第60話 儀式前小景⑤ リタの想い
アンジェリカは首を捻った。
「……?どういうこと?」
「うーん、話すとちょっと長くなっちゃうけど……」
「いーよいーよ。どうせ暇してたし、まだ時間あるし」
それなら、といってリタは話し始めた。
遠くを見る目になり、口を開く。
「まだ小さな頃の話なんだけどね。私は近所の女の子達と一緒に遊びに行こうとしてたの。そしたら通りの隅に、……猫が死んでいたの」
「猫?何で死んでたの?」
「たぶん馬車に轢かれたんだと思う。血だらけだったから」
「ありゃー……」
思わず顔をしかめる。そういう話はあまり好きではない。
愛らしくて可愛いものが酷い目に遭うなんて間違ってるとアンジェリカは思う。
(いや、厳つくてキモいものならヒドい目に遭っていいってことじゃないけど)
可愛いものはもちろん好きだが、さすがにそこまで倫理観は終わってない。
ちょっとぐらい贔屓はするけど。
ただ、自分なんかがどう思おうと世の中にはそんな話なんてありふれたことなのだろう。
(アゼルだって親が死んじゃって苦労してる訳だしね)
きっと自分だったらすぐに野垂れ死んでしまうだろう。生命力なんてものにはてんで自信はない。
そう考えると、自分の力で生きているアゼルみたいな子は凄いと思う。
……まあ、それはそれとして。
「それでどうしたの?」
「私はその子に駆け寄ろうとしたの。もしかしたら、まだ生きてるかもしれないし」
「リタならそうだろうね」
容易に想像がつく。そういう時、リタはなりふり構わず飛び出す子だ。
周りがどう思おうと、他人からどう見られようと気にも掛けず、誰かのために。
この修道院でも何度かそんな場面があった。
「ううん、そうじゃないの」
しかしアンジェリカにとっては意外なことに、リタは首を横に振った。
「私は猫のところに行こうとした。でもその時、一緒にいた友達が言ったの。「あ、猫が死んでるよ」「やだー、バッチぃ」って。……私はそれを聞いて、動けなくなってしまった」
沈んだ顔でリタは呟いた。
まるで罪を告白するような口調で。
そんな深刻な顔しなくても、と思いつつアンジェリカは訊ねた。
「意外だなー、リタがそんなこと気にするなんて。それって何歳ぐらいの時?」
「7歳の頃」
「なんだ、それなら仕方ないよ。ホントに小っちゃい頃の話じゃん」
リタもなんだかんだで普通の子だったんだな、とアンジェリカは少し親近感を覚える。
「それから?」
「私は友達の目を気にして動けなかった。誰かが助けてあげてくれないかと思って周りを見てみたけど、通りを歩く人達は誰も気にしてないみたいだった。それどころか、その猫を見て露骨に顔をしかめる人もいた。……私はそれを見て、とても悲しかった」
まるでその時の情景が目の前にあるような、そんな哀しげな口調でリタは言った。
「そんな目で見ないであげてって、言いたかった。だけど私は結局何も言えなかったし、どうしても足は動かなかった。まるで金縛りにあったみたいに」
ポツリポツリと語るその声に後悔の色が見え隠れする。
そんなに気にすることないのに、とアンジェリカなどは思ってしまう。
別にリタが悪い訳じゃないのに。
「その時ね。路地の奥から男の子が数人やって来たの」
「男の子?」
「ええ。私と同じ位の年齢の男の子達で、話したことはなかったけれど路地裏で遊んでいるのを見かけたことがあったの」
「ほうほう」
「その内の一人……黒髪の亜人の男の子がね、その猫を見るなり駆け寄ったの。周りのことなんて目もくれずに、一目散に」
リタはしばし目を閉じた。
先程の暗い顔をしていた時とはまるで違う、穏やかな顔で。
なのでアンジェリカは、少し待ってあげることにした。
ここまで来れば話の流れは大体わかるが、本人が話すに任せた方がいいだろう。
それに――気づいていた。
リタの身体の震えは、いつの間にか治まっている。
「男の子が猫に駆け寄っていくのを見て、私も今度こそ友達を置いて駆け寄った」
やがて目を開けたリタは、再び話し始めた。
「けれど、猫はもう冷たくなっていた。男の子はそれを確かめると、血まみれの猫をソッと抱き上げた」
「え、服汚れちゃわない?」
「ええ、汚れたわ。抱き上げた時に手に血が付いたし、毛に付いていた血が服に付いた。それに持ち上げた時、猫の口から血がドバッと垂れたの。その男の子はそんなのちっとも気にしなかったけど、それを見ていた私の友達は、通りの向こうでキャーッて悲鳴を上げた。……私は聞こえないフリをした」
リタは淡々とそう口にした。
「それから?」
「私は男の子に「その子、どうするの?」と聞いたの。そしたら男の子は「原っぱに埋めてくる」って言った。それを聞いたその子の友達は不平を言って、彼を置いてどこかに行ってしまった。男の子は猫を抱いて、一人で歩き出した」
「リタはどうしたの?」
「その男の子の後を追いかけたわ」
なかなか積極的だなとアンジェリカは思ったが、口には出さなかった。
(茶化していい雰囲気じゃないよね)
顔を見ればわかる。相手にとって、よほど大切な思い出なのだということは。
「私は男の子に追いついて「その子、あなたの猫?」って聞いた。そしたら男の子は首を振って「違う」って言った。近所でたまに見かける野良猫だって。だけどあのままじゃ可哀想だから、埋めてあげなくちゃって……」
そこまで話すと、リタは顔を伏せた。
「私はそれを聞いて、とても恥ずかしくなった。周りの目を気にして、猫のところに駆け寄ることができなかった自分が、とても恥ずかしく思えたの」
未だに罪の意識に囚われているのか、リタの口調が少し沈む。
アンジェリカはそれについては触れず、聞きたいことだけを尋ねた。
「それがアゼルだったんだね」
「ええ。それが私とアゼルの出逢いだったの」
大切な記憶を噛み締めるように、リタはそっとそう口にした。
「アゼルは昔から優しかったんだね」
「ええ。それに、勇気があるわ」
「え、勇気?うーん、それって勇気かなぁ?」
別にケチをつける気はなかったが、アンジェリカはついそう口にしていた。
勇気があるというのは、恐ろしい魔物に立ち向かうようなことを指すのではないだろうか、と思ったのだ。
猫の死体を埋めに行くのは、はたして勇気がある行為と言えるのだろうか?
首を捻っているアンジェリカに向けて、リタは力強く頷いた。
「私はそう思うわ。周りに流されずに自分の信じることを貫くのって、とても勇気がいることだもの」
「……まあ、それもそうか」
少なくとも自分には無理そうなので、アンジェリカもとりあえず納得した。
「私はね、あの時のアゼルの姿を思い出すと勇気が湧いてくるの」
リタはこちらが頷くのを見ると、嬉しそうに顔を綻ばせながら続けた。
「不安で足が竦みそうな時、うまくできる自信がないことに一人で挑まなければいけない時、そういう時にアゼルのことを考える。そうすると、胸の中にポッと小さな火が灯る。一人で立ち向かう、勇気をもらえる」
「……なんか意外。リタはいつもまっすぐで、自分が正しいと思う方に突っ走るタイプだと思ってたから」
「それは背伸びしているだけよ。本当の私は、もっとちっぽけで臆病なの。だけど……」
「だけど?」
「私は、もう二度とあの時みたいな思いはしたくない。猫を抱いて歩くアゼルの後ろを歩いていた時、私は消え入りたいほど恥ずかしくて、顔を上げることもできなかった。……もう、あんな思いはしたくないから」
そう言うとリタは顔を上げ、天井を見上げた。
その眼差しは控えの間の天井など遥かに飛び越え、その彼方にある遠いどこかに向いているようにアンジェリカには見えた。
やがてリタはこちらに向き直ると、輝くような笑顔を浮かべた。
「アゼルの隣にいても恥ずかしくない自分でありたい。――そう思ったら私、いくらだって頑張れるの」
「……そうなんだ」
「ええ!」
「確かにその通りかもね。リタ、震えが止まってるもん」
「え?」
言われて始めてリタは気付いたようだった。
「……ホントだ。緊張がどこかに行っちゃったみたい。アンジェのおかげね、ありがとう!」
「お礼はアゼルに言ったら?アゼルのおかげなんだし」
「ふふ、そうね。後でお礼を言わなくちゃ。……あ」
その時、入り口の方を見たリタが声を上げた。
「遅れていたみたいだけど、ようやく来たみたい」
「え、誰が来たの?王弟殿下?」
「ううん、うちの両親。遅いから心配してたの」
入り口を振り返ろうとしていたアンジェリカは思わず気が抜けてしまった。
「なんだ、そうなの?じゃあ行ってきなよ」
「そうするわ。また後でね、アンジェ」
「転ばないでねー」
小走りに駆けていくリタの背中に向けて、ヒラヒラと手を振る。
(なんか思いがけず、いい話を聞いちゃったなぁ)
思わずほっこりするようなほほえましい話だ。
なんと言うか、実にあの二人らしい。
(この話、ヴェラに教えてあげようかな?……でもなぁ)
喜ぶかどうかはちょっと微妙だなと感じる。アゼルの昔話自体は喜ぶだろうが……。
いや、今となってはどうだろう?
そう考えると、呑気にほっこりしている場合ではない気がしてきた。




