第87話 クラリモンドの述懐
※第63話に会衆席についての記述がありますが、これはやっぱりなしでお願いします(戦いの邪魔なので)。修正する余裕がないので……すみません。
「はぁ、はぁ……はぁ……っ」
マルクが荒い呼吸を繰り返す。
手にした剣は刃毀れが酷く、折れていないのが不思議な有様だった。
「たいしたものねぇ、マルク」
感心したようにクラリモンドは言った。
「そんなナマクラで私の攻撃を何回もしのぐなんて。あなたがいなかったら、リタは何回死んでいたかわからないわ」
「おかげさま……でな」
息も絶え絶えといった有様で、マルクが精一杯の虚勢を張る。
「アゼルの時と比べて攻撃の速度が遅い。俺を舐めているのか?もっと速くしても俺は構わんぞ」
「可愛いわね、必死に強がっちゃって」
見透かしたようにクラリモンドが憫笑する。
「もう限界が近いのでしょう。立っているのもやっとなんじゃない?」
「……」
「マルク様……」
戦いのことなどヴェロニカにはわからない。しかし、マルクが限界を迎えているのは明らかだった。
なにしろリタを狙って放たれる攻撃を、彼はもう5回も防いでいるのだ。
悪魔憑きとなったアゼルとは違い、マルクは生身の人間に過ぎない。わずかでもタイミングを間違えればリタかマルクか、或いはその両方が死ぬ。
そんな極限状態の中でマルクは神経をすり減らしながら、信じられないほどの集中力でクラリモンドの攻撃を逸らし、凌ぎ続けていた。
それは達人技とも言える技巧。しかし、それを支える気力も集中力も、疲労で尽きかけている。
次の攻撃を防げるとは思えない。
「……」
「どうしたのロミュオー。神妙な顔しちゃって?」
「いや……少し気になることがあってね」
クラリモンドの問いにロミュオーが首を振る。
彼の視線はマルクに向いていた。
「気になることって?」
「いや……何でもないよ。たぶん気のせいさ」
ロミュオーはそう言うと打って変わって陽気な顔を作った。
「だけどそろそろお遊びは十分だろう。この騎士君の頑張りは見ものだったけど、さすがに飽きてきたよ。次はお望み通り本気を出して、彼を楽にしてあげようよ」
「そうねぇ」
「……!」
このままではマルクが殺される。
そう思ったヴェロニカは、咄嗟にクラリモンドに呼び掛けた。
「ま……待ってください、クラリモンド様!」
クラリモンドが動きを止める。
そして、ゆっくりと顔を動かす。
「……あら。どうしたのヴェロニカ?」
クラリモンドの視線が自分へと向けられる。
ただそれだけで、ヴェロニカは意識が遠のきそうになるのを、必死に堪えなければならなかった。
正直、恐ろしかった。今の彼女は自分の知っていた、慕っていた師ではないのだ。
何を考えているかわからない。
それでも、止めなければならない。少しでも時間を稼がなくてはならない。
それに……彼女に聞きたいことがあるのもまた、事実だった。
「どうしてこのようなことをするのですか?」
「……」
「私にはいまだに信じられません。あの、誰よりも気高くて公正だった院長様が、こんなことをするなんて。一体、何があったというのですか」
「何があった……と聞かれてもね」
クラリモンドは困ったように眉根を寄せた。
それは彼女が神学の授業中に、生徒から的外れな質問をされた時によく見せた表情だった。
ヴェロニカはそれを見て、いくら姿形が変わっても彼女が紛れもなくクラリモンド本人であること、そして彼女が別に狂気に陥ったわけでもなんでもなく、彼女自身の意思によってこれらの行為に及んでいることを、今さらながらに痛感させられた。
「それについてはセラピオンの爺さん相手に言ったことが全てよ。あなただってそれは聞いていたでしょう?」
「司教様が仰っていた方のことですか?ロムアルド……とかいう」
「それはきっかけに過ぎないわ」
クラリモンドは苦笑を漏らした。
「きっかけ?」
「私の歩んでいる道は本当に正しいのか……そう考えるようになったきっかけということよ。思えば私は、あの時に初めて自分の人生に疑問を抱いたのね。そのほんの小さな疑問が少しずつ……本当に少しずつ積もり積もって、退屈で長い長い私の人生の終わり頃になって、こんな形で破裂してしまった」
「……」
「私がかつて若い男に惑わされたのは事実よ。そして一時とはいえ、違う人生を夢見たこともあった。でも若い頃の私はその誘惑を振り切って、信仰の道に殉じることを選んだ。それなのに……言ったでしょう?女神も、天使も、そんな私の長年に及ぶ献身と忠節に、ついに報いてはくださらなかった。それどころかリタなんていう、何の苦労も葛藤も知らない小娘をお選びになった……」
クラリモンドはそこまで言うと、天を仰いで睨んだ。
「こんなに人を馬鹿にした話はないでしょう?これは私への侮辱以外の何物でもないわ」
「そんな……侮辱だなんて」
「いいや、彼女の言う通りさ。女神はクラリモンドの献身を受けるだけ受け取っておいて対価を払わなかったんだ。こんな契約不履行、許されざることだよ」
ロミュオーが背後からクラリモンドの腰に腕を回す。
「だから僕が代わりに取り返してあげることにしたのさ。女神が彼女から奪った無為な時間を。女神のせいで手に入れることができなかった、実り豊かな人生の果実をね」
「あんたは黙っててよ!」
「おお怖い。ヒステリーは嫌われるよ、お嬢さん」
激昂のあまりヴェロニカは思わず声を荒げた。
言ってしまってからヒヤリとしたが、当のロミュオーはただ肩をすくめただけだった。
ヴェロニカは歯噛みした。あのいけすかない悪魔にとって、自分は何の脅威にもならない存在なのだ。
すると、そんな彼女を宥めるようにクラリモンドは言った。
「ねぇヴェロニカ、そう怒らないでちょうだい。あなたなら私の気持ちがわかるでしょう?」
「え……?」
「私はあなたのことが他人事とは思えないの。だってそうでしょう?あなたは自分の生家であるパウルマン家を再び盛り立てるために懸命に努力している。かつての私もそうだったわ」
「クラリモンド様も……」
「ええ。私の生家であるコンティーニ家の格を維持するために、私は修道女になることを親から求められた。私は幼い頃から出来がよかったから、教会で高い地位に就くことを期待されたのよ。権威を得られるなら教会である必要はなかったんだろうけど……わかるでしょう?私たちに取れる選択肢はそれほど多くないもの」
「……はい」
いくら才覚があったところで、この国で女性がその才覚を認められる道は限られている。
昔に比べれば幾らかマシになったとはいうものの、国政に携わるような要職を占めるのは男性ばかりで、まだまだ男性優位が罷り通っていた。
卓越した魔術や学問の才があれば、それを活かす道はある。しかし狭き門を潜り抜けて宮廷魔術師になろうと、或いは学術院で出世しようと、貴族社会における評価という点ではそれほど効果的とは言えなかった。
貴族の家に産まれた女が自家の繁栄に貢献しようと思うなら、政略結婚に勤しむ方がよほど手っ取り早い――身も蓋もないが、それがこの国の実情なのだ。
そんな中、教会で高位聖職者の地位に就くことはその数少ない例外と言えた。
教会は世俗権力である各国の王家に並ぶか、或いはそれ以上の高い権威を有している。それゆえ、一族の者が教会で高い地位を手に入れれば、必然的にその家の権威も高まるのだった。
「一族に期待された私は、だけど天使を手に入れることができなかった。それでも努力の甲斐あって司祭となり、この修道院を任されるまでになったわ。その意味では努力が報われたと言えないこともないでしょう。でも……それが何だというの?」
クラリモンドは笑みを浮かべた。
自嘲的な、悲哀の滲み出た笑みを。
「そんなのまるで無意味だったのよ。家督を継いだ私の弟が、たまたま公爵令嬢に見初められた。そのおかげでコンティーニ家の地位は安泰となったわ。弟夫妻の間には跡取りが生まれ、何の問題もなく代を継いで、今では孫に囲まれている。大して努力もしていない私の弟妹たちはそれぞれが幸福な家庭を築いているというのに、教会の修道女として地位を築いた私は今さら世俗に戻ることもできない。そんな私に両親は死ぬ時も、最期まで労いの言葉一つかけなかった……」
宙を見て独白していたクラリモンドは、ふとヴェロニカに視線を移した。
「わかるでしょう?彼らにとって私はコンティーニ家を維持するための礎でしかなかった。そして礎にもなれなかった私は、今や敬して遠ざけられるだけの存在でしかない。……血の繋がった一族なんていっても、所詮はその程度のものなのよ」
「……」
魔道に堕ちた師の視線に耐え切れず、ヴェロニカは目を逸らした。
いや、視線を落とした。
昨日まで敬愛していた師に憐憫の視線を向けたくなかったのが理由の一つ。
だが……それ以上に、身につまされたからだった。
認めたくはない。
決して認めたくはないものの……思い当たることが、ないではなかった。
「これは忠告よ。家のために頑張るだなんて、もうおやめなさい。そんなのはね、まるで無意味なのよ」
「無意味……」
「そうよ。誰かのために自分の人生を犠牲にするなんて間違っているわ」
「……」
ヴェロニカは何も言えなかった。
否定したくても、できなかった。
師の独白に共感を覚えている自分が、たしかにいる。
悪魔憑きに堕ちた師の姿が、未来の自分の姿ではないとはっきり言い切る自信が、ヴェロニカにはなかった。
そんな彼女に向けて、慈しみすら感じさせる声音でクラリモンドが続ける。
「ヴェロニカ 、あなたなら私の気持ちがわかるはずよ。私は貴女の為を思って言っているのよ――」
「言ってやんなよヴェラ。そんなのぜんぜんわかんないってさ」
そう言って口を挟んだのは――アンジェリカだった。




