第37話 ヴェロニカ・パウルマン①
カ―――――――ン…………。カ――――――――ン…………。
いつものように夜明けを告げる鐘が鳴り、アゼルは目を醒ました。
「もう朝……?」
しかし、すぐに起き上がることはできなかった。
普段なら寝起きがいいアゼルは目が醒めるとすぐに意識も覚醒するのだが、今日に限っては頭が朦朧としていた。脳に眠気がこびりついていて、どうにも拭い切れない感じがする。
昨夜はあまり眠ることができなかった。もちろん、ゼルペンティーナのせいだ。
あの後もあれこれ考えてしまい、寝床に入ってもなかなか寝付けなかった。
寝不足で頭がフラフラする。
それでも起きなければ、と思ったアゼルだが、ふと思い出した。
そういえば、昨日の朝の騒動のせいで今日は食事抜きになったのだ。
つまり今朝は誰もこの小屋にはやってこない。
(だったらもう少し寝ててもいいよな)
水はいつもの習慣で多目に溜めているので、別に慌てて汲みに行く必要もない。足りなくなれば仕事が終わってからにでも川に汲みに行けばいい。
食事抜きは辛いが、それならばもう少しゆっくりしてもいいだろう。
そう思い、布団代わりにしているボロ布を引き上げて寝直そうとしたところで……
「こら」
――いきなり聞こえてきた声に驚き、閉じかけていた目を開けた。
(え?)
思わず耳を疑った。だって、今朝は誰も小屋には来ないはずだ。
そう思いつつも、寝ぼけ眼で首を動かす。
そして――自分を覗きこんでいるヴェロニカの姿を見つけて、仰天した。
「え?……あれ?」
見たものを信じられずに瞼をゴシゴシと擦る。
だが、夢でも見間違えでもない。そこにいるのは確かにヴェロニカだった。
寝台の傍らに移動させた木箱に行儀よく腰掛け、起き抜けのアゼルを上から見つめている。
今にも笑い出しそうに、口元を綻ばせながら。
「なに二度寝しようとしてるの。とっとと起きなさい」
動転して声も出せないでいるアゼルを見下ろしながら、ヴェロニカは楽しそうに微笑んだ。
「あんた、意外とだらしないところあるのね。いいこと知ったわ」
「ヴェロニカ……様?どうして……」
「決まってるでしょう。パンを持ってきてあげたのよ」
「パン?」
アゼルは首を捻った。今日は食事抜きにされた筈ではなかったか?
修道院長の気が変わったのだろうか。それとも何か、他の理由で?
(……ダメだ)
起き抜けで頭が働かない。
アゼルがぼやけた顔で必死に事態を理解しようとしていると、何かが顔に当たった。
何かと思えばただの布切れだった。普段、自分が顔や身体を拭くために使っているものだ。
昨夜、洗って小屋の中に吊るしておいたはずだが……。
「とりあえず顔でも洗ってきなさい。少しは目が覚めるでしょ」
干してあったそれをヴェロニカが放ってよこしたのだと、アゼルはようやく回り始めた頭で理解した。
何がなんだかわからないが、とにかく寝ぼけた頭を目覚めさせなければ始まらない。
ここは彼女の言う通りにした方がよさそうだ。
「ふぁい……」
返事をして寝台を下り、フラフラとした足取りでアゼルは戸口に向かう。
その背中をヴェロニカが楽しそうに見送っていたことには、気付かないまま。
川で顔を洗うとアゼルの意識はようやく冴えてきた。掌に汲んだ冷たい水が、わずかに残っていた気怠さまでも流し去ってくれた。
しかし、疑問や混乱は残ったままだ。
(一体どうなってるんだ?)
回り始めた頭で改めて考えても、あの院長が前言を翻すとはやはり思えない。
それに昨日あんなことがあったばかりで、ヴェロニカがまたここにやって来るというのはまったくもって不自然だ。
何よりおかしいのは、アンジェリカの姿がどこにもないということだ。
(まさか、一人で来たのか?)
それこそ考えられないことだ。周りに邪推されるような行動は慎めと言われたばかりではないか。
アンジェリカに聞いた話では、ヴェロニカは院長に憧れているという。そんな彼女が、昨日の今日で院長の言いつけに背くというのはどう考えても不自然だろう。
何かよほどの用事でもない限りは。
(……ん?)
その時、頭の隅に何かが引っかかった。
何か大事なことを忘れている……。そんな気がした。
(なんだっけ。昨夜、何か大事なことを聞いたような)
完全に目覚めたと思っていたのに、まだ覚醒しきっていないらしい。もどかしい気持ちで記憶を探る。
昨夜あった出来事。それはもちろん……。
(ゼルペンティーナ。蛇の姿をした悪魔……)
自分を悪の道へ堕とそうと誘う、金緑色の美しい蛇。忌まわしい未来を告げる予言を、さも真実かのように囁きかける、気味の悪い悪魔……。
(予言。……未来視)
『いいわ。だったら一つ、貴方に予言を授けてあげる』
そうだ。未来視を疑う僕にあいつは昨夜、こう言ったんだ。
あれは、確か……。
『明日の朝、この小屋にヴェロニカがやってくるわ。一人でね』
「あっ!」
アゼルは思わず大声を上げた。
持っていた手拭いを落としたが、それにも気付かなかった。
ヴェロニカが一人で小屋にやってくる。
それは、ゼルペンティーナの予言通りではないか!
(未来が視えるっていうのは、じゃあ……本当なのか?)
だとしたら、リタが死ぬというのも?
「違う。そんなの間違いに決まってる」
アゼルはかぶりを振った。
ただの偶然だ。或いは、単にヴェロニカの動向を把握していただけかもしれない。
(きっとそうだ。未来なんて視えなくたって、それぐらいは当てられるさ)
でも、本当に?
「……」
夜が明けきるまではまだ間がある。払暁の薄闇の中アゼルは一人、寄る辺無い心地で佇んでいた。
小屋に戻るとヴェロニカはテーブルの前に木箱を動かし、そこに端座していた。
他に誰もいないのに姿勢よく腰掛けているのはいかにも彼女らしい。
そのヴェロニカは何かを手に持ち、アゼルが戻ったのも気付かずにジッと見つめている。
彼女が眺めているのが父の形見だと気付き、アゼルは慌てた。
「あの、それはっ」
「……ああ、アゼル。戻ったのね」
ヴェロニカが振り返る。短剣をその手に掲げたまま。
……うっかりしていた。昨夜、テーブルに出しっ放しにしたまま寝てしまったのだ。
ゼルペンティーナに「ヴェロニカが朝やって来る」と言われていたというのに、片付けることまで頭が回らなかった。
「これ、あんたの?」
「……はい」
「元からここにあったもの、じゃないわよね。庭仕事に使うものには見えないし」
「父の形見です。父は……冒険者だったので」
アゼルは正直に答えた。不穏なことでも企んでいるなどと邪推されてはたまらない。
それに、できれば没収されるのも避けたかった。値打ちものでなくても、父の遺品なのだ。
「そう。お父様の……」
ヴェロニカの口調は穏やかだった。
「そういえばリタから聞いたことがあるわ。あなたのお父様は、冒険者だったんだって」
「お父様」という言葉にアゼルはくすぐったさを覚えた。貴族のお嬢様から「お父様」などと呼ばれたと知ったら、墓の下の父はどんな顔をするだろう。
「大切にしているのね」
「一応、父が遺したものですから。価値なんてないでしょうけど」
そう言うとアゼルは自嘲気味に呟いた。
「似合わないですよね。僕がそんなの持ってるなんて」
「どうして?そんなことないわ」
「え」
ヴェロニカは座っていた木箱から腰を上げると、アゼルに短剣を差し出した。
「返すわね。大切なものに勝手に触ってしまってごめんなさい」
「え?い、いえ」
短剣を受け取ったアゼルは、しばしポカンと相手の顔を眺めた。
「何よ、そのマヌケな顔は」
「いえ、なんか意外だなって」
「何よそれ。まさか私がその短剣を取り上げたり、嫌味の一つでも言うと思ったわけ?」
「あ、いえ。そんなことは……」
正直その通りだった。ヴェロニカが短剣を手にしているのを見た時はヒヤッとした。
ヴェロニカはお前の本音などお見通し、とばかりに軽く睨みつけてきた。
「しないわよそんなこと。他人様のご家族の遺品にケチをつけるような真似は、いくらこの私でもね」
「すみません……」
そっぽを向く彼女に向けて、素直に頭を下げる。確かに失礼が過ぎたようだ。
「ほら、いつまで立ってるの?早く座りなさい」
「……はい」
まるで自分こそがこの小屋の主であるかのようなヴェロニカの物言いに苦笑を漏らしながら、アゼルは自分の分の木箱に座った。




