第38話 ヴェロニカ・パウルマン②
「ところでヴェロニカ様、今朝はどうしてこちらに?」
短剣をテーブルの上に置きつつ尋ねる。
ゼルペンティーナの予言通り、彼女は一人でやってきた。
だが、いったい何のために?
「さっき言ったじゃない。あんたに朝食のパンを届けに来たのよ」
まだ寝ボケてるの?と言いたげな顔でヴェロニカがテーブルの上を示す。
そこには、確かに布巾を被せられた籠が置かれていた。
「でも僕は食事抜きを仰せつかっています。院長様のお気が変わられたということですか?」
「いいえ、そうじゃないわ」
「では何故ここにパンがあるのでしょう」
「そのパンは今朝焼かれたものではないからよ。それは、昨日の私の夕食」
「……え?」
「昨夜の夕食に出されたパンを食べずにとっておいたの。あなたに渡そうと思って」
アゼルは驚いた。
「そんな。どうして……」
「どうしても何も、そもそも私のせいじゃない。あなたが食事抜きになったのは」
ヴェロニカの表情が僅かに沈む。
「責めを負うべきは私であって、あなたじゃない。私のとばっちりで誰かが罰を受けることになるのは、誉れ高きパウルマン家の者としての誇りが許さないのよ」
言いながらヴェロニカはテーブルのパン籠をアゼルの方に押した。
「だから黙って受け取りなさい。これは借りを返すため……いいえ、あんたに借りを作りたくないからしていることなの。たかがパン一つのことであってもね」
毅然とした口調だった。
「つまりこれはあんたのためじゃなくて、自分のためなの。遠慮するのは筋違いだし、それでもグダグダ言うつもりならまた蹴とばしてやるんだから」
そう言う彼女の口調は、言葉以上にその内容を表しているようだった。これ以上口答えしたら蹴とばされるどころか噛み付かれそうだ。
アゼルはそう思い、素直にパンを受け取ることにした。
「わかりました。ありがとうございます、ヴェロニカ様」
「お礼なんていらないってば。言ったでしょ、これは私のためにしていることなのよ」
ツンとそっぽを向くヴェロニカを、思わず微笑ましい視線で見つめた。
と、ヴェロニカはまたすぐにこちらを向いた。
「さ、早く食べなさい」
「え。今、ですか?」
それにはアゼルも戸惑った。
「だってお腹空いているでしょ?昨日も食べてないんだし」
「いや、まあ」
正確にはヌートの弁当を分けてもらったりアンジェリカにクッキーをもらったりしたので、何も食べていないというわけではない。空腹なのは確かにその通りではあるが。
「ほら早く」
それでも躊躇うアゼルをヴェロニカが急かした。
「いえ、ヴェロニカ様がお帰りになられたら、ゆっくりいただきますので……」
「はぁ?何よそれ、私がいたらゆっくりできないってこと?」
途端にヴェロニカがムッとした顔に変わる。
「いえ、そういうわけでは。しかし……」
さすがに「その通りです」とも言えず、慌てて否定する。
もちろんそれで引き下がるヴェロニカではない。
「しかしもカカシもないわよ。さっき言ったでしょ?私はあんたに借りを作りたくないの。だから私は、あんたがパンを食べるのを見届けなくちゃいけないの!」
どうしてそうなるのだろう?とアゼルは思った。
(別にそこまでする必要はないんじゃ……)
さすがに口に出してそう抗議しようとしたアゼルだが、
「いいから食べなさい」
「はい……」
相手の迫力に押し切られてしまった。逆らうことなどできそうにない。
結局、言われるままにパン籠を引き寄せる。
そこで違和感に気付いた。
籠がいつもと違うことはすぐに気付いた。調理場から受け取ったわけではないので、身近にあったあり合わせのものを持ってきたのだろう。
それは特におかしなことではない。
おかしいのはその重さだった。パンが入っているだけにしては、やけに重さがある。
不思議に思いつつ布巾を捲る。と……。
「え。……これ、お酒ですか?」
アゼルは思わず目を疑った。籠の中に入っていたのはパンだけではない。
どう見ても酒瓶にしか見えない、黒っぽいガラス瓶が入っていたのだ。
「そんな訳ないでしょ。それはただのシロップよ」
しかし、驚くアゼルをヴェロニカは笑い飛ばした。
「シロップ?」
「オレンジの果汁を濃縮して砂糖を加えてあるの。アンジェリカのやつが隠し持ってたのよ。あの子、こういうのを持ち込むのが上手いのよね。困ったことに」
「はぁ」
アゼルは生返事をした。いかにもアンジェリカならそれぐらいやりそうだ。
「あんた、これ飲んじゃってよ」
「え」
「こんなのが部屋にあったら私まで疑われちゃうもの。証拠湮滅を手伝ってほしいの」
「いや、でもそれは……」
慌てて手を振るも、ヴェロニカは聞いていなかった。アゼルが水を呑むのに使っているヒビの入った陶器のコップに瓶の中身を注ぐと、立ち上がって水瓶の前まで歩いてゆく。
そして柄杓で水を掬い、コップの中にトポトポと注ぎ淹れた。
最後に籠の中に入っていたスプーンで軽く混ぜ、アゼルの前にトン、と置く。
「はい、どうぞ」
「えっと……」
「パンだけじゃ喉に詰まるでしょ。私の気遣いに感謝しなさい」
「あの、でも」
「何よ。私の心尽くしが気に入らないってわけ?」
「……いえ。ありがたくいただきます」
アゼルは色々と諦め、コップを手に取った。
「それでいいのよ」
途端にヴェロニカが相好を崩す。
まあ、実際ありがたい話ではあった。パンだけでは確かに食べにくいし、かといって水では味気ない。
彼女の前で物を食べるのは少し落ち着かないが、どうしても嫌だというほどでもない。
そう思い、せっかくの好意を無下にするのも何なので、ありがたく頂くことにする。
こくり。
(――!)
コップの中身を呷ると、果実の甘酸っぱい味が途端に口の中に広がった。
「どう?おいしい?」
「とてもおいしいです。甘い飲み物なんて、久しぶりに口にしました」
それは気を遣った言葉ではなく、アゼルの本心だった。
滅多に口にしない甘味に喉が喜んでいるのがわかる。
久しぶりすぎて、なんだか目の前がクラクラするようだ。
アゼルは少し不安になり、一応聞いた。
「……これ、お酒は入ってないんですよね?」
「当たり前じゃないの。いくらアンジェでもここにお酒なんて持ち込まないわ」
「だったらいいですけど」
「ほら、じゃんじゃん呑みなさい。遠慮はいらないわ。私が呑むわけにはいかないものね」
「はあ……」
言われるがままに口にする。美味しすぎて、すぐにコップの半分近く飲んでしまった。
普段は口にしない甘味を急に摂ったから、腹が吃驚しているのだろうか?
なんだか、お腹がポカポカしてきた。
パン籠に手を伸ばす。胃が動き出したせいか、急に空腹を感じたのだ。
少し硬くなったパンを手に取る。自分が普段もらっているパンとさして変わりはない。
「少し千切ってあるけど、気にしないでね」
ヴェロニカがボソッと呟いた。
見ると確かに、パンの先に少し食べたような痕跡があった。
「ちょっとは食べないと疑われるもの」
「別に気にしませんよ」
彼女とは違い、アゼルは市井で生まれ育った根っからの庶民だ。行儀作法なんてものに縁はなかったし、食うや食わずの生活をしていた時期だってある。贅沢なんて言ってられない。
それにヴェロニカは貴族だ。食べたといっても直にパンに食いつくようなことはしない。言葉通り、上品に手で千切って食べたのだろう。
だからアゼルは何も気にせずパンを千切り、口に放り込んだ。
「…………」
ヴェロニカはそんなアゼルの食事を、ずっと見守っていた。
(え、何だ?)
なんだか落ち着かない。どうしてそんなにジッと見てくるのだろう?
「……おいしい?」
ヴェロニカがポツリと尋ねてきた。
「はい、とても」
「そう?よかったわ」
アゼルの返事を聞くと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
(どうしたんだろう、今日のヴェロニカ様は)
普段の意地の悪い言動はすっかり鳴りを潜めている。まるで別人のようだ。
(いつもこうなら可愛いのにな)




