第52話 リタ①
「……アゼル、聞こえてる?そこにいるのよね?」
返事が聞こえないことで不安になったのか、リタの声が揺れる。
アゼルは慌てて返事をした。
「ああ、聞こえるよ、リタ!僕はちゃんと……ここにいる」
「よかった」
声にホッとしたような響きが混じる。
アゼルの瞼の裏には、見えなくてもリタの笑顔が浮かんだ。
「ふふ、やっぱりアゼルと話していると安心するわ。昨日会っていないだけなのに、もうずっと長いこと話せてなかった気がするもの」
「……僕もだ」
最後に話したのは一昨日の朝、マルクと一緒にパンを持ってきてもらった時。
確かにそう言われてみれば、会っていないのは昨日だけなのだ。
だが、到底そうは思えないほどアゼルの周囲では色々なことが起きた。
周囲の人々の今まで知らなかった一面を知った。
目を逸らしていた自分の中の思いに気付いた。
そして……悪魔に出逢った。
蛇の姿をしたあの悪魔に振り回され、ヴェロニカを泣かせ、そして今はこんな場所で騎士達に剣を突きつけられている。
リタの知らないところで、アゼルはこれまでの人生で一度も味わったことのなかった濃密な三日間を過ごしたのだった。
「……アゼル、大丈夫?」
「え?」
「なんだか声に元気がないみたい。ちゃんと食べてる?」
リタの声が気遣わしげなものに変わる。
と、傍らに控えた騎士が咽喉元に剣の刃を押し当ててきた。
「……大丈夫。僕は元気だよ。扉越しだからくぐもって聞こえるだけさ」
「それならいいけど」
リタの声に安堵が混じり、騎士達が胸を撫で下ろす。
「こんな時間に来てもらってごめんなさい。それも、こんな形で」
申し訳なさそうな響きだった。
「本当は直接お話したいんだけど、潔斎中は世俗の人と話してはいけないと言われているの。だけど、どうしてもってお願いしたら、こういう形でならって許可をいただいたの」
「そうだったんだ」
扉の向こうにそう声を掛けながら、アゼルは頭を働かせていた。
(来てもらってごめんなさい……か)
少しずつ状況が掴めてきた。
どうやらリタはこの状況を知らないようだ。
……というより、何も聞かされていないのだ。
アゼルが騎士団に捕まっていることも、自分が悪魔に命を狙われているということも。
それは恐らく、儀式を明日に控えたリタを不安にさせない配慮に違いない。
だとすればリタがここに来たのは本人の言葉通り、純粋に自分と話がしたかっただけなのだろう。
だが、それを聞いた騎士団は慌てたはずだ。なにしろ聖女候補様が会いたいと言っているその「お友達」は今、彼らが尋問している真っ最中だったのだから。
腫れ上がったアゼルの顔を見ればリタは当然驚き、事情を知りたがる。そうなれば騎士団と一悶着あるだろうし、最悪明日の儀式にも影響が出かねない。
しかし彼らにとって幸いなことに、潔斎中であるリタはアゼルとの接触を許可されていない。そこで直接顔を合わせなければ誤魔化せると踏んで、扉越しに会わせるという苦肉の手段に出た。きっとそういうことなのだろう。
もちろんリタに対しては、あくまで話をさせるためにアゼルをここに呼び出したと説明をして……。
こちらの顔に理解の色が浮かんだのを目敏く見つけたのか、傍らの騎士がまた剣を突きつけてきた。
(リタに告げ口しないか警戒しているんだ)
その顔には一目でわかるほどありありと焦りの色を浮かべている。
だが、それは余計な心配というものだ。
「そんなの気にしなくていいんだよ」
アゼルは努めて明るい口調で言った。
「知ってるだろ、この時間はやることがなくて退屈なんだ。暇つぶしになってちょうどよかったよ」
「……もう、人の気も知らないで。私は明日の準備で大変なのに、なんだかズルいわ」
「だって僕には関係ないことだし」
「またそんな言い方をして。私、拗ねちゃうわよ?」
「ごめんごめん。謝るから機嫌を直してよ」
「ふふ、ウソよ。子供じゃないんだからそれぐらいで拗ねたりしないわ」
リタの声に笑いが混じり、騎士達の緊張が解ける。
アゼルはそれを見て内心一人ごちた。
(余計な心配なんだ。僕がそんなことをする訳がない)
リタが騎士団と揉めれば明日の警備に支障が生じる。こちらとしてもそれは絶対に避けたい。
不幸な行き違いからこんなことになっているが、彼らは決して敵ではない。リタを護りたいという点では自分と同じなのだ。
(できればこれで騎士団が僕を信用してくれたらいいんだけど)
そこまでは望み薄かな、などと思っているところに、またリタの声が降ってきた。
「けどねアゼル、関係ないことじゃないのよ」
「え?」
「実はね。私、あなたにずっと話したいことがあったの」
「話したいこと?」
「ええ。でも、どうしても言い出せなくて。儀式の前日の今ごろになって、やっぱり話しておかなくちゃと思って、こうして無理を言ってあなたに来てもらったの」
「……そうなんだ」
リタの声には少し思い詰めた響きがあった。相当に大事な話なのだろう。
(いったい何の話だ?)
リタが自分に言えなかったこと。……正直、見当もつかなかった。
「あのね。明日の儀式が終わった後のこと、なんだけど」
「うん」
「もし……もしも明日、私が本当の聖女になれたら、私は聖地ハイリゲ=リンデにある教会総本山で修行することになってるの。その場合、あなたとはしばらく会えなくなってしまう」
「……うん」
薄々わかっていたことだった。
明日の儀式が終われば、その結果によってはリタはこの修道院を去り、ここに残る自分とは別れることになる。
聖地ハイリゲ=リンデ。
リタが口にした地名は自分にとってはまるで耳馴染みのないものだった。
そんな聞いたこともない、どこにあるとも知れない土地に彼女は行ってしまうのだ。
(本当に遠い存在になっちゃうんだな)
そう実感されて、少し寂しい。
「聖女になれたら」とリタは言うが、しかしアゼルの中でいつしかそれは確定事項となっていた。
ゼルペンティーナの未来視を信じるなら、彼女は聖女に選ばれるはずなのだから。
(それでいい。リタが聖女を目指して頑張ってきたことを僕は知っているから)
寂しい気持ちはあるが、だから応援している。
たとえそれが、二度と会えないことを意味していたとしても。
(そのためなら、僕は悪魔憑きに堕ちても構わない)
リタは聖女となり、自分の知らない遠い地に行く。
一方で自分は悪魔憑きとなり、教会から追われる身となる。
そうなればもう二度とリタに会うことはできないだろう。
それでもいいと思っていた。
(僕はそれでいい。立派になったリタを、どこか遠くから見守ることができれば……それで)
アゼルは本気でそう思っていた。
「だけどね、それは聖女になれた場合の話」
――しかしリタの話はそれで終わりではなかった。
「え?」
顔を上げたアゼルの耳にリタの声が届く。
鈴の音のようなその声は、無骨な扉越しでも優しくアゼルの耳朶を震わせた。
アゼルが誰よりもよく知っている、優しい幼馴染の声音で。
「もしも聖女になれなかったら……本当に残念だけど、その時は私、王都の神学校に行くことになっているの」
「王都の神学校?」
思わず顔を上げた。
「ええ。アゼル、知っているの?」
「いや、まあ……」
曖昧に頷く。
それはおそらく、ヴェロニカが言っていた学校のことに違いなかった。
彼女のことを思うとアゼルの胸は痛んだが、今はその感傷を無理やり封じた。
今はリタの話を聞かなくては。
「それでね、あの……ちょっと言いにくいんだけど」
「うん。何?」
「もしね、よかったらなんだけど。その時は……私の従者になってくれない?」
「え?」
アゼルの頭がまっ白になった。
「……従者?」
ポツリと呟く。
それは今日の朝方、別の少女の口から耳にしたばかりの言葉だった。




