。だから悪魔はこの世界には存在しない」
「え?でも……」
アゼルは思わず声を上げた。その悪魔が昨日、街に出たのではなかったか?
その疑問は予期していたのか、マルクが頷いた。
「そう、現実問題として悪魔はこちらの世界に現れている。では、奴らがどこから現れるかわかるか?」
「いえ」
「人間の心。いや――魂だ」
「……魂から?」
アゼルは首を捻った。魂から悪魔が現れるとは、一体どういうことなのだろう。
「今言った通り、天界や魔界は純粋に霊的な世界だ。だから人間は肉体を持ったままそのどちらにも行くことはできない。だが俺たち人間を構成しているのは物質だけではない」
「それが、魂だと?」
「そうだ。人間の魂は純粋に霊的な要素だ。だから死んで肉体を失えば、その魂は解き放たれて死後の世界へと向かう」
マルクは少し視線を彷徨わせた。亡くなったという知人のことを考えているのだろうかとアゼルは思った。
「魂は生きている間は肉体という檻に囚われている。だから通常ならこの物質世界に固定されていて、離れることはない。……だが、時に例外が生じる」
「例外?」
「強い怒りや悲しみ、或いは憎悪や強烈な欲望……。人間の心がそうした負の方向に振れた時、魂が魔界と繋がってしまうことが稀にあるんだ。その現象を『魂の門』という」
「『アストラル・ゲート』……」
初めて耳にする言葉だった。特に、アストラルという言葉は耳慣れない響きだ。
だがゲートならさすがに意味はわかる。門という意味だ。
「肉体から離れないまま、魂だけが魔界に繋がってしまうということでしょうか?」
「そうだ」
アゼルは怖気を振るった。悪魔という恐ろしい存在がいることは知っていたが、そうした理屈で現れることまでは知らなかったのだ。
「それでは、いつどこに悪魔が現れてもおかしくないのでは……」
「理屈ではな。だが、それはあくまで稀な現象だ。別に悪人の魂の全てが魔界に繋がるというものでもないからな。何か条件があるのだろう。……そうでなければ日常生活は成り立たない」
それを聞いて安堵する。たしかに悪魔騒ぎなど、滅多に聞かない。
「魂の門は――個人差はあるが――最初は悪魔が潜りぬけられるほど大きなものではないという。そこで悪魔はゲートを通じて人間に話しかけ、悪の道に誘うんだ。するとどうなると思う?」
「門が……大きくなる?」
「そうだ。人間の心が悪に傾くほど、魂の門は大きくなっていく」
マルクは少し手を休め、顎に溜まった汗を拭った。
「最初の第一段階は悪魔の声が聞こえるだけだ。しかしその声に耳を傾け、言葉巧みに惹きこまれてしまうと、次には悪魔の姿が見えるようになる。これが第二段階だ」
「その第二段階が過ぎるとどうなるのですか?」
アゼルも手を休めた。なんとなく、仕事の合間の雑談で済ませてよい話ではない気がしたからだ。
「第二段階が過ぎると、悪魔は人間に契約を持ちかける。願いを叶えてやるかわりにお前の身体を使わせろ、とな。人間がそれに同意すると、悪魔はとうとうこちらの世界にやってきてしまう。そして人間の肉体にとり憑き、こちらの世界で活動できる実体を手に入れるんだ。これが第三段階だな」
「悪魔に身体を乗っ取られてしまうのですか?」
「いや、その段階ではまだ人間の自我が残っている。一つの身体を人間と悪魔で共有しているんだ。学者に言わせれば、正確には少し違うそうだが……詳しく聞きたいか?」
「いえ、そこまでは……」
曖昧に首を振る。そんな難しい話をいきなり聞かされても理解できそうにない。
マルクも細かい点にこだわっても意味がないと思ったか、あっさり頷く。
「助かる。……とにかく、悪魔はこちらの世界にやってきた直後にはその人間と一つの肉体で共存している。その状態を俗に『悪魔憑き』という」
「『悪魔憑き』……」
なんだかイヤな響きだ、とアゼルは思った。
「悪魔憑きとなった人間は悪魔の力を自由に使える。そうして好き放題している内に次第に理性を失い、いつしか本当の悪魔になってしまうんだ」
「悪魔になるというのは、完全に身体を乗っ取られてしまうということでしょうか?」
「それについては諸説ある。悪魔が人間の魂を喰って身体を乗っ取るという説もあれば、人間の魂そのものが悪魔に変容するという説もある。或いは人間の魂と悪魔の魂が融合してしまうのだという主張もあるし、それら全てのケースがあり得るといっている学者もいる」
マルクは肩を竦めた。
「要は、よくわかっていないということだ。悪魔憑きにせよ悪魔にせよ、生きたまま捕らえることは難しいからな。捕獲は退治するより数倍困難だ」
「なるほど……」
悪魔を研究するにはまず生け捕りにしなくてはならない。その困難さはアゼルにもなんとなく想像できた。
そこで話が一区切り付いたと思ったのか、マルクが穴掘りを再開する。
アゼルも手を動かしつつ口を開いた。
「だけど、そうやって聞くと普通の魔物と悪魔は確かにぜんぜん違うんですね」
「そうだな」
「僕、あまり物を知らなくて。勘違いしていました。お恥ずかしい限りです」
「……むしろそれが普通だ」
「え?」
「悪魔と魔物の違いなんて、大抵の人間は知らない。まっとうに生きている者が悪魔に関わることなど、滅多にないんだからな」
淡々とした口調でそう告げると、マルクはこちらに再び背を向けた。
寡黙に作業を続けるその背中を見ている内に、ようやくわかった。
(『だから気にするな』ってこと……だよな?)
確証はないが、きっとそうなのだろう。
いや、そのはずだ。
アゼルはその時、マルクとどう接していけばいいのかわかった気がした。




