第78話 涙の温度
「……なぁに、あれは?」
クラリモンドが不審げに眉根を寄せる。
それも無理はなかった。
突如その場に現れた『それ』は正体不明の生物……否。
怪物だったのだから。
『それ』は、人間とも獣ともつかない姿をしていた。
少なくとも尋常の生物ではない。
一応は二本の足で立ってはいるものの、手足はまともな生物としてはアンバランスなまでに異様に膨れ上がっている。
全身は黒とも緑ともつかぬ奇妙な質感の皮膚で覆われていて、顔は既存のどの獣のものとも異なっていた。
強いて言えば魔物のように見える。
だが、その場の誰もこんな魔物の名は知らなかった。
ぐるるるる……!
怪物が喉の奥から唸り声を発する。
その腕にはクラリモンドの尾が深々と突き立っていた。
本来なら胸に突き刺さるはずだったそれを、怪物が腕を翳したためにそこに刺さったのだった。
刺さった部位からは血が垂れている。
しかし怪物はそれを意に介していないようだった。
「な、なにあれ……化け物?」
その異様な姿を見たアンジェリカが怯える。
「ど、どうしようヴェラ。悪魔がもう一体出てきちゃったよぉ」
「しっ。……黙って、アンジェ」
「え?」
アンジェリカは息を呑んだ。
親友の発したその声が、あまりにも切なげだったから。
傍らを見ると、ヴェロニカは泣きそうな顔で怪物の姿を見つめていた。
そして――目を逸らすことなく、言った。
「お願い。あいつを……化け物だなんて、言わないで」
「……そうだな」
マルクが静かに同意する。
彼にもわかっていた。
あの怪物は胸に突き刺さる筈だった攻撃を腕で受けた。
異様な外観に惑わされさえしなければ、それは獣ではなく人間の動きだ。
何より、あの怪物はキュリルスを庇ったのだ。
だとしたら、あれは……。
「アゼル。……お前さん、アゼルなのか?」
自分を見下ろしている怪物めいた巨体にそう言ったのは、キュリルスだった。
もはや気力が尽きたのか、立ち上がれないでいる。
だが、命に別状はない。
「きゅり、ルす、さマ。ごぶジ……デす、か?」
たどたどしい口調で怪物は言った。
「ああ。わしは無事じゃ……お前さんのおかげでな」
「よカッ、タ」
「良かないわい。来るなと言ったじゃろうが」
「すみ、マ……せン」
怪物は……いやアゼルは腕に刺さった尾を抜き取ろうとした。
それに気付いたクラリモンドが自分から引き抜き、尻尾を回収する。
「謝って済む話か。それも、そんな……姿になりおってからに」
変わり果てたアゼルの姿を見上げ、キュリルスは声を詰まらせた。
「これはわしらの仕事じゃ。お前さんが命を懸ける義務などないというのに」
「ギむじゃ、ナイ。コれハ、ぼクじしんの……のぞミ、だカラ」
「莫迦者、め……」
キュリルスはそこまで言うと意識を失った。
アゼルは老騎士の様子を確認し、ひとまず大丈夫そうだと判断すると、クラリモンドに向き直る。
そしてロミュオーとクラリモンドもまた、突如として現れた闖入者を観察していた。
「……もしやあれが、キミの言っていた奴かい?」
値踏みするようにアゼルをジロジロと見ながら、ロミュオーが訊ねる。
「そうみたいね。結界の外でちょろちょろしていた雑魚悪魔よ」
クラリモンドは相槌を打つと、異形の姿と化したアゼルを見て侮りを口にした。
「下働きの子供をたぶらかして契約したみたいね。……まあ、取るに足りない相手でしょう」
「どうやらそのようだね」
ロミュオーは頷くも、アゼルへの警戒を解かなかった。
「しかしイレギュラーは歓迎できない。ここはさっさとやるべきことを済ませてしまおう」
「わかったわ」
言うや否や、必殺の尾がゾワリと蠢き、リタ目掛けて飛ぶ。
「くっ!」
咄嗟にマルクがリタの身体に覆い被さる。その背に――
がぎんっ!
突き立とうとした二本の尾を、疾風の如く駆けつけたアゼルが腕で弾き飛ばした。
マルクが、自分を救った怪物を下から見上げる。
「お前……アゼルなのか?」
「はイ」
自分よりも背の低かった友人が見上げるほどの異形の巨躯となったのを見て、さしものマルクもしばし言葉をなくした。
「まるクさま。りタハ……」
「……ああ、とりあえず無事だ。今は魔力切れで眠っている」
「そウですカ。……よカッタ」
「――よくないわよ、ばか」
なにか温かい物が自分の手に触れるのを感じ、アゼルは視線を落とした。
「リタを護るために、こんな姿になって。あんた、ホントに馬鹿よ。……大馬鹿よ」
ヴェロニカだった。変わり果てたアゼルの手に自分の手を重ね、ポロポロと涙を零していた。
小さくて、温かな手だった。
「ヴぇろにか、サマ。オ手ヲ……触れてハ」
「何よ。私があんたを怖がると思ってるの?気味悪がるとでも思ってるの?」
ヴェロニカはキュッと唇を結ぶと、今度は両の手でしっかりとアゼルの掌を握った。
「舐めんじゃないわよ。例えどんな姿になろうと、私があんたに触れるのを躊躇う訳ないじゃない」
「……。ありガとウ……ゴざいマす」
少女の涙が、また腕に落ちる。
なんて熱い涙だろうとアゼルは思った。
「リタだケじゃ……なイ。あナたタチモ、ぼくガ……マモりまス」
「……ええ。頼んだわね……アゼル」
ヴェロニカが泣き笑いの顔で見上げる。
しばしそのまま、二人で見つめあい……。
「ちょちょちょ、ちょ――っと待って!」
そこに割り込んだのは、アンジェリカだった。
「……何よ、アンジェ」
ヴェロニカが憮然と顔を向ける。
「ジャマしてごめんね!……え、でも、どういうことなの?さっきから皆なに言ってんの?」
この場で唯一話についていけていないアンジェリカが、鬱憤を晴らすように一気に捲くし立てる。
「これがアゼルってこと?そんなことある?なんかもー、訳わかんない。いいかげん説明してよぉ!」
「ちょっと落ち着きなさいよ、アンジェ」
「いや落ち着ける訳ないでしょ!」
珍しく取り乱している様子の親友を少し新鮮な気分で眺めつつ、ヴェロニカは涙を拭った。
「っていうか皆、なんでそんなにあっさり受け入れてるの?え、私がおかしいの?」
「落ち着けアンジェリカ、お前はおかしくない。俺達は予め事情を聞いていたから驚かないだけだ」
「事情ってなに!?」
「アゼルはリタに危険が迫っているのを知っていたのよ。それでリタを護るために悪魔憑きになったわけ」
言いながらヴェロニカが横に立つ巨体を軽く睨む。
それはそれとして怒っているのだ。
少し居心地の悪さを感じ、アゼルはソッと目を逸らした。
「ざっと説明するとこんなところね」
「説明が雑すぎる!」
投げやりな説明にアンジェリカは文句を言った。
ただ、口ではそう言いつつもそれで納得してしまっている自分がいた。確かにリタのためならアゼルはこれぐらいやりそうだ。
こんな雑な説明でも納得できてしまえる辺りにアゼルの人柄が表れているなぁ、などと思いつつその巨体を見上げる。
「でも、そっかぁ。リタを護るためにそんな姿になったんだ……」
異形となった友人をしげしげと眺めていると、思わずしみじみとした声が洩れた。
「馬鹿だねぇ、アゼルは」
「バカですミませン……」
「あははっ。なんで謝っちゃうの?」
縮こまるように頭を下げた巨体を見て、つい吹き出してしまう。
「そんな強そうになったのに、おっかしーの」
最初に見た時は怖がってしまったが、こうして見ると意外と悪くないかもとアンジェリカは思った。
愛嬌があって、けっこう可愛いかもしれない。
なんだったらうちで飼いたいかも。……なんて言ったら怒られるだろうけど。
「ま、悪魔と契約したからってそうそう性格の根っこは変わらないってことよ」
「へぇ、そういうもんなんだね。……って、え?今の誰?」
聞き覚えのない声を耳にしたアンジェリカが目をぱちくりさせる。
と、おかしなモノが目に入った。
アゼルの肩?の辺りに、何か細長いものが生えているのだ。




