第86話 本当の契約
「……」
アゼルは口をつぐんだ。
「言っている意味はわかるでしょう?」
そんなアゼルの反応を窺うようにゼルペンティーナが顔を見上げる。
「あなたが私と契約する理由は、リタを悪魔の手から護るため。それをあの子に教えてはいけないということは……」
「リタに誤解されるってことか」
「そういうこと」
ゼルペンティーナが首を縦に振る。
「リタは女神イシュターを信奉する教会の聖女よ。本質的に悪魔の存在を受け入れない」
「……」
「そんなあの子からすれば、大切な幼馴染が悪魔憑きになったと知ったら相当なショックでしょうね。受け入れることなんて到底できないし、理解だってしてもらえない。それどころか拒絶されるかもしれない」
「……だろうな」
「もっとも、その理由が自分を護るためと知ったら話は別でしょうけどね」
「……」
再びアゼルは黙り込んだ。
「だからこれは制約であり、同時に代償でもあるのよ。私と契約する本当の理由を話せないということは、あなたとリタの関係性の破綻を意味する。それはあなたにとって、これ以上ないほど大きな代償でしょう?」
「その制約を破ったらどうなるんだ?」
「その場合、あなたは身体と魂をただちに失うことになる。肉体の所有権が完全に私のものになり、あなたの魂も私の支配下に置かれることになるわ。まあ人間の尺度で言えば「死ぬ」のとほぼ同義でしょうね」
「そうか」
短く呟く。
そんなアゼルに念を押すようにゼルペンティーナが続ける。
「言っておくけれど、自分の口から言わなければいいだけだなんて思わないことね。誰かに伝えてもらうこともできないし、文字にするのも駄目よ。リタに伝えようとする行為そのものが……」
「わかった。それで契約しよう」
話を遮ってそう告げると、ゼルペンティーナは少し驚いたようだった。
「ちょっと、本当にちゃんと考えたの?この条件を受け入れたら、あんたは――」
「わかったと言ったはずだ。僕はその条件で構わない」
表情を変えることなく、告げる。
「最初からそのつもりだった」
自分を救うために幼馴染が悪魔憑きになったと知ったら、リタは自分を責めるだろう。
だから、本当は知られたくなかった。
騒ぎが起きる前にリタに迫る危険を密かに排除し、黙って姿を消す。
それが最善の形だった。
(僕がもっと早く決断していれば)
そう思うと悔やんでも悔やみきれない。
もっと早くゼルペンティーナのことを信じて契約していれば、無駄な犠牲が出ることもなく、リタを危険な目に遭わせることもなかったのだ。
でも、今さらそんなことを言っても仕方がない。
こうなった以上はせめて、できるだけそれに近い形で事態を収めたかった。
その点、リタの意識がないのは不幸中の幸いだ。
ロミュオーとクラリモンドを排除した後、マルク達に口止めして、速やかにここを去る。
それで全ては丸く収まる。
「……そう。だったらいいわ」
表情からアゼルの決意を読み取ったのか、ゼルペンティーナはそれ以上は聞かなかった。
「これで契約成立ね。よろしく、アゼル」
「ああ。よろしくな、ゼルペンティーナ」
そう口にした瞬間、アゼルは不思議な感覚に囚われた。
自分の心の中の扉が開き、どこかに繋がったような、奇妙な感覚。
扉の向こうには知らない景色が広がっている。
そして、そこに誰かが立っている――そう感じた。
「これは……?」
妙な感覚に戸惑いながらアゼルが呟く。
「契約に特別な行為は必要ないの。二人が同意を示した時点で契約は成立する。私達の内的世界に存在する扉が通じ、魂の経絡が繋がった」
「魂が、繋がった……」
「目を閉じれば感じるはずよ、自分の中にいる私の存在を。……私があなたを感じるように」
言われた通りに瞼を閉じる。
(……なるほど)
奇妙な感覚だった。自分の心の中に、自分ではない『誰か』がいる。
これがゼルペンティーナの魂なのだろうか?
アゼルがそう思った時、そのゼルペンティーナらしきものの魂から『力』が流れ込んでくるのがわかった。
流れ込む力の奔流が、自分の肉体を造り変えていく。
アゼルという人間を、その存在ごと変質させていく。
――今度こそ、本当に。
「そのままで聞いてちょうだい。あと一つだけ、話しておくことがある」
「なんだ、今さら」
「契約が成立した今だからできる話よ。リタを狙っている黒幕を教えてあげる」
「……黒幕?」
「リタが聖女になることを事前に察知した奴がいるのよ。そしてロミュオーとクラリモンドのことを知り、リタを殺させるように仕向けた。聖女を殺したら褒美を与えるとか言い含めてね」
「なんだって……!」
アゼルが目を見開く。
「ロミュオーを倒しても終わりじゃないってことか」
「ええ。そいつが生きている限り、リタは命を狙われ続ける」
(なんてことだ)
怒りの余り目が眩んだ。
必ずそいつを倒さなければと思った。
「教えろゼラ。その黒幕の正体を」
「急かさなくても教えてあげるわ。リタを狙っているのはね――『魔王』よ」
「魔王……だって?」
「ええ。 魔界を支配する五人の公爵たち。人間達から魔王と呼ばれて恐れられている彼らの内の一人が、リタの命を狙っている」
「……!」
思わず息を呑んだ。
魔王がリタの命を狙っている?
「怖気づいた?」
「まさか」
アゼルは即座に首を振った。
驚きはした。想像した以上に敵は強大で、前途は気が遠くなるほどに困難だとも感じた。
しかし、手を引こうなどとは微塵も思わなかった。
たとえ想像を絶するような苦難がこの先に待ち受けているとしても、何としてもその魔王を排除しなければならない。
そいつがリタを狙うというのなら。必ずこの手で……。
「それでこそよ」
ゼルペンティーナが満足そうに笑う。
「リタを狙う魔王の名は、『ラウエリン』」
「ラウエリン……」
「ええ。魔界を支配する五大公爵が一柱。『謀略の魔王』と呼ばれる大悪魔」
ゼルペンティーナは一瞬、凄絶なまでの感情を迸らせた。
「私の父と二人の姉を殺し、その地位と力を奪った女よ」
アゼルは思わず息を呑んだ。
「お前……」
「私があなたを選んだ理由がわかったでしょう?」
そう口にした時にはもう、ゼルペンティーナはいつもの飄々とした調子に戻っている。
だからアゼルは、何も言わずに頷いた。
それを見たゼルペンティーナが満足げに続ける。
「私とあなたの目的は一致している。あなたはリタを護るため、私は父親から受け継ぐはずだった力と権能を取り戻すために、なんとしてもラウエリンを滅ぼさなくてはならない」
「……ああ」
ゼルペンティーナがなぜ自分を選んだのか、ずっと疑問に思っていた。
リタの命が狙いでないなら、なぜ自分のような普通の子供を選んだのか?と。
その答えが、これだったのだ。
アゼルはようやく心から納得した。
そんなアゼルに、蛇の姿をした悪魔はからかうように言った。
「こんな話に乗るイカれた奴、あんたぐらいしかいないからね」
「そうだな」
思わず苦笑が漏れたものの、素直に認める。
魔王を倒すなんて、はっきり言って夢物語だ。こんな話を本気にする奴はいないし、人生の全てを擲ってでも果たそうとする奴なんて、そうはいない。
だが、自分にはある。
それがどんなに過酷な道だろうと、絶対に成し遂げたいだけの理由が。
(だからこいつは僕を選んだ)
自分一人では到底叶えられない悲願。それを叶えるための協力者として、ゼルペンティーナは自分を選んだ。
同じ決意を共有できる、相棒として。
(だったら、信じられる)
悪魔の言うことを信じるなんて、愚かかもしれない。
だが、目的と利害が一致している。手を組む理由なんてそれで十分だ。
それに――さっきの言葉。
いつも飄々としているゼルペンティーナが一瞬だけ垣間見せた、あの激情。
あれが嘘だとはどうしても思えなかった。
だからアゼルは、自分から手を差し伸べた。
「一緒に戦おう、ゼラ。ラウエリンを滅ぼすために」
「ええ。奴を倒すその日まで、あんたは私の相棒よ」
その右腕を這い伝い、ゼルペンティーナがアゼルの首にぐるぐると巻きつく。
と、その細長い蛇体が徐々に輪郭を失っていく。
ゼルペンティーナの身体は黒い靄のようになり、アゼルの身体をゆっくりと覆い始めた。
「これは……」
感じたことのない『力』が全身に満ちてくるのをアゼルは感じた。
今ならどんな敵が相手でも怖くない。そう思える。
そして……不思議と懐かしい感じがした。
『アゼル』
頭の中に、声が響いた。
『行くわよ。まずはあの三下をぶちのめしましょう』
「ああ。奴を倒す」
『相棒』に向けて、彼は告げた。
「そして――皆を護る」




