第43話 ヴェロニカ・パウルマン⑦
「いえ――そういう訳では」
アゼルがそう言って首を振ると、ヴェロニカは眉根を寄せた。
「は?ちょっと、そこは否定する訳?私よりリタを選んでおきながら」
「そう言われましても。僕にとってリタはそういう存在じゃないんです」
「じゃあどんな存在だって言うのよ。言っとくけど、幼馴染ってのはなしよ」
先んじて釘を刺されてしまったアゼルは、少し考えてから答えた。
「家族みたいなもの……ですかね」
それが一番しっくりくる。
リタは大切な存在だ。だがそれは昔からの友達だからであり、何かに喩えるのなら家族が一番近い。
むろん今ではそこに恩人だという一面も加わっている。
だから、決して恋愛感情なんかじゃない。
「強情ね」
ふう、と息を吐いてヴェロニカは言った。
「たぶんリタに聞いても同じことを言うでしょうね。あんたは家族みたいなものだって」
「そうだと思います」
「そうだと思います、じゃないのよっ」
「イタ……ッ」
アゼルは小さく悲鳴を上げた。ヴェロニカに左耳を引っ張っられたのだ。
「ヴェロニカ様、何を……」
「あんたが素直にならないから、お仕置きよ」
言いながらヴェロニカはもう一方の手も伸ばし、右の耳も摘まんだ。
「文句があるの?私のせっかくの好意を無下にしておいて」
「……いえ」
それを言われると何も言えない。アゼルは口を閉ざすしかなかった。
「痛い?」
「いえ」
「そう、ならいいわ」
(よくないんだけど)
そう思っても口答えできない。
両方の耳を掴まれるということは、当然ながら正面から向かい合う形となる。アゼルの方が若干背が高いので、ヴェロニカに上目遣いで見上げられた。
こんな状況だというのに、なんだか気恥ずかしい。
少し背伸びをしていたヴェロニカが、視線を逸らしてポツリと言った。
「……ちょっと屈んで。そして下を向いてなさい。足が疲れちゃうわ」
「はい」
その提案に内心ホッとする。これなら顔を合わせずに済む。
「絶対に顔を上げるんじゃないわよ」
「わかりました」
案外ヴェロニカも照れ臭いのだろうか、とアゼルは思った。
「……ねぇ。あんたってけっこうキレイ好きよね」
「え?」
「この前は汗臭いって言っちゃったけど、今のあんたからは匂いがしないわ。ちゃんと洗ってるのね」
「はい、まあ。仕事が終わった後、川で汗を流しているので……」
「それはいい心掛けね。昨日も言ったけど、この小屋もちゃんと掃除されているし」
と、頭にポフッと何かが乗る感触があった。
「いい子ね、アゼル」
頭の上に乗った何かがゆっくりと動く。
(え?……これって)
ヴェロニカに頭を撫でられているのだと気付き、アゼルは狼狽した。
「あの、何を……っ」
「何って、あなたを褒めているのよ。従者が良いことをしたらちゃんと褒めるのが主の務めだもの」
「従者って。その話はお断りしたはずでは……」
「あら、そうだったわね。うっかり忘れていたわ。私、フラれちゃったんだっけ」
頭を撫でていた手が離され、再び耳を摘まんでくる。
「私の誘いを断るなんて、悪い子ね。噛んでやろうかしら?」
「え……!」
「リタに耳を噛まれたことはある?」
「ありませんよ、そんなこと!」
頬がカッと熱くなる。
思わず顔を上げようとするも、耳を掴まれているので動かせない。
「ほら、暴れないの。本当に噛んじゃうわよ?」
言いながら、ヴェロニカの顔が耳に近づいてくるのが気配でわかった。
本当に噛むつもりなのかと、一瞬アゼルの体が強張る。
しかしヴェロニカはそうせず、耳元に囁いてきただけだった。
「ねぇ、アゼル」
吐息が、耳を擽る……。
「私があなたの耳を噛んだって言ったら、リタはどんな顔をするでしょうね?」
「え」
咄嗟に言葉が出なかった。リタがどんな顔をするか、想像つかなかったからだ。
情けないと笑うのだろうか?
或いは、呆れるだろうか?
「ふしだらだ」と怒るのだろうか?
それとも……。
「ふふ、ホントに試してみる?」
こちらが逡巡しているのを見てとったのか、ヴェロニカが耳を弄びながら訊ねてくる。心から愉しそうに。
彼女の細い指の感触に耐えかね、アゼルは身を捩った。
「ヴェロニカ様、このようなお戯れは……」
「あら、戯れなんかじゃないわよ。私は本気であなたを手に入れたいんだから」
「え……」
てっきりその件は終わったものと考えていたアゼルが戸惑う。
「その話はお断りしたじゃありませんか」
「私もそのつもりだったわよ。でも、あなたが本心を言わないから」
「本心?」
「ただの幼馴染なんかにあなたをくれてやるつもりはないってことよ」
「どうしてそんなに僕にこだわるんですか?ヴェロニカ様は僕のことがお嫌いなのではないのですか」
「……」
ヴェロニカの指がピタリと止まる。
「……そうね。そう思われても仕方がないわ。私は随分とあなたに酷いことを言ってきたものね」
小さな声だった。
耳を掴んでいた指から、力が抜ける。
解放されたアゼルが顔を上げると、ヴェロニカは沈痛な面持ちを浮かべていた。
改めてアゼルと正面から向かい合い、彼女は再び口を開いた。
「だけどね。私……本当は、亜人に差別意識なんて持っていないのよ」
「……そうなんですか?」
意外な言葉だった。なにしろさんざん亜人であることを理由に罵倒されてきたのだ。
アゼルの疑わしげな顔を見て、ヴェロニカは自嘲するように続けた。
「信じてもらえないでしょうけど、本当よ。確かにここに来る前はそういう意識を持っていたけれど。……でもここに来て、そしてあなたに会って、それが間違いだと知った」
「僕に会って?」
「ええ。リタからあなたの話を聞いて、そして実際にあなたに会ってみて、思ったの。なんだ、亜人も人族も別に変わらないじゃないかって。……そして自分の間違いに気付いた。私は他人から与えられた先入観を元に、実際に会ったこともない人たちに偏見を抱いていたんだってね」
「……」
「だからアゼル。私が自分の間違いに気付けたのはあなたのおかげなのよ」
「そう……ですか」
突然のヴェロニカの告白にアゼルは戸惑っていた。
それが本当であれば素直に嬉しい。だが正直、納得しづらいというのが本音だった。
その話が本当なら、どうして彼女は自分をずっと邪険に扱っていたのだろう?
相手の表情も口調も、確かに嘘を言っているようには感じられない。
だがそうは言っても、俄かには信じられないというのも事実だった。
怪訝な顔を浮かべるアゼルに対し、ヴェロニカは沈んだ口調で続けた。
「いま言った通り、私はあなたのことを嫌ってなんていない。それでも私があなたにキツく当たった理由は……リタよ」
「え?」
「私が本当に嫌いなのはあなたじゃなくて、リタよ」
「……」
「理由は言わなくてもわかるでしょう?」
「……はい」
短い返事とともに頷く。
確かにそれについては言われるまでもない。
ヴェロニカがリタを目の敵にしていることは以前からわかっていた。教会での出世を目指す彼女にとっては、聖女候補であるリタは目障りな存在でしかない。
それは彼女の言動の端々から痛いほど伝わっていた。というより、そもそもアゼルの前ではそれを隠そうとしていなかった。
「私はあの子が嫌い。実力もないくせにチヤホヤされてるのを見ると、本当に腹が立つわ。聖女候補というだけでいつも特別扱いされてるんだから」
「だけどリタだって努力しています。自分の立場に相応しくなろうと……」
「努力と熱意は認めているわ。だけど全然足りない。私はそれ以上に努力しているもの」
そう断言するその口調には確固たる自信と自負が窺える。
だからアゼルもそれ以上は言えなかった。
きっと本人の言う通り、彼女はずっと努力してきたのだろう。一族の期待を背負い、時には押し潰されそうになりながら、それを励みにもして。
ただ必死に。がむしゃらに。
そんな彼女からすれば聖女候補というだけで特別視されるリタが許せないという気持ちは、アゼルにもまるで理解できないという訳ではなかった。
「だから私はリタが嫌い。……だけど立場上、聖女候補であるあの子とは仲良くしなければならない。だから私はその鬱憤を、あなたにぶつけてしまった。本当は思ってもいないような非道いことまで言って、あなたを傷つけてしまった……」
「……」
「それに……」
「それに?」
「……いえ、なんでもないわ。今のは忘れてちょうだい」
「?」
ヴェロニカが言葉を濁す。アゼルは気になったが、その前にヴェロニカが言葉を継いだ。
「とにかく、我ながらどうかしていたわ。本当にごめんなさい」
「……いえ」
急にそんなことを言われてもすぐに割り切れるものではない。特に、こんな状況では。
だがその言葉で、自分の中に残っていたヴェロニカに対する蟠りが解けていくのを、アゼルは確かに感じていた。
「あなたを誘うのはその罪滅ぼしでもあるの。だからアゼル、うんと言ってちょうだい」




