第27話 リタの噂
「リタの噂……?」
その口調に不穏な気配を感じ、身構える。
そんなアゼルを見据え、ヴェロニカはクスクスと哂った。
「知らないわよねぇ。リタや私達の他にあんたと話す子なんていないし」
彼女には珍しい、陰に籠もった感じの笑みに、アゼルの嫌な予感が膨れ上がる。
「ちょっとヴェラ?」
「アンジェは黙ってて」
「……は~い」
口を挟みかけたアンジェリカも、ヴェロニカのキツい口調に渋々といった調子で口を閉じた。
「なんですか、リタの噂って」
「聞きたい?」
「……はい」
逡巡しつつも頷く。噂話の類は嫌いだった。
だが、リタに関する噂となればそういう訳にもいかない。
自分に何ができるとも思えないが、何か悪い噂なら対処しなければならない。
「いいわ、教えてあげる。耳を貸しなさい」
少し腰を屈めて相手に耳を寄せる。ヴェロニカが顔を寄せてくる。
吐息が耳をくすぐった。
アゼルはほんの少し気恥ずかしさを覚えたが、彼女の次の言葉でそんなものは吹き飛んだ。
「リタとマルク様がね、この小屋でよからぬことをしているっていう噂よ」
「――は?」
瞬間、何を聞いたのか理解できなかった。
目を丸くしているアゼルに、ヴェロニカが嗜虐的な笑みを向ける。
「あの二人は毎朝ここへ来るんでしょう?あなたにパンを届けに」
「は……はい」
「それを口実に、毎日ここで逢引してるんじゃないかって噂があるのよ」
「そんな馬鹿な……!」
頭の中がまっ白になった。
そんな馬鹿な噂が広まっているなんて、想像すらしていなかった。あの二人を見てそんな下劣な想像をする人間がいるという事が信じられなかった。
しかもそんな噂が立った原因に自分が関わっていることに、アゼルは打ちのめされる思いだった。
「ねえ、噂に拠るとあなたはその間ずっと小屋の外に立たされているのよね。見張りを兼ねて」
アゼルは思わず拳を握った。
そんな訳がない。あの二人がそんなことをする筈がないと、自分が誰より知っている。
小屋の外で待っているのは、むしろ……。
「あなたって可哀想ねぇ。あの二人のためにそんなことまでさせられて。ねぇ、実際のところどうなの?リタとマルク様は本当にここで……」
「あの二人はそんなことしない!」
「きゃっ!?」
いきなり怒鳴りつけられたヴェロニカが小さく悲鳴を上げる。
気付けばアゼルは彼女の両肩を掴んでいた。
「な、なんなのよ。いきなり……」
「取り消してください。あの二人がそんなことするわけない。そうでしょう」
「わ、私が言ってるんじゃないわよ。そういう噂があるって耳にしただけで……」
「誤解です。あの二人はそんなことしない。むしろ……」
「……むしろ?」
ヴェロニカが怪訝な顔を浮かべる。アゼルは慌てて首を振った。
「い、いえ……何でもありません」
危うく余計なことを口走るところだった。むしろ小屋の外で待っているのはマルクの方だ、などと言ったらまたしてもおかしな噂を立てられてしまうだろう。
「とにかく、そんなことは絶対にありません。僕が証人です。どうかおかしな噂を信じないでください」
「……」
ヴェロニカは何も答えなかった。しばしアゼルの顔を眺めた後、顔を俯かせる。
そして言った。
「ごめんなさい」
「……え?」
一瞬、アゼルは耳を疑った。その言葉が、あまりにも意外だったから。
呆然とするアゼルに向けて、顔を上げたヴェロニカがまた言った。
「悪かったって言ったの」
拗ねたようにそう口にする彼女の顔を、アゼルは思わずまじまじと見つめた。
聞き違いなどではない。それは確かに謝罪の言葉だった。
まさか謝られるとは夢にも思っていなかったアゼルは、しばし呆気にとられてしまった。
するとヴェロニカは、その視線から外れるようにプイッと顔を背けると、ボソッと呟いた。
「……近い」
「え?」
「顔……近いんだけど」
その一言でアゼルは、自分たちが至近距離で見詰め合っていたという事実にようやく気付いた。
おまけにいつのまにか肩まで掴んでいるではないか。
「す、すみません」
慌てて手を放す。
「……いいえ、謝るのは私の方よ」
掴まれていた肩を気にしつつも、ヴェロニカは殊勝げな表情をしていた。
「根も葉もない噂を根拠に他人を貶めるなんて、私らしくなかった。……いいえ。それ以上に、パウルマン家の跡取りとして品性に欠ける振る舞いだったわ。謝罪して撤回する」
そう言って軽く頭を下げる。
そんな彼女をアゼルは、信じられない思いで見つめた。日頃から自分を見下してくるヴェロニカが、まさか頭まで下げてくれるとは思わなかったのだ。
これは本当にヴェロニカなのだろうか?などとつい思っていると、顔を上げた彼女が言った。
「ちょっと……何か言いなさいよ」
「え?」
「私、謝ったんだけど。謝罪を受け入れてくれないわけ?これじゃ足りない?」
「い、いえ!もう十分です。ありがとうございます」
「……なんでありがとうなのよ。おかしな奴ね」
そう言ってヴェロニカは息を吐いた。目に見えて肩の力が抜けている。
確かに彼女の言う通り、お礼を言うのはおかしい。が、アゼルがそう感じたのも事実だった。
「まさか謝ってくださるとは思っていなかったので。なんか、うれしくて」
「……何よそれ。自分に非がある時はちゃんと認めるし、謝るわよ。私を何だと思ってたわけ?」
つん、とそっぽを向く彼女の耳が赤くなっている。
(あれ?)
それに気付いたアゼルは思った。
なんかこの子、意外と――
「んふふ~」
奇妙な声が聞こえてきたのはその時だった。
見ると、寝台の上のアンジェリカがこちらを見ながら意味深な笑みを浮かべている。
「……何よアンジェ。ニヤニヤして」
「別に~?ただ、二人が仲良くなってうれしいな~って思って」
「あんた目が腐ってんの?どう見ても気まずい空気でしょ、今」
「ホント~?本当にそうなのかなぁ?」
「っ。この……!」
ヴェロニカは赤面しながらズカズカと歩み寄ると、アンジェリカを寝床から降ろそうと引っ張り始めた。
「ていうかあんたいつまでそこで寝てんのよ。いいかげん降りなさい!」
「あれ、もしかして交代してほしいの?だったら早くそう言えばいいのに~」
「だっ、誰がそんなこと――」
「何をしているのですか」
ピタリ、と。
不意に闖入してきた冷たい声が、喧騒を嘘のように鎮めてしまった。
寝台の上の二人が弾かれたように戸口を振り向き、いつのまにかそこに立っていた人物の姿を見る。
二人は同時に叫んだ。
「院長様!?」
「クラリモンド様!」
二人はそれぞれ違う言葉を口にした。が、その意味するところは同じ。
修道院長クラリモンド。このサリーガルテン修道院を束ねる女司祭であり、規律には誰より厳しいことで知られる初老の修道女だった。
クラリモンドは二人の驚愕の視線を存分に受け止めたあと、静かに言い直した。
「私は何をしているのかと聞いているのです。そのようなところで」
「あっ!」
「い、いえ、これはっ」
二人が競うように寝台から飛び降り、床に正座する。
取り残された形のアゼルは少し迷った。自分も正座した方がいいのだろうか?
しかしそれをすると却ってヤブヘビになってしまいそうな空気だった。
クラリモンドは二人のことしか見ていない。このまま黙っていれば蚊帳の外にいられそうな雰囲気がある。
でも、それでいいのだろうか?
「あのぅ、院長様がどうしてこんな所に?」
アゼルがあれこれ考えている内にアンジェリカが口を開く。彼女はいち早くショックから抜けたようだ。
一方のヴェロニカはまだ顔が蒼白なままだ。
「リタの潔斎を監督してたんじゃないんですか?」
「その役目は他の者に任せました。私はあなた達の様子を見に来たのです」
「え?」
「リタがいつもここにパンを届けに来ていることは知っています。その役目を今日はあなたたち二人に任せたことも。だから私は、あなたたちの部屋を見に行ったのです」
「ぅげ……っ」
アンジェリカが小さく呻くのがアゼルには聞こえた。幸い、クラリモンドの耳には届かなかったようだが。
いや、実際どうだったのか。眉間に皺を寄せたクラリモンドが、小さく溜息を吐くのが見えた。
「部屋にあなた達の姿はなかった。ですが厨房の者に聞いたら朝早くにパンを受け取って出て行ったというではありませんか。それにしては時間が経ちすぎていると思い、こうして様子を見にきたのです。納得できましたか?」
「は、はい……。何もかも」
「よろしい。では、次はあなたたちの番です。ここで何をしていたか話しなさい」
そこで初めてクラリモンドはアゼルの方に視線を向けた。
険のある目付きで、ジロリと。
それは思わず身を竦めたくなるような冷たい眼光だった。
「異性が寝泊りしている小屋に、なぜ足を踏み入れたのかを」




