第39話 ヴェロニカ・パウルマン③
※イシュター会の修道服のデザイン、構造、および素材の伸縮性につきましては、皆様のご想像にお任せします。
パンを千切りながらついそんなことを考えている自分に気付いてアゼルは吃驚した。
(何を考えているんだ。今はそんなこと考えている場合じゃないだろ)
ヴェロニカが一人で来たということはゼルペンティーナの予言が当たったということだ。
それはつまり、リタに危険が迫っているということで……。
「どうしたの?難しい顔して」
「あ、いえ。何でも」
考え込んでいたところに話しかけられ、思考が中断される。
誤魔化すようにコップを呷ると、中身が空になった。
ヴェロニカはそれをひったくるようにアゼルの手から奪うと、瓶の中身を再び注ぎ淹れた。
「そんな、ヴェロニカ様にそんなことして頂くわけには……」
「いいからあんたは座ってなさい」
そう言って立ち上がると、また先ほどのように水で薄めてきてからテーブルの上に置いてくれる。
その甲斐甲斐しいとすら言える振る舞いに、すっかり面食らってしまった。
(どうしちゃったんだ彼女は、本当に)
ヴェロニカの視線に促されるようにコップに口をつける。
(これは本当にヴェロニカ様なのか?)
これではまるで別人だ。誰かの変装だとでも言われた方がはるかに腑に落ちる。
そう思いながらもアゼルは食事を続けた。
空腹も手伝って、パンも飲み物も格別に美味しく感じた。
そんなアゼルの食事の様子をヴェロニカがどこか楽しげに見守っている。
最初は緊張したその視線も、今では段々気にならなくなっていた。
「ヴェロニカ様はお腹が空いてないのですか?」
「私?」
「だって、昨夜はパンを食べてないんでしょう」
「私はスープや果物を頂いたもの。修道院暮らしで清貧には慣れたものだし」
「でも」
質素な生活だからこそパンを抜くのは辛いのではないだろうか。
そう思ってアゼルが食い下がろうとすると、ヴェロニカが久方ぶりに意地悪そうな顔を浮かべた。
「それとも何?私が空腹だって言ったら、そのパンを分けてくれるのかしら?」
「え?あ……いえ、そんなつもりはっ」
つい大袈裟に狼狽えてしまう。伯爵家の令嬢であるヴェロニカに食べかけのパンを分けるなど、無礼なことこの上ない。
パンを片手に慌てていると、ヴェロニカが悪戯っぽく笑った。
「冗談よ。そんな慌てなくていいわ」
「あ、はい」
「私なら本当に大丈夫よ。もう少ししたら朝食だもの。私は焼きたてのパンを頂くことにするわ」
それもそうだとアゼルは思った。ヴェロニカは別に食事抜きになった訳ではないのだ。
納得して再びパンに齧りつく。
ヴェロニカはそんなアゼルを暫くジッと見つめていたが、突然「ふふっ」と笑みを零した。
「どうされたのですか?」
口の中のものを果実水で流し込んでから尋ねる。
行儀が悪いから笑われたのだろうか?
するとヴェロニカは首を振った。
「ごめんなさいね、あなたを笑ったわけではないの。昨夜のことを思い出しちゃって、つい」
言いながらまだクスクスと忍び笑いを漏らしている。
「何かおかしなことでもあったのですか?」
「おかしなことというか、ドキドキすることね」
「ドキドキ?」
「昨夜の夕食の時、周りの目を盗んでそのパンを隠したの。そんなことしたの、私初めてだったから」
まるで告解でもするような神妙な表情。修道院の戒律では食事を残すことは禁じられているので、パン一つのことであってもそうした顔を浮かべることは別におかしなことではない。
だが……。
「なんだかいけないことをしているみたいで、凄くドキドキしたわ」
ヴェロニカはすぐにその表情を崩し、悪戯っぽく舌を出したのだ。
小さな、赤い舌だった。
アゼルはすぐに視線を外したが、その鮮やかな色は瞼の裏にしばらく残った。
その残像を追い払うように、また訊ねる。
「それにしても、よくパンを隠せましたね」
周りの目を盗んだと簡単に言うが、かなり難しいのではないだろうか。
実際リタは、過去にそれで失敗して叱られたと聞いている。
ヴェロニカは頷いた。
「そうね。周りには他の子がいたし、シスター達も見張っているし」
「そんな中でどうやって隠したんですか?」
「アンジェに協力してもらったのよ」
「アンジェリカ様に?」
「シスターの気を引いてもらって、その隙に服の中に隠したの」
「……え?」
パンを口に運ぼうとしていた手が、ピタリと止まる。
「それって……」
「要はシスターにバレなければいいのよ。周りの子の中には気付いた子もいただろうけど、誰も告げ口なんてしないわ。皆こっそりやってることだし、何より私は人望があるもの」
ヴェロニカが誇らしそうに肩をそびやかす。人望というより、家柄のおかげという気もするが。
しかしそんなことはどうでもよかった。
アゼルが今気にしていることは、そんなことではないのだ。
(服の中に隠した、だって?)
思わず手の中のパンに目を落とす。
「あ、袖の中に隠したんですか?」
修道服の袖は裾が広がっている。そこにならなんとか入るだろう。
リタのように落としたりしなければバレたりしないはずだ。
しかし彼女は首を振った。
「そんなとこに隠せないわよ。よくそれで見つかっちゃう子がいるわ。袖に入れたものが落ちないように抑えてると不自然だからすぐバレちゃうのよね」
確かにその通りではある。
では一体、どこに隠したのか?
「お腹の辺りに押し込んだのよ。もちろんこっそりとね。アンジェのおかげで見つからなかったわ」
その時のことを思い出したのか、クスクスと笑い出す。普段は優等生で通っている彼女にとっては些か刺激の強い体験だったのだろう。
しかしアゼルはそれどころではなかった。
(お腹の辺りに押し込んだ?)
女の子の服の中に押し込まれていたパン。
それを自分はさっきからパクパクと食べていたのか。
ひょっとしたら、それは……よくないことなんじゃなかろうか?
「あ、大丈夫よ?布巾に包んだから汚くなんてないわ」
手が止まったアゼルを見て察したのか、ヴェロニカがそんなことを言った。
「あ……いえ。別に、そんなことは思っていませんが……」
「そう?よかった」
ヴェロニカがニッコリと微笑む。お手本のように整った笑みだった。
アゼルはそれに、口元を引き攣らせた不恰好な笑みを返した。
(よくない。ぜんぜんよくない)
口には出せないので、心の中で呟く。
別に、汚いなどとは本当に思っていない。そんなこと全然気にならない。
むしろ、そうではないから困る。
女の子が服の中に隠していたパンを食べている。そう思うと、なんだかドキドキしてきた。
後ろめたいことをしている。……そんな気がする。
少なくともリタには言えない。
絶対に、言えない。
「部屋に戻るまで、本当にドキドキしたわ。お腹のパンが見つからないように、さりげなく手で抑えてね」
修道服の上からお腹を抑えながらヴェロニカが言う。こちらの気を知ってか知らずか、とても楽しそうだ。
「だけど私、本当はお腹じゃなくて胸を抑えたかったの。どうしてかわかる?」
「……どうして、ですか?」
「だって、心臓が飛び出ちゃうんじゃないかってくらいドキドキしていたんですもの!」
上気した顔でヴェロニカは言った。昨夜の興奮が甦ったかのように頬を美しい薔薇色に染め、アゼルの顔を上目遣いで見上げながら。
そしてふと目線を下げ、アゼルの手の中のパンを見つめると、言った。
「パン、食べないの?」
言葉の中に、少し。ほんの少しだけ、咎めるような色を含ませている。
そう感じるのは気のせいだろうか?
「……いただきます」
相手の視線を意識しながら千切ったパンを口に放り込む。
「おいしい?」
「はい……とても」
それを聞いたヴェロニカが嬉しそうに笑顔を浮かべる。なんだか、慈愛すら感じさせる微笑みだった。
とりあえず頷いたアゼルだったが、本当は味なんてわからなかった。
緊張のせいでわからなくなってしまったのだ。
向かいに座る少女を意識しているせいで……。
今の話を聞いた後だからか、パンの匂いにはヴェロニカのそれが混じっているような気がした。
それを意識してしまうとまた手が止まりそうになったが、正面からの促すような視線には逆らえず、観念してパンを口に運ぶしかなかった。
どこに視線を向ければよいかわからず視線をさまよわせていると、ふとヴェロニカの腹部が目に入った。
その修道服の下を想像してしまい、自然と頬が熱くなった。
(バカ。何を考えているんだ、僕は?)
ヴェロニカは何も気にしている様子はない。彼女は必要があってそうしただけであり、他意なんてないからだ。
自分に渡すためのパンを隠す手段がそれしかなかったから、その方法を取ったまでのこと。
それなのに、自分だけが気にしている。
ヴェロニカが気にも掛けないつまらないことを、自分ばかりが意識している。
その事実が、アゼルには無性に気恥ずかしかった。




