第65話 アスタルテー降臨
秘儀を受け終えたアンジェリカは他の参入者のいる列へと戻った。
見れば、既に受け終えた少女たちの中には悔しそうな顔を浮かべている者もいる。天使が降臨しなかったことを嘆いているようだ。
(そんなに大変な思いをしたいのかなぁ)
アンジェリカからすれば理解し難い心境だった。天使なんて授かったら色々と大変な仕事を押し付けられてしまうだろうに。
しかも聖騎士になんてなったら最悪だ。恐ろしい悪魔と戦わなくてはならないではないか。
まあ、もちろん彼女たちだってそれぐらいわかった上でのことだろうが。
(人それぞれ色んな事情があるだろうしね)
大変だということは、それだけ見返りもあるということ。それを求めるのも理解できる。
他人は他人、自分は自分だ。他人の価値観にケチをつけるつもりは毛頭ない。
ただそれも、本人が望むならの話。
自分がやりたい訳でもないのに周囲に期待を押し付けられ、それに応えようとしているだけなら気の毒だなぁと思わざるを得ない。
その点自分は、ユルい両親の下に生まれてツイてたなぁと思う。
ともあれ、これで二十人の参入者のうち十九人が終わった。
後はいよいよ大トリ……リタを残すのみだ。
心なしか他の少女たちも落ち着かないように見えるのは自分の気のせいではないだろう。
どうせ今回もと思いつつ、いざその時が来れば「もしや」と期待してしまうのが人間というものだ。
(リタ、大丈夫かな?)
また緊張していないだろうかと少し心配になり、横にいるリタの様子を窺ったアンジェリカは驚いた。
リタの顔から表情が消えていたからだ。
(……え。この子、どうしちゃったの?)
心ここに在らず、という顔付きのリタに、アンジェリカは戸惑いを覚えた。
そんなアンジェリカの困惑をよそに、修道院長に促されたリタが列から抜け出す。
祭壇の前に立つ司教の許へと向かうその表情はまるで、夢遊病者か何かのようだった。
あんな調子で転びはしないかとアンジェリカはハラハラしながらその背中を見守っていたが、案外とリタの足取りはしっかりとしていた。
表情こそ曖昧模糊としていたが、別に足がふらつくということもない。
そうしてリタが祭壇の前に立った時、その顔を一目見た司教が一瞬ハッと、息を呑んだのがわかった。
司教は畏怖の念に打たれたかのように敬虔な顔付きになると、リタの前に恭しく頭を垂れた。
――まるで、互いの立場が入れ替わったかのように。
どちらが神の代理人か、わからぬ仕草で。
その時になってようやくアンジェリカは気が付いた。
今のリタの状態をこそ、「神懸かり」というのだと……。
儀式が始まる前、リタは緊張していた。
自分がこれから受けるこの儀式の結果に、多くの人々の運命が掛かっていることを知っていたから。
魔界の侵攻に怯える、世界中の人々の不安。
聖女の誕生を待ち望む、教会の尊い立場の方々。
両親や近しい人達が自分に掛ける、期待。
人間と亜人の間に色濃く残る差別や偏見。
幼馴染の大事な友達を、助けてあげたい。
色んな人達のことを考え、様々な思いを抱え、リタの心身は緊張で強張っていた。
――だが。
それが儀式が始まると同時に、すぅっと薄らいでいった。
聖歌の神聖な響きの中に緊張は少しずつ溶けていき、その荘重な調べに身も心も委ねていると、まるで霊魂だけが身体から離れて、天上の世界に向かっているような心地がした。
ようやく自分の順番が来た時、夢見心地のままに足を運び、祭壇の前に跪くと、そこにはこの地における女神の代理人たる司教が杖を持ち、威厳ある姿で立っていた。
彼の手によって額に特別な香油を塗られ、ゆっくりと聖印を刻まれていった時、自分の魂がこの世ならぬ場所――いと尊き神々の住まい、遥かな天上の世界へと近づいていくのがわかった。
その軽やかな心地にリタは、自分が肉体を棄ててしまったのかと思った。
鈍重な肉の身体を脱ぎ捨て、霊魂だけとなり、そのまま天まで昇ってきたのかと。
だが、すぐにそうではないとわかった。
魂は今も身体の内にある。
肉体は地上に囚われたまま、魂だけが「あちら側」に繋がろうとしている。
それを悟ったリタは、さらに魂の奥深くに潜った。
すると周囲が次第に明るくなってゆき、やがて「門」が顕れた。
神々の世界に繋がる「門」だと、リタは思った。
その門を通じてリタは、光溢れる天上の世界をそっと覗き見た。
すると、幾重にも棚引く黄金の光のヴェールの先に、うっすらと霞んで見える、限りなく尊い御方の眼差しが自分を捉えたのがわかった。
リタは畏れの余り硬直した。
危険を感じたからではない。罰されると思ったからでもない。
ただ、見られただけ。――ただそれだけのこと。
しかし、ただ視線を注がれただけだというのに、リタにとってそれはまるで音のない嵐のようだった。
あまりに巨大すぎる存在を前に、リタは自分が風に吹き飛ばされる木の葉よりも頼りない存在であると知った。
質量すら伴っているかのような圧倒的なその視線に、自分の魂など跡形もなく滅し飛ぶと思った。
――と。
今にも魂が消し飛ぶかと思った次の瞬間、突如として暴風は已み、リタは自分がこの上なく温かいものに包まれていることを知った。
さっきまで自分を圧倒していた嵐は嘘のように消え、代わりに陽だまりのような穏やかさが自分を包み、優しく抱き上げていた。
まるで、赤子が母親の腕に抱かれているような大いなる安らぎ……。
その安らぎの中でリタは悟った。
この方は、私たち全てにとっての母なのだ、と。
全てを包み込むような大いなる母性と、生きとし生ける者に遍く降り注ぐ太陽のような、慈愛に満ちた神の御心――。
限りなき天上の愛に包まれ、リタは大いなる安らぎの中で微睡んだ。
(……なんか、おかしい)
アンジェリカは異常に気付いた。
(歌ってる人、誰もリタを見てない……)
聖女候補として注目されるリタが今まさに秘儀を受けている。
それなのに、聖歌に参加する人々は誰もリタに注目していないのだ。
聖楽隊も。会衆席にいる教会のお偉方も。その付き人も。
修道院の仲間も、シスター達も。自分以外の参入者たちも。
誰もリタのことは見ずに、ただ天井を見上げている。
まるでこことは違うどこかを見ているように。
――いや、見えない誰かの姿を拝んでいるように。
この場に集う人々はこの空間そのものと渾然一体となり、いや神の大いなる意志と一つになり、力を合わせてこれから訪れようとしている神聖な瞬間を形作ろうとしているようだった。
その瞬間。
それを「奇跡」と呼ぶのだろうか?
そしてアンジェリカは見た。
リタの背中から、羽が生えるのを。
それは燦然たる輝きを帯びていた。
羽は次第にその嵩を増し、聖堂の天井に向かってまっすぐに伸び上がると、リタ自身の背丈より大きな、光り輝く三対の翼となった。
六枚の翼は絢爛たる光輝を周囲に振り撒いた。
その羽根の一枚一枚があらゆる色調の光を鏤めているかのようで、それが動く度に七色に煌めく光の粒が周囲に放たれ、ふわりと舞い揚がった。
それは例えば白百合のような純白の光。或いは、睡蓮のような白亜の光。
また、薔薇のような紅色の。扁桃 のような桃色の。サフランのような明るい黄色の。菫のような紫の。ヒヤシンスのような青色の光。
或いは蒼。水色。翠。黄緑。山吹の……。
百花の葩を一遍に散らしたような、地上のありとあらゆる色彩を蒔いたような千紫万紅の光が、天井を覆うほどに高く舞い、踊るようにゆらゆらと揺れながら、次から次へと人々の上に降り注ぐ。
この世のものとは思われない、得も言われぬ天上の香気を纏いながら――。
それらの一つ一つの恩寵は、本来ならばそれだけで聖典に記録されるべき神々の祝福。
そんな神聖この上ない徴を惜しみなく、それこそ聖堂を埋め尽くすほどに数限りなく振り撒きながら、リタの背中から生えた光の翼は、まるで蝶が羽化するように少女の身体から少しずつ脱け出ていった。
あまりの眩さと畏れ多さに直視できないそれは、最初は刻々と色を変える光の繭のように人々には見えた。
翼の生えた繭は天井高くまで浮かび上がると、居並ぶ人々の視線を集めながら、ゆっくりと人間の姿を容どっていった。
やがて、美しい女性の姿を象どった光体が、その背にある翼を大輪の華が咲くように拡げてゆく。
その背に負うは三対六枚の、絢爛たる白銀の翼。
それは数多の栄えある天使の中でも最も誉れ高き、熾天使が一翼。
天の女王イシュターの側仕えにして、その恩寵をもっとも受けし貴き眷属。
その名を、アスタルテーといった。




