第64話 退天の呪文
「……鐘が鳴りましたね」
教会騎士団の宿舎の一角、厳重に閉ざされた営倉の中でアゼルは呟いた。
もう腕は縛られていない。尋問の時に受けた負傷も回復魔法で癒されている。
ただ足枷は付けられたままで、自由は制限されていた。
「そうじゃな」
「正午の鐘ですね」
「むろんじゃ」
答えるのはキュリルス。昨夜、激高してアゼルを折檻した壮年の騎士である。
「今ごろは儀式が厳かに開始された頃じゃろう。リタ様の晴れ舞台じゃというのに、それを見れんのはまっこと残念なことじゃ」
当てつけがましい口調で老騎士は言った。
彼は被疑者にむやみに暴力を振るった廉で騎士団長に叱責され、アゼルの見張りに回されたのである。
「聖女様が誕生する瞬間に立ち会えるかもしれん機会を、みすみす棒に振ることになるとはのう」
大きく溜息を吐く老人に、アゼルともう一人の若い騎士は苦笑を漏らした。
「お前さんを殴ったことでマルクにも睨まれるし、まったく災難じゃ」
「それはすみませんでした」
アゼルは素直に詫びた。
「……おかしな奴じゃのう、お主」
頭を下げるアゼルをしげしげと眺め、キュリルスは呆れたように言った。
「わしはお前をさんざん殴ったんじゃぞ。憎くはないのか?」
「それは仕事でやったことでしょう。それに貴方の立場なら、僕でも同じことをすると思います」
「……」
「リタは僕の友達です。リタのために怒ってくれた貴方を恨んだりしませんよ」
「ふん。しおらしくしてもわしは騙されんぞ」
そっぽを向く老騎士にアゼルは構わず話しかけた。
「マルク様とは親しいのですか?」
「あれが騎士団に入った頃から面倒を見ておる。わしは騎士団一の古株じゃからな」
懐かしそうにキュリルスは目を細めた。
「わしにはあれと同じ年頃の孫たちがおる。が、滅多に会えんでな。別にその代わりという訳ではないが、わしはマルクのことも孫のように思っておるよ。随分と無愛想でぶっきらぼうな孫じゃがな」
「違いない」
もう一人の騎士が笑い声を上げる。
アゼルはマルクが騎士団で可愛がられていることを知った。
「わしのような老骨からすればあれ位の年頃は皆、己の孫のように見えるものじゃて。リタ様とてそれは同じじゃ。聖女様になられるかもしれんお方にこんなことを言っては、バチが当たるかもしれんがの」
「そんなことないでしょう。本人が聞いたら、きっと喜びますよ」
本心からアゼルは言った。
「ふん。……そう言えばお前さんも同じ年頃であったな」
さも今思い出したと言わんばかりにキュリルスは言った。
「だがわしは謝らんぞ。お前のような悪童を懲らしめて道を正すのも年長者の務めじゃからな」
「キュリルスさん、そう強硬に当たらなくてもいいでしょう。彼がリタ様の身を案じていたというのはもう、ほぼ疑いないと思いますよ」
「だまらっしゃい!余計な口を挟むな」
叱られた騎士がアゼルに向かって肩をすくめてみせる。
アゼルは気にしていないということを身振りで伝えた。
「仮にそうであったとしても、悪魔なんぞの怪しい話に誑かされるなぞ以ての外じゃ。奴らは願いを叶えてやるなどと耳障りのいいことを囁いて人間に楽をさせようとするが、うかうかとそれに耳を貸してみよ。忽ちの内に身の破滅じゃ」
キュリルスはジロリとアゼルを睨んだ。
「お主、アゼルと言ったな」
「はい」
「よいかアゼルよ、楽をしようとしてはいかん。若い内の苦労は買ってでもせんけりゃならん。何も悪魔に限った話ではないぞ。若い頃はとかく誘惑が多いものじゃからな。かくいうワシも若い頃、一か八かの儲け話に乗らないかと悪友によく誘われたものじゃった。しかし結局は真面目にコツコツと働くのが成功する一番の近道なのじゃ。金銭だの立身出世だのは真面目に頑張れば自ずとついてくるものでな……」
懇々と途切れることのないキュリルスの説教。
その場にいたもう一人の騎士は閉口している様子だったが、不思議とアゼルは不快ではなかった。
この手の口うるさい説教をしてくれる年長者が周りにはいなかったからかもしれない。
家族といえば物心つく前に亡くなったため記憶に残っていない母親と、早くに死んだ父親だけだ。
祖父というものがいればこんな感じなのだろうか。
アゼルはそんな風に思い、少し和みさえした。
「ワシの息子も粗忽者でな、危うく悪い女に騙されかけて……」
埒もないキュリルスの長話にアゼルは穏やかな気持ちで耳を傾ける。
それでも心のどこかで緊張を保っていた。
こうしている今も、儀式は進んでいる。
セラピオン司教による長々とした説教。
聖典の朗誦。供物の奉納。神々への賛歌。
その間、係りの者たちが交替で提げ香炉を振りながら聖堂内を練り歩き、薫香で空間を清めて回る。また別の者たちが振鈴の妙なる音色を響かせる。
薫煙と清浄な音で聖別された聖堂内で、今度は聖歌が始まる。
会衆席に集う信徒たち全員で厳かに聖歌を朗唱し、それが佳境に向かうというところで――ようやく儀式の本番、すなわち参入者への秘蹟の施しが始まった。
まずは内陣から向かって右の列に位置する少女達。
監督役である副修道院長に促され、順番に祭壇の前に佇む司教の元に向かい、見神の秘蹟を授かる。
アンジェリカがいるのは左の列。それも順番から言ったら9番目。
つまり全体から見れば19番目だ。
まだまだ自分の番はやってこないので、退屈で仕方なかった。
よりによって最後から2番目だなんてついてない。さっさと済ませてしまえれば、後はボケッとしていられたのに。
(リタが最後なのはまあ、当然だけどね)
本日のメインイベント。……などという言い方をしたら怒られるだろうけど、実際そう思っている人間が大半だろう。
聖女候補であるリタが大トリを務める。
なんともわかりやすい。
「……」
チラリと隣のリタの様子を窺うも、あまりあからさまに顔を向けるわけにもいかない。そのため、彼女の表情はよくわからなかった。
また緊張してなければいいけど、とアンジェリカは彼女のために思った。
ようやく自分の番が訪れ、アンジェリカは祭壇の前に進んだ。
聖歌の妙なる声はますます高まり、荘厳な聖堂の雰囲気をさらに神秘的なものに高めている。
その荘重な霊気に背中を押されるように、アンジェリカはできるだけ厳かに見えるように足を運び、司教の前へと跪いた。
司教冠を被り、女神の代理人の証たる仗を手にしたセラピオン司教の姿は威厳に溢れており、まるでこの世の人ではない者が仮初の姿を纏ってそこに佇んでいるかに見えた。
『呑まれかけているな』、とアンジェリカは思った。
この場の雰囲気に、呑まれかけている。
聖職者たちによる聖歌の響きと神聖な楽の調べ。そして薫香や神々への捧げ物。
そうした儀式によって場を浄め、儀式の参列者の精神を高次元に繋がりやすい状態にする。
さらに司教の手によって額に聖印を描かれることで神との契約が深まり、参入者は信徒として一段高い行程に進むことができる。
先程セラピオンが語った通り、それこそがこの儀式の本義だ。
その過程において稀に、資質のある者は天使の降臨という奇跡を賜る。
それは天上の存在に認められた者の証。
ごくごく限られた者だけがその身に受けられる、誰もが羨む天からの祝福……。
(冗談じゃない)
アンジェリカは改めて思った。
そんなの授かったらのんびり暮らせないではないか。
意識がお空の上にフワフワしそうになるのを地上へと、必死の思いで引き戻す。
それでも、聖別された香油を塗った司教の指が額に触れ、聖印を描かれた時にはさしものアンジェリカですら身内に神聖な気が満ちてくるのを感じざるを得なかった。
(やばい)
年頃の少女らしく俗っ気に満ちていた自分の心が、浄化されていく。
俗臭芬々たる地上にある身体を置いて、魂だけが高みへと昇っていくような。
――いや、違う。そうではない。
魂が身体から抜けて昇っていくのではない。
そうではなくて、魂が『どこか』に繋がりかけている。
そんな感覚。
『そこ』には『誰か』がいて、自分に何かを呼びかけている。
はっきりとは聞こえないその『声』は、あえて言うならこんな風に聞こえた。
『下界にはびこる虚飾と欺瞞に満ちた、偽りの生き方を捨てよ……』
『神々が嘉したもう正しい生活こそ、お前たち人間にとっての真の幸福であるのだ……』
『お前には見込みがある。放蕩と怠惰を慎め。節制と勤勉に励む生活こそが真の――』
(怠惰!自堕落な生活!)
雰囲気に流されかけていたアンジェリカは、『怠惰』という言葉をきっかけに自我を取り戻した。
誰に何と言われようと知ったことか。
いつも気怠げでやる気のない、ものぐさなアンジェリカこそが本当の自分なのだ、と。
(怠惰の何がいけないの?皆が競争しないでのんびりしてれば平和になるじゃん!)
アンジェリカは心の中で叫んだ。
口に出せばどこかから色々と反論が来そうだが、心の中で思うだけなら誰からも文句は来ない。
だというのに頭の中でまたさっきの『声』が聞こえてきそうな気配がしたので、その前に一方的に捲くし立てた。
自分は根っからの俗物なのだ。
そんな私をむりやり上の方に引き上げないでほしい。
ほっといてよ!
それからアンジェリカは穢れた地上に自分をしっかり繋ぎとめておけるような、様々なものを脳裏に思い描いた。
(綺麗なドレス!おいしい食事!豪華な宝石!お化粧!お菓子!朝寝坊!お昼寝!)
尊くて清らかな方に引き摺られそうになっている自分を戒めるべく、瞼をギュッと瞑り。
思いついた欲しいものを魔除けの呪文のように、心の中で延々と羅列し続けた。
(綺麗なドレス!おいしい食事!豪華な宝石!お化粧!お菓子!朝寝坊!お昼寝!)
『……』
それを繰り返していると不思議な高揚感は次第に納まり、『声』も少しずつ薄れて、消えていく。
そうしてアンジェリカはようやく、ホッと一息つくことができたのだった。
「……?」
ところでアンジェリカの頭上では、彼女に秘蹟を施したセラピオン司教その人が、そんな信徒の様子を怪訝そうな面持ちでジッと見守っていた。
しかしアンジェリカが何事もなかったように立ち上がり、彼に一礼して立ち去っていくのを見送ると、何やら得心いかないという顔つきで首を捻ったのだった。




