第41話 ヴェロニカ・パウルマン⑤
ここを追い出されたら本当に路頭に迷うことになってしまう。せっかくヌートとも今後は上手くやっていけそうだというのに。
気を落ち着かせるためにコップの中身を呷る。
と、話しながら食べていたせいだろう。いつのまにかパンはあと僅かしか残っていなかった。
普段なら朝に半分だけ食べて残りは晩のために残すことにしている。だが、これっぽっちを残しておいても仕方ない。
そう思ったアゼルは最後の一カケラを口の中に放り込むと、残った柑橘水で流し込んだ。
あれだけアレコレ思い悩んだというのに、結局残さず食べてしまった。
「……ぜんぶ食べたわね」
それを見届けたヴェロニカが、ポツリと呟いた。
「え?」
なぜか、ゾクっとした。
「あ、はい。……ごちそうさまでした」
「ふふ、お粗末様でした」
上ずった声でお礼を言うと、相手も礼を返してくる。
その仕草にも、表情にも、特に変わったところはない。
気のせいだろうか?とアゼルは思った。なんとなく、罠に嵌ってしまったかのような不穏な感じがしたのだ。
(そんな訳ないよな)
以前ならともかく、今の彼女からは敵意や悪意は感じない。刺々しい言葉も、苛立たしげな視線も、すっかり鳴りを潜めている。
むしろ今の彼女は、とても――。
「どうしたの?」
「え?」
「私の顔に何かついてる?」
その言葉で気付く。いつのまにか彼女の顔をジッと見つめていたことに。
「す、すみません!食べたらなんだかボーっとしちゃって……」
「別に謝ることないのに。私の顔なんかでよければ、いくらでも眺めてちょうだい」
「いや、そんな……」
本当に、今日の彼女はいつもとはまるで別人のようだとアゼルは思った。
昨日までの彼女ならきっと「誰の許可を得て私を見ているの!」とばかりに罵詈雑言を浴びせてきたろうに。
その時、ふと思い出した。昨日の朝、修道院長に叱られている時にヴェロニカが口にした言葉を。
彼女はたしかこう言ったのだ。『彼と仲良くなりたかったからです』と……。
(あれは一体どういう意味だったんだろう)
いや、そのままの意味なのか?
今朝の彼女の柔らかな物腰を見ていると、なんだかそうも思えてくる。
だがもしそうだとしたら、今までの態度があまりにも不可解だった。
なにしろ自分は本当に、彼女から蛇蝎の如く毛嫌いされているものと思っていたのだから。
その理由を聞いてみたい。……が、聞いていいものだろうか?
そう迷っていた時だった。
ヴェロニカが座り直し、コホンと一つ咳払いをした。
「アゼル。あなたに大事な話があるの」
「……はい」
相手の改まった雰囲気につられ、姿勢を正す。
見ればヴェロニカは真剣な表情でこちらをまっすぐ見つめていた。
そして深々と頭を下げた。
「昨日は庇ってくれてありがとう」
「え……」
「嬉しかったわ。本当にありがとう」
「そんな……。滅相もないです、ヴェロニカ様!」
アゼルは慌てて言った。
「お礼なんて。僕はむしろ、出すぎた真似をしたんじゃないかと」
「そんなことはないわ。あなたは自分が罰を受けることを覚悟してまで、私たちを庇おうとしてくれた。なかなかできることではないわ」
「でも……嘘はよくないことです。それに、結局ヴェロニカ様は正直に告白されたじゃないですか。僕がしたのは、余計なことだったんです」
「そうね。嘘はいけないことだわ」
ヴェロニカはあっさり認めた。
「あなたは私たちの罪を被ろうとした。それはあなたの優しさと勇気から出た行為だわ。だけどそれは同時に私たちを正しい信仰の道から遠ざけ、嘘と不正という堕落へと向かわせる行為でもあった」
手厳しい言葉にアゼルは首をうな垂れた。やはり間違いだったのか、と。
「あの時、その嘘を受け入れてしまえば私は道を踏み外していた。それはパウルマン家の者として相応しくない振る舞いであり、私の信じる正しい道からも外れている。だから私はあの時、クラリモンド様に正直に自らの罪を告白したのよ」
だが、ヴェロニカの口調はどこまでも穏やかだった。アゼルを責めるわけではなく、今までに見せたことのない優しい瞳をアゼルに向けていた。
その理由がわからず、戸惑った。
「でしたらやはり、僕のしたことは間違いだったのではないですか?」
「そうね。確かに、正しいとは言えないことだったのかもしれない」
ヴェロニカはそこで言葉を切ると、ゆっくりと身を乗り出した。
「でも……尊いわ」
そしてアゼルの手を取り、そう言った。
「え……」
柔らかな手の感触と、言葉に戸惑う。
「あの時の貴方の行いは尊かった。たとえ真実の道には背いていたとしても、私たちを庇おうとしてくれた貴方の精神は間違いなく気高くて、高貴だったわ」
アゼルの手をギュッと握り締め、真剣な瞳でヴェロニカは言った。
「その高貴な精神に私は心を奮い起こされた。貴方の勇気ある振る舞いが、自らの罪を認めることを怖れていた私に勇気をくれたの。だから私は真実を告白することができたのよ」
「ヴェロニカ様……」
「貴方の嘘が私に勇気をくれた。だから、決して余計なことなんかじゃないわ、アゼル」
「あ……ありがとう、ございます」
「もう、どうしてお礼を言うの?お礼を言っているのは私なのに」
ヴェロニカがおかしそうに笑う。
彼女の言葉が、アゼルには少し……いや、とても嬉しかった。
感動していた、とすら言えるかもしれない。
こんな風に誰かに自分のことを認めてもらうのは、初めてかもしれなかった。
それが彼女のような人間であれば、尚のこと。
「ねぇ……アゼル」
しかしヴェロニカの話はそれで終わりではなかった。
アゼルの手を握り締めたまま、彼女は囁くように続けた。
「あなた、私のものにならない?」
「――え?」
思わず彼女の顔を見る。
聞き間違いか、或いは冗談かと。
しかしヴェロニカはこれ以上ないほどに真剣な表情を浮かべていた。
「恋人って意味じゃないわよ。私の従者にならないかってこと」
「従者……ですか」
降って湧いたような話にアゼルは戸惑った。
ヴェロニカからそういう誘いが来るなんてまったく予想外のことだったし、そもそも貴族の従者というものがどういうものなのかアゼルにはよくわからない。
「私はいずれここを出るわ」
困惑しているアゼルをよそにヴェロニカが続ける。
「私の見神の儀は半年先だけど、それが済んだら今度は王都の神学校に通うことになってるの。そこで本格的に神学と神聖魔法を学ぶのよ。いずれ、教会のトップに上り詰めるためにね」
「王都に……」
「あなたも一緒に来なさい。こことは違って神学校では従者を随行することが許可されている。私の従者として、常に私を支えてほしいの。もちろん待遇は保障するわ」
「ちょ、ちょっと待ってください!話が急すぎて……」
空いている左手をブンブンと振り、話を引き止める。
「僕にそんなのが勤まるとは思えません。従者なんて、何をすればいいのかもわからないのに……」
「そんなの、ここを出る前に私が教えてあげるわ。それに他の従者だっている。最初は見習いとして他の従者の補佐について、少しずつ仕事を覚えていけばいいのよ」




