第68話 ロミュオーとクラリモンド
その時聖堂に詰めていた人々はその声が耳に触れると、我知らず慄き、身震いせずにはいられなかった。
彼らが息を詰めて見詰める先で、老修道女の小さな身体から見えない『何か』が脱け出ていく。
『それ』は次第に寄り集まり、何もない中空で不定形を成すと、やがて美しい青年の姿を形どった。
ただし『それ』は一見人間の姿をしているように見えるものの、その頭には牡牛のような立派な角を生やしていた。
そして背中には、見る者に不気味な印象を与えずにはおかない、蝙蝠のような黒々とした羽を具えているのだった。
その異形の姿に、その場にいた誰もが恐怖を抱き、怖気をふるった。
さらに不思議なことが起こった。
悪魔がその姿を顕わしたのに伴い、クラリモンドの肉体にも変化が生じたのだ。
曲がっていた腰が次第に真っ直ぐになり、寄る年波に縮こまっていた手足がしなやかに伸びてゆく。
長年の労苦が顔に刻み付けた罅割れのような皺は次第に薄れ、ついには完全に消えた。
厳しい節制で蝋のように血の気が失せていた肌にも生き生きとした赤みが差し、たるんでいた皮膚がピンと張った。
そして、キツく束ねられた白髪に往年の輝きが、ゆっくりと戻っていった。
そこに悪魔がそのしなやかな腕を伸ばし、貴公子のような優雅な手付きでその結び目を優しく解くと、金色に輝く豪奢なブロンドの髪が、キラキラと踊るように宙を舞った。
「どうかしら、ロミュオー。私、綺麗?」
悪魔は答えた。
「ああ。今の君は誰よりも綺麗だよ……クラリモンド」
「……ロミュオー?ロミュオーと言ったのか」
驚愕の色をありありと顔に浮かべ、身を乗り出したのはセラピオンだった。
「確かに似ている……ありし日のロムアルド氏に。クラリモンド君、君はやはり彼のことを……」
「勿論ですわ先生。私は彼のことを愛していたのです」
クスクスと哂いながらクラリモンドは言った。
「でも意外でした。先生も彼のことを覚えていらしたのですね」
「教え子を惑わした者を忘れるものか。だがクラリモンド君、目を覚ますのだ。この悪魔はロムアルド氏などではない!彼は今……」
「教えて頂くには及びませんわ。彼は今、ご自分の領地で城主として悠々自適な暮らしをしていらっしゃるのでしょう?若い頃の放縦な生活も、たった一度だけ誘惑した哀れな修道女のことなどすっかり忘れて」
「知っていたのか。ならば何故……」
「なぜって、彼のことなどもうどうでもいいからです。先生、私のこの姿をご覧になって!昔と同じように……いいえ、それ以上に美しいでしょう?若さで光り輝いているでしょう?かつて色男として浮名を流したロムアルドだって、今となってはただの老いぼれ。今の私とではとても釣り合いなど取れないわ」
若返ったクラリモンドは己が美貌を誇るように昂然と面を上げた。
「老いさらばえたロムアルドなんてもういらない。これからの私にはこのロミュオーがいればいい。永遠に老いず、ちっぽけな人間よりも強大で美しい、この新しいロミュオーと私は永遠の愛を紡ぐのよ!」
「年老いた本物よりも若い贋物の方がいいだと?気でも違ったかクラリモンド!」
セラピオンの指弾の言葉にクラリモンドは不快げに顔を歪めた。
「何ですって?」
「聞こえなかったかね?ならばはっきり言ってやろう。そんなものは愛ではない、ただの色欲だ!」
老司教は杖で激しく床を打つと、苛烈ながらも威厳に満ちた大音声で喝破した。
「見た目の麗しさに惑わされおって。姿形など、所詮は目に見えるものに過ぎないではないか。真実の美とは目には見えない内面にこそ宿るものだ。そこに注ぐものこそ愛なのだ!そんなことすら忘れてしまったか!」
「……」
「美しいかとわしに聞いたな。いいや、今の君はなんとも醜い!虚飾と高慢に満ちた悪鬼の顔だ!真の愛と美が備わった信仰の道に唾を吐く、醜い悪魔の顔じゃ!――だがクラリモンド君、君はまだ引き返せる。今すぐその悪魔と手を切りなさい!さすれば……」
「五月蝿い」
その一言でセラピオンは絶命した。
いや、実際に老司教の命の灯を消したのはかつての教え子の放った言葉ではない。
その言葉と同時に放たれ、彼の胸に突き立てられた奇怪なものだった。
先端が鋭く尖った細長い『何か』が、哀れなセラピオンの心臓を貫いたのだ。
頑迷なまでの篤実さと快活な人柄で人々に広く慕われていたセラピオン司教は、こうして永遠にその口を閉ざしたのだった。
居合わせた人々は声もなくその凶行を見ているしかなかった。
リタもまた、その一人。
「司教……様……?」
ペタンと床にへたり込み、呆然と呟く。
他の人々と同様に、目の前の事態に理解が追いついていなかった。
あれは何だろう、とリタは思った。
若返った修道院長の身体が、いつのまにか黒い靄に覆われている。
その奇怪な靄の正体、それはクラリモンドが喚び出した悪魔だった。ロミュオーと呼ばれていたあの悪魔の身体が今や不定形な黒い靄に変じ、クラリモンドの全身を覆い尽くそうとしているのだ。
その靄は徐々に形を得て、クラリモンドを悪魔じみた姿へと変貌させる。
頭には2本の角。
背中からは蝙蝠の如き翼。
そして腰から4本の尻尾を生やした、妖艶な女悪魔の姿へと……。
セラピオンの胸を貫いたのは、その4本の内の一本なのだった。
「ねぇロミュオー、この尻尾は便利ねぇ。鞭と違って自在に動かせるもの」
クラリモンドはそう言うと、嫣然と微笑んだ。
そして恩師の胸に突き刺した尻尾を無造作に引き抜いた。
「でもちょっとクセがあるわね」
鮮血が、バッと飛び散る。
胸にポッカリと風穴が開いたセラピオンの身体が、どうと床の上に倒れた。
「なに、君ならすぐに慣れるさ」
ロミュオーがこともなげに答える。
そう言う男悪魔の上半身は、クラリモンドの背中から生えているように見えた。
「だって君は鞭の扱いが得意なんだろう?」
ロミュオーはからかうようにそう言うと、頬に付いた血をチロリと舐めた。悪魔は血飛沫を浴びることをまったく意に介さず、むしろ悦んでさえいるようだった。
「……不味い」
が、すぐにその端整な顔を歪める。
「せっかくこちらの世界にやってきたというのに、最初に味わうのがこんな老いぼれの血とはね。しかも聖職者ときた日には、抹香臭くて飲めたものではないよ」
「それなら心配いらないわ。ここには貴方の糧となる若くて活きのいい人間がいくらでもいるのだもの。……それに、すぐにとびきりの血を飲ませてあげるわ」
恋人と睦言を交わすような口調でそう言うと、クラリモンドは恐怖で竦んでいる教え子――リタを見下ろした。
「千年ぶりに現れた、聖女の生き血をね」
ロミュオーはそれを聞くと嬉しそうに舌舐めずりした。
「ああ……愉しみだよ、クラリモンド」
「――うわぁぁぁぁぁ!」
悲鳴が、ようやく上がった。




