第73話 一方その頃
アゼルの耳がピクリと動いた。
「……今、何か声が聞こえませんでしたか?」
「声?いや、何も聞こえんかったが。どんな声だったんじゃ?」
「一人の声というより、どよめきのような……。或いは、声ではなく大きな音だったかもしれません」
「はっきりしないのう。気のせいではないのか?」
「そうかもしれません」
そう言われると自信がなくなる。この営倉の中では外の音が聞き取り辛い。
遠く離れた場所の音なら尚更だ。
「そうとは言いきれませんよ。亜人は人族より感覚が鋭いといいますし」
アゼルの監視役に残ったもう一人の若い騎士が言った。
「我々には聞こえない声も、彼には聞こえているのかも」
「ふん、だとしたらそれはきっと喝采の声じゃろうな」
キュリルスが訳知り顔で言った。
「リタ様が真の聖女となられ、皆が喜んでいるのじゃろう」
「そうかもしれませんね」
実際そう聞こえないでもなかった。大勢の人が騒いでいるような……。
しかし、だとしたらなんとも言えない胸騒ぎがするのは何故なのだろう。
そんなアゼルの不安も知らず、キュリルスは嘆かわしそうに首を振った。
「やれやれ、聖堂では晴れがましく儀式をしているというのに我々はこんな穴蔵でぼやくしかないとはのう。あっちがどうなっておるのか、誰ぞ知らせてくれる気の利く者はおらんのか」
今朝から何度も口にされた愚痴にアゼルが苦笑していると……。
「だったら私が教えてあげるわよ」
「……え?」
唐突に闖入してきた声に一同はハッとした。
「なんじゃ今の声は?」
「一体どこから……」
狼狽する騎士達をよそに、アゼルの鋭敏な聴覚は営倉に現れた物音を捉えていた。
一体いつから入り込んでいたのか、灯火の当たらない影を伝うようにして床の上を何かが這ってくる。
「ゼルペンティーナか」
「ええ、そうよ」
その声はすぐ近くから聞こえた。
それもそのはず。音もなく近づいたゼルペンティーナはアゼルの右腕に巻きついていたのだ。
突然現れた奇怪な蛇の姿に騎士達は仰天した。
「あっ!?蛇だ!」
「おのれ!いつのまに入り込んだ!?」
「ついさっきよ。そんな興奮しないの。血圧上がるわよ、おじいちゃん」
「なんじゃと!?蛇風情にそんなこと言われる筋合いないわっ」
「落ち着いてキュリルスさん、こいつが例の悪魔ですよ!」
「ご名答。お初にお目に掛かるわね。私がゼルペンティーナよ」
そう言うと蛇の姿をした悪魔は鎌首をもたげ、アゼルに鼻先を向けた。
「災難だったわねアゼル。でも自業自得よ。さっさと決断しなかったあなたのね」
詰るような口調だった。
あの時契約していればこうはならなかったのだろうか、とアゼルは思った。
しかしそんなこと今はどうでもいい。
「それより外はどうなっているんだ。リタは聖女になれたのか?」
「ええ、なれたわ」
「それは真か!」
キュリルスが歓喜の声を上げる。
待ち望んだ吉報に今だけ闖入者への警戒を忘れたようだ。
「おい悪魔よ、リタ様は本当に聖女になられたのか」
「本当よ。リタの祈りに女神が応えた。熾天使アスタルテーが降臨し、あの子は真の聖女となったのよ」
「なんとめでたい!」
くしゃくしゃに顔を歪めて老騎士は快哉を上げた。
「それこそ人類全てが待ち望んだ宿願ではないか。くぅっ、そんな奇跡がすぐそこで行われたというのに、それを拝めんとは……このキュリルス一生の不覚!」
「残念だったわねぇ。でも、拝まなくてよかったんじゃない?」
「なんじゃと?それはどういう意味じゃ」
「あの場にいたらあんた今ごろ死んでたわよ、キュリルスおじいちゃん」
「何……!?」
「ゼルペンティーナ、それはどういう意味だ。まさか……」
「まさかも何もないでしょう?アゼル」
アゼルに向き直ったゼルペンティーナは平坦な口調で告げた。
「私は言ったはずよ。リタは聖女になる。そして悪魔に殺される、とね」
「……!」
アゼルの全身が総毛立つ。
「リタは、リタは無事なのか!」
「今は無事よ。まだ」
そっけなく蛇は言った。
「騎士団が守っているからね」
「聖堂で騎士団と悪魔が戦っているというのか……!」
一転して表情を引き締めたキュリルスが呻く。
「そうよ。だけどその騎士団も既に壊滅状態」
「信じられん!」
「そんなこと言われても、事実だしねぇ」
「そもそも悪魔が結界内に入れる訳があるまい!」
「何言ってるのよ、現に私が今、ここにいるじゃない」
こともなげに言う悪魔にアゼルが尋ねた。
「そういえばお前、どうやって入ってきたんだ?ここは結界内だろう」
「どうやっても何も、普通に入ってきたわよ。結界が消えたからね」
「結界が……消えた?」
「結界を壊した奴がいるのよ。だから入ってこれたわけ」
「他人事のように言いおって。お前が壊したのだろう!」
キュリルスがゼルペンティーナに剣を向ける。
蛇の悪魔はそれを見ると嘲笑した。
「馬鹿ねぇ、私じゃないわよ。悪魔は結界を突破できない。だから今までここに来れなかったんじゃない」
「だったらどうやって結界を壊した!?」
「だから私じゃないってば。ちょっとは頭を使って考えなさいな」
ゼルペンティーナは剣を向けられても動じず、落ち着き払っている。
その態度にキュリルスが鼻白む。
「今も言ったけれど、悪魔は結界を突破できない。結界を壊したのは人間よ」
「人間じゃと?」
「結界は悪魔はもちろん、悪魔憑きをも寄せ付けない。悪魔憑き自身は人間でも、その魂は悪魔と繋がっているからね」
「それが何じゃ」
「でも、悪魔と契約する前なら話は別。完全に悪魔憑きになる前なら純粋な人間だから結界は反応しない。それを利用して人間を動かした奴がいるってことよ」
「……あえて契約を結ばずにおいて、人間に結界を壊させたってことか?」
「そういうこと。修道院の内部にリタが聖女になることを快く思わない奴がいたのよ。そいつがリタが聖女になるのを見届けた上で、宝玉を破壊した。そして今は悪魔憑きになってリタを殺そうとしている」
「なんと……!」
キュリルスが絶句する。
「それは一体誰なんだ?その唆された奴というのは」
もう一人の騎士が尋ねた。彼はすっかりゼルペンティーナの言葉を信じているようだった。
その態度に気をよくしたか、ゼルペンティーナは素直に答えを口にした。
「教えてあげる。そいつはね、アゼルのことを騎士団に密告した奴よ」
「なに?」
騎士達が互いに視線を交し合う。
一方、アゼルは衝撃を受けていた。
「そんな。じゃあ、ヴェロニカ様が……!?」
信じられない気持ちだった。
確かにヴェロニカはリタが聖女になることを快く思っていなかった。
しかし、だからといってそこまでの行動に出るとは……。
自分が誘いを断ったことで彼女を追い詰めてしまったのだろうか、と自責の念に駆られるアゼルに、ゼルペンティーナは呆れたように言った。
「は?ヴェロニカ?……あんた何言ってんの?」
「え……違うのか?」
「悪魔に憑かれたのも、あんたを密告したのもヴェロニカじゃないわよ」
「……そう、なのか」
その醒めた反応にアゼルは戸惑う。
てっきりヴェロニカが自分を密告したものと思い込んでいたからだ。
「当たり前じゃない。あんたってばホント、つくづくあの子のことがわかってないのねぇ……」
そんなアゼルにさも呆れ果てたというように、ゼルペンティーナは深々と嘆息した。
「あの子があんたを裏切るような真似、する訳ないじゃない」
アゼルは思わず赤面した。
頬を赤らめるアゼルに向けてゼルペンティーナは、
「あんたがあの子を裏切らない限りね」
――と付け加えた。
「……そうか」
静かに呟く。
(僕が彼女を裏切らない限り、か)
では、昨日のことを彼女は裏切りとは考えていないということなのか。
だとしたら……彼女はなんて優しいのだろう?
「だけど、じゃあ誰が僕のことを騎士団に報せたんだ?他にお前のことを知っていた人なんて……」
「あんたは気づいてなかったでしょうけど、あの時小屋の外で盗み聞きしてた奴がいるのよ。そいつがあんたを密告したの」
「そうだったのか……」
密告したのはヴェロニカではないと知り、アゼルは素直に嬉しかった。
あれだけ傷つけたのだから、そうされても仕方ない。……そう思っていただけに、余計に。
「あの子なら、昨日はずっと調べ物をしていたみたいよ。夜中に書庫に忍び込んで、どうやら徹夜したようね。青い顔してフラフラしてたわ」
「調べ物?それって……」




