第46話 闖入者
――その時だった。
「あはははははは!」
突如としてけたたましい哄笑が響き渡ったのは。
「な、何?」
狼狽したヴェロニカが飛び退くようにアゼルから離れる。
こんな場面を誰かに見られでもしたらマズイと思ったのだろうが、思わず感心するほど素早い反応だった。
「あはははは!すごい、すごいわ!」
「だ、誰!?出てきなさいよ!」
ヴェロニカが動揺した様子で、不安そうに周囲を見回す。
しかし相手の姿が見えないことに当惑しているようだった。
無理もない、とアゼルは思った。
なにしろ今のは、修道院の誰かに見られでもしたら言い逃れのできない場面だ。
ヴェロニカにしてみれば正体不明の人物に弱みを握られたことになる。焦って当然だろう。
一方、アゼルはその点では不安を感じていなかった。なにしろその声には聞き覚えがあったからだ。
ただ、「あいつ」が何のつもりでこのタイミングで出てきたのか、その意図がわからなかった。
「卑怯者!コソコソ隠れてないで出てきなさいよ!」
「別に隠れてなんていないわよ。でもじゃあ、お望み通りに……」
ボトッ。
「……え?」
突如、天井の梁から降ってきた「それ」を見てヴェロニカが間の抜けた声を上げる。
おそらく咄嗟には何なのかわからなかったのだろう。
なにせ、そうそう見かけるものではない。
こんな奇妙な色をした蛇は……。
「ひ……っ。へ、ヘビっ!?」
ヴェロニカの顔が恐怖で青ざめる。
意外と女の子っぽいところがあるんだなと、こんな状況にもかかわらずアゼルは感心した。
もちろん、自分の反応も彼女と大して変わらないものだったことは覚えていたが。
(それにしてもあいつ、何のつもりなんだ?)
ただこの場に現れるだけならともかく、ヴェロニカに声を掛けるのは明らかに異常事態だった。それでは自分が悪魔だと名乗りを上げたようなものではないか。
一体何を狙っているのか……。
幸いまだ混乱しているのか、ヴェロニカは目の前の事態に理解が追いついていないようだが、それも時間の問題だろう。
「ちょ、ちょっとあんた、何落ち着いてるのっ?ヘビよ、あんな大きなヘビっ!」
そう言いながらこちらの背中に隠れる。意外とちゃっかりしている。
「早くなんとかして!男なんだから、私を守ってよ!」
「えーと……」
「あらあら、可愛い反応じゃない。守ってあげなさいよ、アゼル」
「うるさい。お前、一体何のつもりだ?」
「ふふ。さぁてね」
「え……?」
ヴェロニカが恐る恐る顔を上げる。
「今の声……どこからしたの?あんた、誰と話しているのよ?」
「それは……」
「まだ気づかないの?案外ニブイのねぇ、ヴェロニカ」
「え?」
小屋の中を不安そうにキョロキョロ見回していたヴェロニカがアゼルの視線を追う。
そしてようやく、床に蟠るヘビを視界に入れた。
「まさか、この声……。そのヘビ?ヘビが喋ってるっていうの?」
「そうよ、ヴェロニカちゃん。今あなたと話しているのはこの私。名前は、そうねぇ……ゼラとでも呼んでちょうだいな」
「ぜ、ゼラ?」
「ええ。本名を教えあげてもいいけど、そっちは長ったらしいからね。あなたのこと気に入ったから、特別にゼラと呼ばせてあげる」
愉快そうに言いながらゼルペンティーナが口を大きく裂けさせた。笑ったようだ。
「本当に面白い見世物だったわ。あなたがアゼルに仕掛けてくるのは視えていたけど、まさかここまでしてくるとは思いもしなかった。――あなた、凄く頑張ってたじゃない」
「な……っ!?」
アゼルの服を掴むヴェロニカの手にギュゥゥッと力が入る。そっと振り向くと、彼女の顔は茹で上がったようにまっ赤になっていた。先ほどの自分の言動を思い出したのだろう。
つられて自分の頬も熱くなるのが、嫌でもわかった。
揃って顔を赤くしている二人を眺めつつ、蛇は愉しそうに嘲弄を続けた。
「まったく貴女の手管ときたら、子供とは思えないぐらい見事だったわ。その子を誑かそうとうしている貴女の姿は、そんじょそこらの悪魔なんかよりよっぽど悪魔的だったわよ?とてもお堅い優等生には見えないぐらいにね」
「うぅ……!」
「うふふ。膝が震えてなければ完璧だったのにねぇ、お嬢ちゃん?」
「くっ!黙って聞いてれば、ヘビのくせに言いたい放題……アゼル、なんなのこいつ!?」
「えーと、それは……」
「あら。わざわざ男に聞かなくても考えればわかるでしょう?貴女なら」
「なんですっ……て……?」
話している途中でようやく気付いたのか、ヴェロニカの声は尻すぼみに消えていった。
顔色がさっと青ざめる。
「え、待ってよ。まさか、そのヘビ……悪魔なの?」
「ご名答」
「……はい」
もはや誤魔化せるわけもない。アゼルは仕方なく頷いた。
「ど、どういうこと?あんたまさか……」
「実は……数日前、こいつが目の前に現れて」
「……っ!」
「契約しろと迫られているんです。でも、悪魔に憑かれそうになっているなんて誰にも言えなくて……」
次の瞬間。
――パンッ!
小屋の中に乾いた音が響いた。
ヴェロニカに頬を叩かれたのだとアゼルが理解するまで、少し時間が掛かった。
「この馬鹿!」
「え……ヴェロニカ様?」
胸倉を掴まれて目を白黒させる。どうしていきなり叩かれたのか、理解が追いつかない。
そんなアゼルにヴェロニカが詰め寄る。
「なんで悪魔なんかに憑かれそうになってるのよ!あんた、そんなに辛かったの?だったらちゃんと言いなさいよ!周りに助けを求めなさいよ!そしたら私だって、もっと……優しくしてあげられたのに……っ」
「いや、それは……」
弁明しようとしたアゼルは、しかし言葉を呑みこんだ。
ヴェロニカの目に、涙が浮かんでいるのに気付いたからだった。
彼女は泣き顔を浮かべたまま、アゼルに抱きついてきた。
「ごめん……ごめんね。私もあなたを苦しめてたのよね。こんなこと言う資格ないよね」
突然の抱擁にアゼルは戸惑っていた。
どうして彼女は泣いているのか。
……どうしてそんなに、しがみつくように自分を抱き締めてくるのか。
「本当にごめんなさい」
背中に回されたヴェロニカの手に、ギュッと力が込もる。
「これからは私があなたを支えてあげる。あなたの支えになってあげる。……だからお願い。あんな奴に負けないで」
涙に濡れた瞼をアゼルの肩に押し付け、ヴェロニカが何度も繰り返す。
「あいつの言うことなんか聞かないで。悪魔の誘惑に惑わされないで。お願いよ、アゼル……!」
「……」
その震える声を。
言葉を。
アゼルはただ呆然と聞いていた。
懸命に自分にしがみついてくる彼女の身体を抱き返すこともできず、脳裏に稲妻のように閃いた一つの考えに打たれ、ただただ衝撃を受けていた。
(まさか)
ひょっとして。
そんな、だって……嘘だろう?
自分に縋り付く少女を見下ろし、アゼルは愕然とした。
(もしかしてヴェロニカ様は、僕のことを……?)
――その時。
アゼルはその時になってようやく、その考えに思い到ったのだった。
(そんなことがあり得るのか?)
思い至りはしても、俄かには信じることができなかった。
何度も何度も、勘違いだとその考えを打ち消そうとする。
だが。
(信じられないけど。でも……)
そうでなければどうして彼女が、自分を抱き締めてくれるというのだろう?
しがみついて震えるこの小さな背中は、演技などにはとても見えない。
肩に押し付けられた彼女の瞳からはとめどなく熱い涙が溢れ、アゼルの服を濡らしてゆく。
……この温かさが。
自分のために流してくれる、この清らかな涙が。
演技である訳がない。
嘘などである筈がない……。
『明日の朝、この小屋にヴェロニカがやってくるわ。一人でね』
立ち尽くすアゼルの脳裏にその時、ゼルペンティーナの声が甦った。
視線を感じて顔を上げると、金緑色の蛇は床の上から無言でこちらを見上げていた。
『その時、貴方は思いも寄らない真実を知るでしょうね』
(これが……そうだっていうのか?)
背筋が、震えた。
これがゼルペンティーナの言っていた真実だというなら……確かに、自分にとってこれ以上に予想外のものはなかった。
もはや疑いようがない。
ゼルペンティーナの未来視は、真実なのだ。
アゼルは今こそ、心の底からそれを確信した。
(だったら。だとしたら、僕は……)




