第33話 悪魔の再訪
マルクが立ち去ると、照明のない納屋は再び闇に閉ざされた。
壁板の隙間から射し込むわずかな月明かりだけが、粗末な小屋の中をほのかに浮かび上がらせている。
アゼルは、疲れを覚えた。
肉体的な疲労はそこまでではない。それよりも精神的なそれの方が大きい。
昨日今日と、いっぺんに色んなことが起き過ぎたのだ。それまではずっと、彼の生活に大きな変化などなかったというのに。
正直、すぐにでも寝床に倒れ込みたかった。そして何も考えず寝てしまいたい。
(でも、寝てる場合じゃない)
考えなきゃいけないことが多すぎて、頭の中がザワザワする。色んな人が頭の中で一遍に喋っているみたいだった。
頭も体も疲れきっているはずなのに、目が冴えて眠れそうにない。
『お前、冒険者にはならないのか?』
先ほどのマルクの言葉が、まだ耳に残っている。
すると彼の視線は自然と小屋の一隅へと向かった。
そこには使えなくなった農機具や、壊れてもう修繕できない道具などが押し込まれた木箱が転がっていて、小さな小屋をさらに狭苦しくしていた。
その木箱の内の一つに手を突っ込み、ガラクタの中から鞘に納まった短剣を取り出す。
それはアゼルの父親の形見であり、唯一手元に残った品だった。
「…………」
ジッとその短剣を見つめる。
マルクは恐らく勘違いをしている。彼は恐らく、アゼルの父親が戦士だったと思っているのだろう。
事実はそうではない。アゼルの父親は鍵師だった。ダンジョンや迷宮内で鍵開けや罠の解除などの役割を担う、非戦闘職の冒険者だ。
探索においてパーティーの安全を担う、なくてはならない存在。一方で地味な存在なのもまた事実。
この短剣も護身用に持っていただけに過ぎない。業物でもなんでもないナマクラだと、生前に父自身がそう語っていた。
冒険者としての父の稼ぎはそれほどよくなかった。彼が死んだ時、遺してくれた僅かなものは滞納していた家賃を贖うには足りず、アゼルは身一つで借家を追い出された。
父は冒険者としては平凡な男だったのだろうと、今となっては思う。小さな頃は無邪気に父親に憧れていた時期もあったが、その思いもいつしか色褪せていた。
男手一つで自分を育ててくれた父の背中を見ていたアゼルは、絵物語の冒険譚なんてものが現実の冒険者像とかけ離れていることを誰よりよく知っている。
父のことは今でも尊敬しているが、冒険者に対する憧れは、もうない。
自分が冒険者になれるなんて思っていないし、そもそもなりたいとも思わない。
……それなのに、今もこの短剣を持っている。
捨てることもできず、まだここにある。
父が遺したものは全て取り上げられてしまったのに、これだけは手許に残しておきたくて、隠しきった。
……本当に、どうしてなのだろう?
戦ってまで手に入れたいものなんて、自分には本当に何もないというのに。
「……父さん」
刀身を月の光に晒してみる。時折手入れしているので錆は浮かんでいない。
短剣だが、自分の手には少し重たく感じる。
その重さが、今は不思議と心を鎮めてくれるような気がした。浮き足立ちそうな心を地上に繋ぎとめるように。
――その時だった。
「物騒ね」
「!?」
自分以外に誰もいないはずの小屋に、女の声が響いたのは。
「そんなの、一体誰に向けるつもり?」
誰だ、と反射的に叫びそうになるのをすんでの所で堪える。問うまでもなく、その声には聞き覚えがあった。
アゼルは声のする方向――梁の上を見上げ、その姿を目で捉えた。
「ゼルペンティーナ!」
「はぁい、ご名答。昨日ぶりね、ご主人様」
軽薄な口調で蛇――いや、蛇の姿をした悪魔が答えながら、細長い体をスルスルと伸ばして降りてくる。
アゼルは思わず後じさった。
そして手に持っていた物のことを思い出し、相手にその切っ先を向けた。
「そんな物騒な物を向けるのはよして頂戴。まあ、もっとも……」
しかしゼルペンティーナには一向に怯んだ様子もない。
「そんなのじゃ私に傷一つ付けられないけどね」
「……誰がご主人様だ。僕はそんなのになった覚えはないぞ」
「だけど契約したらそうなるでしょう?貴方がこちらの世界での私の宿主になるんだから」
「契約なんてしないって言ってるんだ」
「だけどするのよ。言ったでしょう?私は未来視だって。これから先に起こることが、私には視えている」
聞き分けのない子供を論すように、ゼルペンティーナは静かに宣言した。
「貴方は私と契約する。これはもう決まっていることなのよ……アゼル」
名前を呼ばれて、アゼルは怖気をふるった。相手の言葉に真実めいた響きがあったからだ。
もしかしたら本当にそうなのではないか?……そう信じてしまいそうな自分を叱咤し、アゼルは悪魔に向かい合った。
「何度来たって、僕はお前と契約なんてしない。僕は……」
「わかっているわ。リタと結ばれることを望んでないって言うんでしょう?」
「あ、ああ」
先んじて言われてしまい出鼻を挫かれる。
短剣の切っ先が下がりそうになるのを、アゼルは意識して引き上げた。
しかしゼルペンティーナは突きつけられた短剣をまったく無視して、アゼルの目だけを見つめていた。
「その提案については忘れてちょうだい。実を言うとね、あれは本気で言ったわけじゃないの」
「どういうことだ」
「ああ言ったらどんな反応をするのか見たかっただけ。あなたがどんな人間か見極めたかったのよ」
「……なんだよそれ。僕を試したってことか?」
「そういうことになるわね」
悪びれずに蛇は言った。実際、悪いなどとは露ほども思っていないのだろう。
なにしろ相手は悪魔である。人間の心情を慮れと求める方が間違いとも言える。
それでも気分のいい話ではない。顔を顰めるアゼルに対し、機嫌を取るようにゼルペンティーナは続けた。
「気を悪くしないでちょうだいな。なにせ契約は悪魔にとっては命と同じぐらい大事なものなんだから。契約相手を選ぶには慎重の上にも慎重を期さなければならないのよ」
「ふん、それで?性懲りもなくまた来たってことは、僕はお前のお眼鏡に適ったってことか」
「ええ、その通りよ。期待通り……いいえ、期待以上と言っていいわね」
「よく言うよ」
その手には乗らないぞ、とアゼルは内心思った。
マルクの話では悪魔はこの世界に自由には来られない。魂の門が繋がった人間を通じてのみこちらの世界に干渉できるのだという。
だとすれば、ゼルペンティーナにとっては気に入ろうが気に入るまいが、ゲートが繋がったアゼルに取り入るしかないということだ。
だからお世辞でもなんでも言って自分を篭絡しようとしているのだろう。
(ひっかかってたまるか。なんとか言い負かして、もう二度と出てこないようにしてやる)
「このままじゃ話しにくいわね。灯りをつけましょう」
警戒を強めるアゼルに構わずゼルペンティーナはマイペースに言った。
「そんなものここにはないぞ」
「わかっているわ。私に任せなさいな」
ゼルペンティーナがそう口にした次の瞬間、真っ暗だった小屋の中に明かりが生まれた。
驚いて見回すと、テーブルの上に豪華な燭台がいつのまにか現れている。
燭台にはすでに幾本もの蝋燭が立っており、その全てに灯が点っていた。
「これ……お前が出したのか?」
「もちろんよ」
「一体どこからこんな……」
信じられない思いでアゼルは見つめた。……というのも、それは金でできていたのだ。
思わず目が眩みそうな純金の肌に、チラチラと揺れる蝋燭の炎が映りこんでいる。すると赫い灯火は人間の欲望を掻き立てるようなギラギラとした眩い輝きに変じて、アゼルの眼を幻惑した。
さらに燭台の表面には神話に登場する神々や伝説に謳われる幻獣をモチーフにした美麗な浮き彫りが施されていて、所々に透明度の高い宝石が豪勢に、けれど品位を損なわない程度に、ごくさりげなく鏤められているのだった。
アゼルにはむろん宝飾品についての知識などない。それでも、どう見てもそれがとんでもない値打ち物であることは明らかだった。単なる豪華な装飾品ではなく、芸術作品としても第一級のものに違いない。
これを売れば、きっと一生遊んで暮らしてもお釣りがくる。
「こんなのでよければいくらでも出してあげるわよ。ご主人様の願いを叶えてこその悪魔だもの」
「どうせまやかしだろう」
「疑うなら触ってみたら?ヤケドしても知らないけどね」
短剣をゼルペンティーナに向けたまま 半信半疑でアゼルは燭台に手を伸ばした。
蝋燭にかざした手は確かに炎の熱を感じた。……本物だ。
「欲しいのならあげましょうか。もちろん、契約してくれたらの話だけど」
「いらない。それより、どこから出したんだ。お前には手も足もないっていうのに」
「悪魔をなんだと思ってるの?手足なんてなくてもこれくらいできるわよ」
ゼルペンティーナはそう言うとテーブルの上に這い上がり、燭台にその身を絡みつかせた。細長い体表に波打つ精緻な鱗が、灯火を映して黄金色の輝きを帯びる。
そうしていると、まるでこの蛇自身が純金でできていて、この美しい燭台を飾る彫刻の一部であるかのようだった。
その神々しい輝きにアゼルはついつい目を奪われた。
「そろそろソレを下ろしてくれない?おちおち話もできやしないわ」
「あ、ああ」
言われて短剣を下ろす。相手を信じた訳ではないが、少なくとも敵意はないように見える。
決してこの美しさに心が動いたわけではない。……ないが、話ぐらいは聞いてもいいという心境になっていた。
警戒は怠れない相手だが、リタのことについても聞く必要がある。
「でもその前に聞かせろ。お前、何でここに入れるんだ?」
「どういう意味かしら」
「この修道院には悪魔を防ぐ結界が張られているって聞いたぞ」
「ああ、そのこと?単純な話よ。ここは結界に含まれていないってだけ」
「……そうなのか?」
「ええ。結界の効力は聖堂を中心とした半リーグの範囲に限られている。この納屋は範囲外ってことよ」
「なるほど……」
言われてみればもっともな話だった。こんな敷地の外れを護ったところでしょうがないということだろう。
見神の儀は聖堂で執り行われるという話だし、それなら問題はないわけだ。
「聞きたいことはそれだけ?じゃあ本題に入りましょうか」




