第67話 悪魔の登場
「え」
「……何?」
リタが聞き違いかと首を傾げる。
セラピオンも不可解そうに眉を顰めた。
人々が戸惑い気味に囁き声を交わす。
「クラリモンド君、今なんと言ったのかね?わしも年を取ったかな、耳が遠くなったようだ。わしには君が下らないと言ったように聞こえたのだが」
「あら。先生は老いぼれですけど、まだ耳は遠くなっておりませんわ。だって私は確かにそう口にしたのですから」
あからさまに嘲弄されたセラピオンが目を剥く。
一方でリタは、不安そうにクラリモンドを見つめていた。
「院長様。一体、どうされたのですか?」
「どうされた?どうされた、ですって?」
クラリモンドはいきなり笑い出した。
愉快そうに、とはとても見えない、顔に貼り付けたような嗤いを。
「どうされたも何も、やってられないと言っているのですよ。リタ、あなたが聖女ですって?聖女候補に選ばれたことすら不可解な、凡庸なあなたが。学問も神聖魔法もろくにできないあなたが」
「それは……」
リタが目を落とす。
「クラリモンド君、口が過ぎるぞ。それでも我らが女神はリタ様を選ばれたのだ。君が納得できずとも、神意は示された。ならば尊重せねばならん」
「神意?神意ねぇ。不死の神々のお考えは私達には推し量り難いものとはいえ、それにしてもイシュター様は一体何をお考えなのでしょうか?」
クラリモンドは聖堂の最奥に聳え立つイシュター像の威容を見上げた。
「子供の頃、私は神童と呼ばれていました。周囲は私が聖女になることを期待した。そうではないとわかった時、今度はきっと天使を授かるに違いないと思った」
自嘲気味に笑みを浮かべる。
「私もそれを望みました。周囲の大人の期待に応えたかったし、何より私自身が天使に……いいえ、神に選ばれたかった。自分なら必ず天使を授かると思っていました。だけど結果は?私はアスタルテーどころか、3級天使を授かることさえできなかった」
語り口は静かだった。しかしそれはどこか精神の均衡が崩れたような、不穏な調子を帯びていた。
今にも激発しそうな感情を、辛うじて抑えているかのような。
宝玉の警備に当たっている騎士達が、困惑混じりに視線を交わす。
「一体どうして?どうしてなのでしょうか。私には才能があった。それに誰よりも勤勉だった。何より、道心堅固だった」
クラリモンドが一歩、祭壇へと足を進める。
「見神の儀で天使が得られなくとも、まれにその後に天使を授かることがある。それを信じて私は努力を続けました。何十年も……何十年も!密かな自慢だった金色の髪が白くなり、顔に皺ができても。節節の痛みに、日々の勤行が年々辛くなっていっても……」
一歩、また一歩と祭壇に近づく。
「世俗の誘惑に身を持ち崩す者も多い中、私はあらゆる誘惑を撥ね退け、ひたすらに自分を律した。誰よりも清らかに生きてきた……」
見上げる視線のその先には、超然として宙空に浮かぶ熾天使、アスタルテー。
「それなのにどうして?――どうして私には天使を授けてくださらなかったの。女神イシュターよ。熾天使アスタルテーよ。どうして私を選んでくださらなかったのですか?」
身を切るようなその訴えにも、沈黙の天使は何も答えなかった。
ただ、視線を返しはした。
……しかしその時にはもう、クラリモンドはアスタルテーを見ていなかった。
彼女が視線を向けていたのは――リタだった。
「リタ……なんて侮辱なの。よりにもよってあなたのような子が、どうして聖女になれるの?」
「わ……私は」
リタは怯えていた。親しい知人の、普段とはかけ離れた言動に。
その鬼気迫る表情に。
唇が震え、何も答えることができなかった。
だが、それで構わなかったのだ。
どうせ相手は聞いていなかったのだから。
「あなたには婚約者がいるわね。家柄もよく、眉目秀麗で、前途洋洋たる若者が。……それに幼馴染だっているわ。あなたのことを誰より大事に思っている、あなたのためなら命だって捨てられるという男の子が」
「え……」
「まだ子供のくせに、男を二人も侍らせて。――なんてはしたないの?なんてふしだらなの?間違っているわ……こんな子が聖女に選ばれるなんて!」
その言葉はとうとうヒステリックな様相さえ帯び始める。
クラリモンドはまた一歩祭壇に近づいた。
「どうしてなのですかイシュターよ!どうして私ではなく、こんな小娘をお選びになったのですか!?」
「何をしている、早く取り押さえろ!」
騎士団長の怒号が飛んだ。
警固の騎士が弾かれたように祭壇に向けて駆け出す。
だが、一歩遅かった。
クラリモンドは飛びつくように祭壇に駆け寄ると、台座に据えられていた宝玉を掲げ、床に叩きつけるように投げ棄てた。
「あっ!」
誰かが叫んだ。
「宝玉が!」
という声がそれに続く。
――そして。
固唾を呑んで見守る人々の前で、古代魔導王国の遺産はパキン!という甲高い音を立て、あっけなく砕け散ってしまったのだった。
「なんということを……!」
予想だにしない事態に誰もが呆然と言葉を失う中、砕けた宝玉を悼ましい顔で見つめながらセラピオンが呟いた。
「クラリモンド君、君は自分が何をしたかわかっているのか」
司教は厳しい顔つきでかつての教え子を睨み据えていた。
その声で我に返った教会騎士達もまた、内陣に向かって殺到する。
「もちろんわかっていますわ先生。私は結界を壊したのです。誤りを正すために」
「誤りだと?」
騎士達が内陣を取り囲む。何人かは既に剣を抜き、クラリモンドに向けている。
「ええ、誤りです」
それでもクラリモンドは彼らを無視し、セラピオンだけを相手にしていた。
「リタが選ばれるなんて何かの間違いですわ。私ではなくその子が聖女に選ばれるだなんて、そんなの――神が、過ちを犯したとしか考えられないでしょう?」
「それは涜神だ!」
セラピオンが糾弾する。
「それは我らが神を冒涜する発言だ。聖職者として決してあってはならないことだ!偉大なる女神を、我らが主の御意志を疑うなど……いやしくも神に仕える身として、断じてあるまじき行為だ!」
「……ええ、そうね。過ちを犯す神などもはや神ではない。敬うには値しない……」
「口を慎みたまえ!」
「そうね、その通りだわ。ならば私はこれ以上何を我慢することもない。私はもう、我慢しない……」
「黙れと言って……」
「司教様、お下がりください」
激高するセラピオンを制したのは騎士団長だった。司教の前に立ち、己の背後に庇う。
彼と行動を共にしていたマルクもまた、リタを庇うようにその前に立った。
「しかし」
「彼女は貴方と話しているのではありません」
尚も糾弾を続けようとする司教に騎士団長は告げた。
「何?」
「彼女はもう貴方を見ていない。さっきから見えない『何か』と話している。我々には見えない何者かが彼女にだけは見えていて、そして会話しているのです」
騎士団長の言う通りだった。クラリモンドの視線はもはや、司教を見ていない。
彼女の視線は僅かに上を向いている。
まるで彼女より背の高い『誰か』が、彼女の目の前にいるとでもいうように。
……だが、そこには誰もいないのだ。
その見えない『誰か』を、クラリモンドは陶然とした顔つきで見つめているのだ。
セラピオンはサッと顔色を変えた。
「見えない誰かだと?それではまさか……」
「ああ……そうね。ようやく貴方に逢えるのね」
感に堪えないという口調で老修道女が呟く。
彼女はゆっくりと腕を広げた。
憧憬と、恋慕の情をありありと浮かべながら、彼女が顔を上げる。
そして目の前の誰かに向けて、縋るように――訴えるように、その痩せさらばえた両腕を伸ばしていった。
長年の節制によって血色の失せたその頬を、今は少女のように薔薇色に染めて。
堅固な道心の象徴のように固く引き結ばれていた唇を、唄うように綻ばせて。
「女神イシュターよ!私は、貴女を棄てる!」
衆目の尊敬を集めた女子修道院長にして、誰よりも敬虔な信徒であった女司祭は、かつて主の御名を讃えたその口で高らかに涜神の言葉を告げた。
「貴方と契約するわ、ロミュオー!だからこの私に、永遠の若さを!」
そして、彼女の背信に応えるように――
「ああ……もちろんだよ。僕の可愛い人」
――この世ならざる者の声が……生まれた。




