第66話 聖女の誕生
人々は固唾を呑んで見守っていた。
その天使の降臨を。
いや――奇跡の現出を。
忘我の境にあった聖楽隊も、奇跡の徴と謳われる天使の姿にいつしか歌を忘れて見入っていた。
聖歌の響きの途絶えた聖堂をしばし、静寂が支配した。
「……天使だ」
――やがて。
何が起こったか人々がようやく理解し始めると、打って変わってどよもすような騒めきが沸き起こった。
「天使様が降臨なされた!」
「見ろ、あの六枚の翼を。神の恩寵に満ちた光輝の翼を!」
「銀色に輝く三対の翼に、沈黙を意味する口枷。全てが伝承の通りだ!」
「天使アスタルテーが地上に降臨された!リタ様が召喚された!」
「リタ様こそ真の聖女だ!」
「千年の時を経て、とうとう真の聖女がこの世に誕生なされたのだ!」
身廊に集う聖職者も、2階席にいた聴衆も、こぞって聖女の誕生に驚嘆し、また祝福の声を口に上らせた。
そんな喧騒のさ中、リタは空中に現出した天使を見上げていた。
「貴女が……私の天使様?」
恐る恐る尋ねる。
と、相手は答えられないのだと気付いた。
その天使の口は口枷によって覆われていた。
リタは神学の授業で習った天使アスタルテーの伝承を思い起こした。
女神イシュターは聖女を導かず、聖女が自らの意思で神の道を歩むことを望む。だからこそ先代聖女ロザーリアの許にアスタルテーが降臨した際も、その口元には沈黙を意味する口枷が嵌められていたという。
そしてロザーリアが真の愛に目覚めるまで、その口枷が外れることはなかったとも。
故にこの口枷もまた、現れた天使がアスタルテーだという証なのだった。
「貴女はアスタルテー様……なのよね?」
天使が頷く。
リタはホッとした。目の前の天使が間違いなくアスタルテーだったことに。
そして、意思疎通が可能であることに。
たとえ声を発することはできなくても、天上の尊き存在だとしても、これからずっと自分と共にある存在なのだから。
「これからよろしくね、アスタルテー」
リタのかけた声に、アスタルテーがまた頷きを返す。
それを見たリタは、ふと心が和むのを感じた。
不思議な感覚だった。相手は神々の身許に侍る、人間よりも上位の存在である。しかもアスタルテーはその中でもとびきり位の高い天使なのだ。
本来ならば頭を垂れて礼儀を尽くさねばならない相手だった。
だが、リタはアスタルテーに言いようのない親しみを感じていた。
尊い存在に対しての崇敬の念はもちろんあるが、同時にこの上なく懐かしいような、近しい存在に対するかのような親近感があったのだ。
それがアスタルテーに対する口調を自然と親しげなものにしていた。
「リタ様」
司教の声にリタはハッとした。至高の天使たるアスタルテーへの気安い口調を咎められると思ったのだ。
しかし、そうではなかった。
セラピオン司教は振り向いたリタに跪き、深く頭を垂れたのだ。
「神に認められた真なる聖女となられましたこと、衷心よりお慶び申し上げます」
それを見たリタは動転した。
「司教様、私などに何をなさっているのですか!どうかお顔を上げてください」
「いいえ、そうは参りません。リタ様が真の聖女様となられた以上、これが正しい形なのです。私は貴女の靴の紐を解く価値もない者です」
「そんな……」
「どうか御自覚なさってください。貴方は千年の長き時を経てこの世に現れた奇跡の子。我々が待ち望んだ救世主なのです」
「……」
そうだ、自分は聖女になったのだ。
膝を付くセラピオンの姿を見て、リタはようやく少しだけそれを自覚した。
途端に、途方もない重圧を感じた。
自分に本当にできるのだろうか。
本当に自分はそれに相応しい人間なのだろうか?……と。
(……けど)
同時に歓びもあった。
ずっとそうなりたいと願っていた、願い続けていた存在に自分はなることができたのだ。
私は、皆の期待に応えることができたのだ。
それに……。
「聖女だ!聖女リタ様だ!」
その後に続く思考は、聖堂内に沸き起こった割れんばかりの歓呼の声にかき消されたのだった。
(わぁ……。ホントに聖女になっちゃったよ)
蜂の巣をつついたような大騒ぎの中、アンジェリカはパチパチと拍手を送っていた。
(なんかすごいの見ちゃったなぁ。天使様、すっごい綺麗……!)
ウットリと見とれてしまう。この世のものとは思えぬ美しさとはまさにあのことだ。
いや、実際にこの世の存在ではないのだが。
白銀に煌めく眩いばかりの光輝はもちろん、その姿形も喩えようがないほど美しい。
今までに見たどんな芸術作品もあれにくらべたら子供の落書きのようなものだ。
顔がはっきり見えないのは残念だけど、却ってよかったかもしれないとアンジェリカは思った。直接見たらあまりの美しさに目が潰れてしまいそうだ。
滅多に拝めない稀有なものを見れたことでアンジェリカは大満足だった。
(こんなの見れてほんとラッキーだよ。お父様とお母様もちゃんと見てるよね?)
私のおかげでこんな素晴らしい瞬間を拝めたのだから感謝して欲しいなどと恩着せがましいことを思う。
(これは一生の語り草だね。お母様じゃないけど、もう話の種には困らないよ)
奇跡の瞬間の目撃者としてあちこちで引っ張りだこになるかもしれない。
いい縁談だって舞い込むかも?
そう考えるとリタ様々である。
せっかくの聖女様とのご縁なのだから、今後とも仲良くしてもらいたいものだ。
(でもヴェラは複雑だろうなぁ)
他の修道女達と共に合唱に加わっていたはずの親友の姿を探すが、うまく見つけられなかった。
リタに敵対心を燃やしているヴェロニカは天使アスタルテーの降臨に何を思ったのだろう。
「いや、違うか」とアンジェリカは思い直す。
そういえば儀式の直前、彼女は「リタに聖女になってもらわなくてはいけなくなった」と言ったのだ。
だったら彼女も喜んでいるのだろうか?
しかし――。
(あれ、結局どういう意味だったんだろ)
親友の真意は不明なままだ。どうして彼女は急に考えを変えたのだろう?
アンジェリカが一人思案に暮れていた時、リタ達のいる内陣に近づいていく者がいた。
「リタ……素晴らしいわ」
クラリモンドだった。
修道院長として、そして参入者たちの監督役として見守っていた彼女が、感極まったという面持ちでゆっくりと祭壇の方へと歩み寄っていく。
「あれが熾天使アスタルテー様……なんと神々しいお姿なのでしょう」
中空に浮かぶアスタルテーを見上げ、ウットリと呟く。
彼女は宗教的な情熱による昂ぶりと、あまりに強烈な法悦の念にうち震えているかのように見えた。
そうして祭壇の前までやってくると、クラリモンドはリタに向かって恭しく頭を垂れて、
「おめでとう、リタ。貴方はやり遂げたのですね。私も誇らしいわ」
――と慇懃な態度で言った。
リタが恐縮する。
「そんな、院長様……。これも全て、院長様がご指導くださったお陰です」
「そんなことはありませんよ。私の力などほんの些細なものなのだから」
「いやいや、君の功績は大変に立派なものだよ」
謙遜が過ぎるかつての弟子をセラピオンがやんわりと嗜めた。
「クラリモンド君、君はリタ様を真の聖女へと教え導いた。これは誰にでもできることではなく、君の人徳あってのことだ。教皇様もきっとお褒めくださることだろう」
セラピオンは慈父の如き口調でそう言った。
「かつて君を指導した身として、私も心から誇りに思うよ。君は最高の教え子だ、クラリモンド君」
「セラピオン師……!」
感に堪えないという表情でクラリモンドが声を詰まらせる。
リタは涙ぐんだ。なんと素晴らしい師弟愛だろうか?
これぞ神の信徒に相応しい絆。
この敬虔なる二人の信徒を必ずや天使や神々も祝福するに違いないと、居並ぶ聴衆もこの感動的な場面にすっかり心打たれていた。
まるで、聖女の誕生という奇跡に彩りを添えるに相応しい、最高の演物を観ているかのように……。
「ありがとうございます、セラピオン師」
今や人々の視線の中心となったクラリモンドは、その注目を存分に意識したような足取りで祭壇に近づくと、舞台役者のような芝居がかった仕草で聴衆に向き直った。
「ああ、信じられないわ。今日はなんと素晴らしい日なのでしょう!熾天使アスタルテーが顕現し、私の教え子であるリタが真の聖女に選ばれるだなんて!ああ、なんて、なんて……」
「なんて下らないのかしら」




