第75話 ゼルペンティーナ
だが今は揉めている時間などない。
「鍵を取ってきてくれ。場所は……」
「わかってるわ。そこの机の抽斗でしょ?」
こともなげにそう言うと、ゼルペンティーナはするするとアゼルの腕から離れていく。
向かう先は、隅に据えられた書き物机。
自分に足枷を嵌めたキュリルスがそこに鍵束をしまうのを、アゼルは目ざとく見ていたのだ。
「気付いてたのか」
「そりゃそうでしょ。わかりやすく視線を向けてたし」
言いながらゼルペンティーナが器用に取っ手を咥えて抽斗を開ける。
アゼルは頷きを返した。
そう。キュリルスは口ではああ言いつつも、選択の余地を残してくれた。
そうでなければあんなにしつこく「来るな」とは言わないだろう。
「はい、鍵よ」
「すまない」
ゼルペンティーナが咥えてきた鍵束を受け取り、足枷を外そうと試みる。
そうしながら訊いた。
「騎士団は勝てるのか?」
「勝てないわ」
ゼルペンティーナはあっさりと首を横に振った。
アゼルは何も言わず、手元に視線を戻した。
最初に手に取った鍵は、どうやっても鍵穴に入らなかった。
「いま聖堂で暴れてるのはね、ロミュオーという中級悪魔よ」
「ロミュオー?」
「ええ。伸縮自在な四本の尻尾に加えて、強力な魔法を操る厄介な奴よ。中級悪魔の中ではかなりの実力者ね。聖騎士でもないただの騎士じゃ束になっても勝ち目はないわ」
「……そうか」
どうやらこの鍵ではないようだ。
アゼルは諦めて別の鍵を手に取った。
「助けられるのか?」
再び鍵穴に差し込もうとしながら訊ねる。
「誰を?」
「キュリルス様を。……いや、キュリルス様だけじゃない。皆を」
「さて、どうかしら。断言することはできないわ」
しかし、やはり入らない。この鍵でもないようだ。
不正解の鍵を手放し、また別の鍵を掴む。
その時、アゼルはふと思い出した。
これと似たやりとりを以前にもしたことを。
「契約したらリタは助かるのか」と聞いた時、たしかこいつはこう答えたのだ。
『その可能性が生じるわ』と……。
「ゼルペンティーナ、言い方を変える。僕がお前と契約すれば、皆が助かる可能性が生じるのか?」
金属の感触を指に感じながら、今度こそはと祈りながら鍵穴に近づける。
するとゼルペンティーナは満足そうに頷いた。
「ええ、生じるわ。あなたが私と契約するなら」
アゼルはようやく正しい鍵を見つけた。
祈るように差し込んだ鍵が、吸い込まれるように鍵穴に入っていく。
「……わかった。それでいい」
差し込んだ鍵を捻ると、足枷はカチャンという小気味よい音を立てて外れた。
ようやく自由になったアゼルは、改めてゼルペンティーナに向き直った。
「僕はお前と契約する」
背中を丸め、相手を覗き込むように顔を近づける。
「だから……お願いだ。皆を助けてくれ」
この悪魔の真意は今もってはっきりしない。
何が狙いなのか。どうして自分にこだわるのか、わからない。
だが、このままではどの道リタは殺される。
この状況で今さらゼルペンティーナを疑う意味などない。
「……」
ゼルペンティーナはアゼルにジッと視線を注いだ。
そして突き放すように言った。
「お断りよ」
「……なんだって?」
思いがけない言葉にアゼルは面食らった。
訳がわからなかった。契約をずっと望んでいたのはそちらの方ではなかったのか。
自分の決断が遅かったためにこの事態を招いてしまったことを怒っているのだろうか?
そう思ったアゼルは、地面に擦り付けるように頭を下げた。
「頼む、ゼルペンティーナ。この通りだ!」
「……」
「僕の身体でも魂でも、お前が望むものを何でもやる!なんだって言うことを聞く。だから……っ」
「なにか勘違いしているようね」
「え?」
顔を上げたアゼルに、ゼルペンティーナは静かに告げた。
「私は悪魔なのよ。誰かを守るとか助けるとか、そういうのはガラじゃないの」
「でも、契約すれば皆を助けられるかもしれないんだろ」
「ええ、その通りよ」
「なら――」
「ただし、それをするのは私じゃない」
こちらの言葉を遮るように悪魔は続けた。
「助けるのは私じゃない。アゼル、あなたが助けるのよ」
「……僕が?」
その言葉にアゼルは戸惑った。
わずかに迷い、考えて。
そして……力なく肩を落とす。
悔しさに顔を歪ませながら、口を開いた。
「そんなの……できるものなら僕だってそうしたいさ!」
口から洩れた言葉には思いがけず力が入った。
目の前の悪魔に対する怒りではない。それは、自分に対する怒り。
リタを守るためなら命だって惜しくないと言いながら、結局は何もできない自分の不甲斐なさが許せなかった。
腹が立って仕方がなかった。
「だけど、僕にそんな力は……っ」
「わかっているわ」
自虐的な言葉を重ねようとした時、それをゼルペンティーナが遮った。
アゼルの感情を鎮めるような、穏やかな声音で。
「だから私が貸してあげると言っているの。困難に立ち向かうための力を」
「――え?」
その言葉にアゼルは顔を上げた。
すると、相手と目が合った。
蛇の姿をした悪魔が、まっすぐに自分を見つめていた。
「私の力を貴方にあげる」
見ていると吸い込まれそうなほどに透き通った、神秘的な青い瞳をアゼルに向けながら、ゼルペンティーナは言った。
「だからアゼル。貴方の大切なものは、貴方自身の手で守りなさい」
「――っ」
アゼルは思わず、呆気に取られた。
「……お前、本当に悪魔なのか?」
呆れてそう呟くと、聞き咎めた相手が睨んできた。
「どういう意味よ」
「いや、何でもない」
苦笑しながら首を振る。
……一瞬、目の前の相手がまるで違うものに見えた。
蛇の姿をした悪魔ではない。迷える年少者に道を指し示す、まっとうな大人のように見えたのだ。
それは例えば、教師のような。
或いは、年の離れた姉のような。
もしくは――そう。
「母親」のように。
(バカだな、僕は)
我ながらどうかしている。いくら顔も覚えていないとはいえ、母親と悪魔を重ねるだなんて。
天国にいる母がこれを知ったら、なんと言うだろう。
(……それでも)
こいつを信じたい。
いや……信じてみたい。
そう思えたのは確かだった。
「わかった」
だからアゼルは言った。
「お前の力を貸してくれ、ゼラ」
「了解よ、アゼル」
ゼルペンティーナの顎が大きく裂ける。
牙を覗かせたその恐ろしげな顔が、実は笑っているのだということを、既にアゼルは知っている。
「それで、契約ってどうするんだ?」
「右手の人差し指を出しなさい」
「こうか?」
言われた通りに指を差し出す。
するとゼルペンティーナは口を開け、その指を噛んだ。
「……!」
驚きはしたものの、相手を信じると決めたアゼルは取り乱さなかった。
黙ってその痛みに耐える。
と――。『何か』が、体の中に侵入してくるのがわかった。
ドクン……!
心臓が、大きく脈打つ。
体が熱い。
噛まれた指先から流れ込んでくる形のないものがジワジワと全身に伝わり、広がっていく。
それは身体の中を切りつけられるような苦痛を伴った。
「ぐ……っ!あぁ……っ」
とうとう耐え切れずに呻き声が漏れる。
まるで神経を苛み、激痛をもたらす毒を注ぎ込まれたかのようだった。
(いや……そうじゃない)
アゼルは思った。――自分の身体が少しずつ、造り変えられていくようだと。
それは事実、その通りだった。
突然、腕の肉がボコッと異様に盛り上がった。
異常は一箇所だけでは済まず、立て続けに全身のあちこちで生じ、アゼルの肉体を徐々に別の何かへと変貌させていく。
(リタ……)
異形の姿に全身を造り変えられる、全身を苛む激痛に気が狂いそうになりながらも、アゼルはひたすら大切な人のことを想った。




