第42話 ヴェロニカ・パウルマン⑥
「そう言われても……」
「悪い話ではないはずよ。私の従者になればもう、あのいけすかない庭師の顔色を窺ったりしなくてもいいでしょう。あなた、一生ここで下働きをして生きていくつもりなの?」
ヌートのことを口にする時ヴェロニカは顔に嫌悪の情を浮かべた。ヌートが心変わりしたことを彼女はまだ知らないのだから、そういう言い方になるのも無理もない。
ただ、それを抜きにしてもヴェロニカの言うことはもっともな話ではある。
貴族の従者ともなれば今よりも随分とマシな……いや、比較にならないほど良い暮らしを送れるだろう。
この修道院に留まったとしても、自分に待っている未来はそう明るいものではない。それは昨日、マルクに指摘された通りだ。
ヌートからの扱いがマシになったとはいえ、それで劇的に待遇が改善されるわけではない。それに彼が歳を取って引退すれば、代わりに別の庭師がやってくることになる。
そしたら、また元のような扱いを受けるかもしれない。
自分が亜人である限り。……そしてこの修道院が旧弊な価値観を改めない限り、自分はずっと下働きとして死ぬまで扱き使われるのだ。もはやリタのいないこの修道院で。
それはあまりにも暗い展望のようにアゼルには思えた。
そう考えると、この唐突な提案も悪いものではない。
(いや。それどころか……またとないチャンスじゃないか)
自分のような下層階級の亜人が貴族の従者に取り立てられることなど滅多にないだろう。それぐらいは世事に疎いアゼルにもわかる。
少なくとも、身近でそんな話を聞いた覚えはない。
特にこれといった取柄もなく、それどころか読み書きも満足にできない自分が貴族に見込まれることなど、この機会を逃したらもう金輪際ないに違いなかった。
問題は、自分の主人になるのがあのヴェロニカということなのだが……。
アゼルはヴェロニカの顔を見つめた。彼女は真剣そのものといった瞳でこちらをまっすぐ見つめている。
その表情からはこれ以上ないほど真摯な想いが伝わってきた。
……正直、これが何かの罠であるという可能性も考えた。以前までならきっとそう思ったろう。
だが今日ここにやってきた彼女を見て、一人の人間として自分に向き合ってくれている姿を見て、疑う気持ちなど綺麗さっぱりなくなっていた。
今のヴェロニカの言葉なら、信じられる。
(従者になって、彼女に仕える。こんな閉鎖的な場所に閉じ込められて一生を終えるより、その方がよっぽどいい)
静かにその事実を認める。
(……でも)
「答えを聞かせてくれる?アゼル」
「はい」
返事を促すヴェロニカにアゼルはまっすぐ向き合った。
そして、深々と頭を下げた。
「申し訳ありません。大変ありがたいお話なのですが、僕にはそれを受けることができません」
「……」
拒絶の返事を、ヴェロニカは黙って聞いていた。
そして口を開く。
「……顔を上げなさい」
「はい」
「理由を聞かせてくれるかしら」
冷静な口調だった。本心は、その表情からは窺えない。
だが、彼女が自分を認めて取り立てようとしてくれているなら、誠実に答えなくてはならないとアゼルは思った。
「僕には、ここでやらなくてはいけないことがあるんです」
だから正直に言った。
「やらなくてはいけないこと?」
ヴェロニカは驚いた顔を浮かべた。まったく予想外の答えだったのだろう。
(そりゃそうだよな)とアゼルは内心思った。
なにしろこの修道院で自分がしていることと言えば、ヌートの指図で雑用をしているだけ。
それだって、食べるために仕方なくしていることに過ぎない。
彼女にしてみれば、自分は嫌々働いているようにしか見えないだろう。
(いや……実際その通りだったんだ)
何の目標もやりたいこともなく、ただ生き永らえるためだけに生きていた。
(でも、今は違う)
はっきりとそう思える。
(リタの命を守る。……それだけでいい。それさえ叶えば、後のことはどうなったって構わない)
ゼルペンティーナの予言が本当に正しいかどうかはわからない。だが確かに予言通り、ヴェロニカは一人でやってきたのだ。
ならば捨て置くことはできない。
たとえ万に一つの可能性だろうと、リタに危険が迫っているというなら彼女を護らなければならない。
それ以外の一切は、今はどうでもいいことだった。
「……へぇ?」
アゼルの返事が意外なものだったからか、或いは表情に何かを見出したのか。ヴェロニカは怒りよりも、興味を惹かれたようだった。
「だったら聞かせてちょうだい。あなたがここでやらなきゃいけないことっていうのが、何なのか」
「……」
アゼルは固く口を結ぶと、さっき以上に深々とその頭を下げた。
「申し訳ありません。その質問には、お答えすることはできません」
「……アゼル。それはちょっとあんまりじゃない?」
静かな声だった。顔を伏せているアゼルには、その表情はわからない。
だが、彼女が感情を無理に抑えているのはわかった。
「私は礼を尽くしてあなたを勧誘しているのよ。それを断っておいて、その理由を答えられないと言うの?」
「本当に申し訳ありません!」
ゼルペンティーナの未来視によれば、リタは明日の見神の儀の最中に命を落とすという。
であれば、明日を乗り越えれば命の危険はなくなるということだ。
それならリタの無事を見届けた上で、改めてヴェロニカの申し出を受ければいいのかもしれない。
(でも、きっとそれじゃ駄目なんだ)
ゼルペンティーナは言っていた。リタの運命を変えるためには、アゼルが自分と契約して悪魔憑きになるしかないと……。
(リタを守るために僕は命を落とすかもしれない。例えそうならなかったとしても、その時の僕は悪魔憑きになっているだろう)
どちらの結果になっても、ヴェロニカの従者になることはできない。
そして、それを説明するわけにはいかない。
「ヴェロニカ様にそのようなお声を掛けていただき、心からありがたいと感じています。誓って本当の気持ちです」
だから誠意を込めて頭を下げることしかできない。
(今の僕には先のことなんて約束できない。理由も説明できない。だからこうするしかないんだ)
「だったら話してよ。その理由っていうのを」
しかしヴェロニカは納得していないようだった。当然だろう。
それでもアゼルは愚直に謝り続けることしかできなかった。
「無礼なことを言っているのは重々承知です。筋が通らないこともわかっているつもりです。……でも、それでもお話するわけにはいかないんです。今の僕に言えることは、さっき口にしたことが全てなんです」
「……」
ヴェロニカが黙り込む。怒ったのだろうか?
(いや、怒って当然だ)
彼女の誘いを断った。しかも、その理由を説明できない。
こんな自分を、身に余るような待遇で迎え入れようとしてくれた彼女の厚意を無下にし、訳のわからない理由でその顔に泥を塗ったのだ。
これまで以上に嫌われて当然だった。
「……」
ヴェロニカは何も言わず席を立つと、アゼルの前に立った。
そして先ほどと同じ言葉を再び口にした。
「……顔を上げなさい、アゼル」
恐る恐る顔を上げると、ヴェロニカはまっすぐアゼルの目を見つめてきた。
「あなたが話せないというのなら、もう理由は聞かないわ」
アゼルは驚いた。彼女の口調が、思いがけず穏やかなものだったからだ。
「ありがとうございます」
「その代わり、この質問には答えなさい。それは、リタのため?」
「……はい」
「そう。……ま、そうよね。あんたがそんなに必死になるなんて、あの子のためしかないわよね」
ヴェロニカはそう言うと、大きな溜息を一つ吐いた。
「私よりあの子を選ぶってことね」
「そういう訳では」
「だけど、そういうことでしょ?」
「……はい」
躊躇いつつも頷く。
ヴェロニカの誘いとは違い、リタの件には命が掛かっている。だから単純に比較することはできない。
それでもアゼルがリタを選んだことは事実だし、自分にとってどちらが大事な人かと問われれば、それはリタの方だった。
「ふん。はっきり言ってくれるわね」
ふて腐れたようにヴェロニカが言う。
「……すみません」
「謝るんじゃないわよ。じゃあ……あんた、やっぱりあの子のことが好きなのね」




