第70話 脅し
そう言われてようやく、天使の姿を先ほどから見ていないことに気が付いた。
「あれ、そういえば、天使様、いないね。帰っちゃった、の?」
既に息切れしている様子のアンジェリカに尋ねられるも、リタは戸惑うばかりだった。
なにしろ自分にもわからないのだ。
代わって疑問に答えたのはヴェロニカだった。
「一度契約した天使はそう簡単に還ったりしないわ。単に引っ込んだだけでしょう」
「そうなの?」
「その筈よ。リタ、どうなの。アスタルテーの存在を感じない?」
「ん……。そうね、感じるわ。うまく言えないけど、自分の中にアスタルテーがいるのがわかる」
消えていることに気付いた時は少し焦ったが、気を落ち着けると先程感じた超常的な存在との絆らしきものを胸の辺りに感じることができ、リタは安堵を覚えた。
「だったら大丈夫よ。おそらく驚いた拍子に無意識に引っ込めてしまったんでしょう。未熟な証拠ね」
「そうなんだ?ありがとう、ヴェラ」
「はぁ?あんた、嫌味言われたってわからないの?なんで礼なんて言うのよ」
「だって、アスタルテーが還ってないってわかって安心したもの。やっぱりヴェラは頼りになるわ」
「……ふん」
ヴェロニカがそっぽを向く。不機嫌そうに見えるが、照れているだけにも見える。
少なくとも先程までのような沈んだ顔ではないので、アンジェリカは少し安心した。
そうして身廊の中央辺りまできた時、マルクが前方を指差した。
「問題はあれだ。……あれじゃ外に出られない」
出口には人が殺到し、犇いていた。
狭い出入り口に一斉に人が押し寄せてしまったせいで、つかえているのだ。
この修道院のシスターや見習い達に加え、聖楽隊の人々、そしてこの儀式に出席するために遠近からやってきた高位聖職者たちと、彼らが引き連れてきた従者たち。
恐怖に駆られて逃げ惑うそれらの人々が互いを押し合い、服を掴むなどして足を引っ張り合っている。
ヴェロニカは舌打ちした。
「あれでも神に仕える身なの?日頃の研鑽はどこにいったのよ」
「しょうがないよ。皆が真面目に修行してたわけじゃないし」
「あんたが言うと説得力が違うわね」
「どうにか混乱を鎮めないと……」
リタがそう言った時だった。
聖堂に、あの悪魔の声が朗々と響き渡ったのは。
「爆発せよ」
――次の瞬間、背後で巨大な爆音が轟いた。
「きゃあぁっ!」
「リタ!」
爆風で転びそうになったリタをマルクが咄嗟に支える。
「大丈夫か?」
「え、ええ。二人は大丈夫?」
リタが友人二人に声を掛ける。
彼女たちは地面に投げ出される形で倒れていた。
「……ま、ケガはしてないわよ」
「同じく……」
二人が倒れたままなんとか答える。
見れば砂埃と爆風で服が煤けているものの、たしかに怪我はなさそうだ。
リタはホッと息を吐いた。
「大丈夫そうね」
「ああ。だが一体何が……」
爆発のあった内陣の方向に目を遣ったマルクの顔が凍りつく。
「どうしたの、マルク……」
それに気付いたリタは視線を追い、言葉を失った。
悪魔と騎士団が睨みあっていたはずの内陣周辺は、惨憺たる有様となっていた。
堅牢な石造りの床は見る影も無く陥没し、巨大な穴が開いている。砕かれた大小無数の石片が乱雑に飛び散り、静謐さを誇った聖堂を惨めな姿に変えていた。
また身廊の会衆席は爆炎で軒並み吹き飛ばされ、机や椅子はただの木片となり、無惨に焼け焦げて黒々とした煙を上げていた。
その大穴の周辺に、大勢の騎士達が倒れていた。
「皆……!」
倒れ伏し、ピクリとも動かない仲間の姿にマルクが呻く。
加えて。
「大司教様!」
リタの悲痛な声が響いた。
クラリモンドの腰から伸びる尻尾が持ち上げているものを見たからである。
鋭利に尖ったその先端には、生前は衆目の尊崇を集めていた大司教の、胸を貫かれた亡骸があった。
その陰惨な光景を見せつけられたリタ達が思わず言葉をなくす。
「ロミュオーの魔法は凄いのねぇ。あれだけいた騎士達をまとめてやっつけるなんて」
自分の尻尾の先端に刺さっている老人のことは一顧だにせず、クラリモンドは恋人の悪魔に賛辞を送った。
そして無造作に亡骸を放り捨てる。
「お褒めに預かり光栄だよ、僕のお姫様」
自らの主でもあるクラリモンドの賞賛にロミュオーは恭しくお辞儀してみせた。
凄惨を極める背景にそぐわぬ、なんとも優雅な仕草で。
「だけど残念ながら大半は仕留め損なったようだ。ちょっと加減し過ぎたかな?」
おどけたようなその言葉通り、床の上に昏倒している騎士達はそれでもまだ生きていた。
或いは咳き込み、或いはわずかながら身じろぎしている者もおり、大半は息があるようだった。
「あらホント。加護の魔法のせいでしょうね。教会騎士は神聖魔法を使える奴が多いから」
「そのようだね。でもこれは却って都合がいい」
そう言うとロミュオーはリタ達に向かって声を張り上げた。
「聖女リタ!戻ってくるんだ。さもないとこの死に損ない共を殺してしまうよ」
「!」
リタがハッと息を呑む。
「僕達の狙いは君の命だけだ。君さえこちらに来てくれれば他の連中は見逃してあげるよ」
「……!」
唇を噛み、戻ろうとするリタの肩をマルクが掴む。
「駄目だ」
「離してマルク。でないと皆さんが……!彼らはあなたのお友達でしょう?」
「それでもだ。今戻れば彼らの覚悟が無駄になる。その方がよほど彼らに申し訳が立たない」
「そうよ、リタ」
服を引っ張られる感触にリタが振り向く。
見るとヴェロニカとアンジェリカがそれぞれ祭服の裾を掴んでいた。
「自覚しろって言ったばかりでしょうが。人にはそれぞれ役割があるの」
「でも」
「あんたが命を張るのはここじゃないのよ。そうでしょう?」
「……そうかもしれない」
口ではそう言いながらもリタの目はまっすぐにロミュオーの眼を見据えていた。
クラリモンドの背中から生えるような格好のロミュオーは、リタを挑発するようにニヤニヤと下種な笑みを浮かべている。
そんな悪魔の視線をリタは正面から受け止め、跳ね返した。
「だけど、ここで彼らを見捨てるような私じゃきっとこれからも何もできないわ」
「何をボソボソ話してるんだい?聖女様でもやっぱり命は惜しいのかな」
からかうような口調に動ぜずリタは毅然と言った。
「私の命を差し出せば、彼らにはもう何もしないのね?」
「ああ、約束するよ」
「わかったわ」
「リタ様、いけない……!」
半死半生の騎士団長が立ち上がり、悪魔の前に立ち塞がろうとする。
それをロミュオーとクラリモンドが煩わしげに見やった。
マルクもまた、歩き出すリタを強引にでも止めに掛かる。
その時、2階から声が上がった。
「駄目よ!」
「……何だ?」
誰も注意を払っていなかった場所からの声に、その場にいた者の反応が遅れる。
それに最初に反応したのは、その声にもっとも聞き覚えがある者。
「お母さん!?」
――即ち、リタだった。
「リタ、逃げて!早く逃げるのよ!」
叫んでいるのはリタの母親だった。
その傍らには、妻を必死に引き戻そうとする父親の姿もある。
そして、また……。
「アンジェ!」
「アンジェリカ、お前も逃げなさい!」
「お父様!お母様!?」
アンジェリカの両親も二階の手摺から身を乗り出して叫んでいた。
「あらあら、あれはリタとアンジェリカのご両親ね」
クラリモンドは薄笑いを浮かべた。
背中の相棒にそっくりの、もはや悪魔そのものと見紛うばかりの笑みを。
「随分と子供思いの親なんだね。他の貴族連中はとっくに逃げ出しているのに」
「本当ね。……なんだか私、ちょっとだけ不愉快だわ」
そう言うとクラリモンドは、甘えるように恋人を見上げた。
「ねぇロミュオー。さっきの『アレ』、あそこに撃ってよ」
リタの全身が総毛だった。
「ま、待って院長様!それだけは!」
「だぁぁめ、よ。だってその方が面白そうなんだもの」
ロミュオーは軽く頷いた。そして腕を掲げ、桟敷席へと向ける。
リタとアンジェリカの両親はそれを見ると恐怖に顔を引きつらせ、その場に立ち竦んだ。
「逃げてぇ、お父様、お母様!」
アンジェリカの悲痛な声が響き渡る。
それを聞いたロミュオーが愉悦を覚えたのか、口元に歪んだ笑みを浮かべた。
掲げたその手が、魔力の光を帯びる。
リタはそれを、慄然としながら見ていた。
(あれは脅しよ。そうに決まってる)
そう思おうとした。
(だって、あんなことしたって何にもならない。なんの意味もない)
だが、そんなリタの希望を打ち砕くように、薄笑いを浮かべた悪魔が呪文を唱えようと口を動かすのが見えた。
(ああ……駄目だ)
絶望と共にリタは悟った。
意味なんていらないのだ、と。
何の意味もなく、ただ愉悦のために殺戮を行うのが、悪魔という存在なのだと。
ロミュオーの口元に浮かんだ酷薄な笑みを見て、リタは痛いほどに思い知らされた。
為す術もなく全身が凍りつく。
視線の先で、ロミュオーが呪文を口ずさむ。
さきほど殺戮と破壊をもたらしたばかりの、あの呪文を……。
「爆発せよ」
ロミュオーの手に集まった魔力の光が、大きく膨れ上がり。
「やめてぇ――――っ!!」
リタの絶叫が、聖堂内に響き渡った。
――そして。
きゅどんっ!
先程と同じ規模の巨大な爆発と轟音が、リタとアンジェリカの両親がいた2階を襲った。




