第22話 ヴェロニカと朝の挨拶
翌朝、アゼルはいつも通り夜明けと共に目を覚ました。
いつも通りに寝床から起き上がり、いつも通り川で顔を洗う。
しかしその顔色はいつも通りとはいかなかった。昨夜あまり寝られなかったせいだ。
あのゼルペンティーナとかいう悪魔が言ったことが、頭から離れなかった。
『そうよアゼル。リタは、死ぬわ』
そんな筈はない、と思う。
聖女は世界中の人々が千年もの間待ち続けてきた存在だ。そんな大切な存在が悪魔に殺されるだなんて、決してあってはならないことだ。
(いや、そうじゃない)
聖女がどうとか関係ない。リタはいい子だ。
誰に対しても分け隔てせず、亜人である自分にも優しく接してくれる。
聖女候補に選ばれる前から、彼女はずっとそうだった。
そんな優しい少女が悪魔に殺されるなんて、あっていいはずがない。
(そもそも、そんなことがあり得るのか?)
リタは聖女候補だ。周りもその重要性を認識しているし、だからこそ厳重に護られている。
修道院というこの世でもっとも安全な場所の一つにリタを閉じ込め、さらに教会騎士団に警護させている。
もちろん見神の儀においてはきっと普段以上に厳重な警備を敷くはずだ。
たとえ悪魔が襲撃してこようと、リタが殺されることになるとは思えない。
(そうだ。そうに決まっている)
冷たい水で顔を洗いながら、自分にそう言い聞かせる。
(あんな奴の言葉なんて真に受けるな。それこそ悪魔の手なんだ)
アゼルを不安にさせ、その不安に付け込んで契約を迫る。いかにも狡猾な悪魔の使いそうな手段ではないか。
その手に乗るか、と思う。
悪魔のそんな言葉を鵜呑みにするほどアゼルは子供ではないし、愚かでもなかった。
それよりも、問題は……。
(悪魔が僕の前に現れたってことだ)
憂鬱な気持ちと共に認める。
ゼルペンティーナが目の前に現れたということは、自分の心が負の方向に近づいていたということ。
いくら悪魔の誘いを退けたところで、喚んでしまったこと自体は否定できない。
自覚がなかっただけに、ショックだった。
(僕はそんなに追い込まれていたのか?自分でも気付かない内に)
ボロ布で顔を拭いながら自問する。
ゴシゴシと力を込めて拭っても眠気はなかなか晴れない。
(この修道院での扱いについては、もう諦めたつもりでいたけど)
それとも、もっと別のことが?
そう考えた時、頭に浮かんできたのはリタとマルクが二人並んで歩く姿だった。
(結局、それなのか)
諦めたつもりでも、結局まだ諦めきれていないのか。
リタの幸福を願うなら二人を祝福すべきだとわかっているはずなのに、未練を捨てきれないでいる。
その未練が悪魔を呼び寄せてしまったのだとしたら。
……自分の浅ましさを思い知らされた気分だった。
(きっとこういう所に悪魔がつけ込むんだな)
自虐すると、思ったより深い溜息が出た。
リタが念願を叶えようとしているこの大事な時に、幼馴染である自分が悪魔に憑かれかけてしまうとは、情けないにも程がある。
それは世界中の人々が待ち望んでいる宿願でもあるというのに。
(僕が足を引っ張ってどうするんだ。……しっかりしなくちゃ)
二度と悪魔の話なんかに耳を貸すまい、とアゼルは固く心に誓った。
顔を拭いながら小屋に戻った時、後ろから足音が聞こえた。
二人分の足音だ。
いつものようにリタとマルクが来てくれたのだろうと思ったアゼルは顔を拭いた布を畳み、衣服を整えながら振り返った。
そして、そこに立っている二人を見て――言葉を失う。
「何よ、起きてるじゃない」
そう言ってつまらなそうにアゼルを眺めているのは、ヴェロニカだったのだ。
後ろにはアンジェリカの姿もある。
「えっ。何で……いたっ!?」
驚きのあまり、ついそう呟いてしまったアゼルはヴェロニカに脛を蹴られてしまった。
「何で、じゃないわよ。あんたって礼儀も知らないの?」
「え」
「朝に人に会ったらまず何て言うわけ?」
「……お、お早うございます、ヴェロニカ様。それにアンジェリカ様」
「ええ、それでいいのよ。お早う、アゼル」
「おぁよう……」
満足げに頷いたヴェロニカが優雅に挨拶を返してくる。
それに比べ、アンジェリカはいかにも眠そうだった。
寝ぼけ眼で目を擦り、欠伸を噛み殺している。朝に弱いのだろう。
「いい朝ね」
「あ、はい……」
そんな相方には目もくれず、ヴェロニカはなぜか上機嫌だった。
「朝の散歩も意外と悪くないわね。ねぇ、アンジェリカ?」
「これっぽっちも同意できない……」
目をしばたたきながらアンジェリカが文句を言う。
アゼルは訳がわからなかった。本当にこれはいったい何事なのだ?
「あの、ヴェロニカ様。これは一体……」
「何よ、聞いてないの?」
「え?」
「リタが来れないから、代わりにパンを持ってきてあげたんじゃない。昨日あの子に頼まれたのよ」
「……あ」
アゼルは思わず声を上げた。そういえば昨日マルクがそんなことを言っていた。
だがまさか、代わりに来るのがこの二人だとは夢にも思っていなかった。
「てっきりシスターのどなたかがいらしてくださるものかと……」
「はぁ?そんなわけないじゃない」
ヴェロニカが呆れたように眉を吊り上げる。
「シスターの方々は明後日の準備でお忙しいのよ。そんな暇がある訳ないでしょ」
「……ですね」
言われてみればその通りだった。
この修道院においてシスターと呼ばれるのは、修道誓願を済ませた正式な修道女だけだ。見習いの立場である少女達と違い、シスター達は朝から晩まで祈りに後進の指導に諸々の作業に、と忙しなく動き回っている。
まして大事な儀式の前となれば尚更だろう。こんなお遣いを引き受ける暇などない。
「それで?あんたのためにこんな所までパンを持ってきてあげた私とアンジェリカに、あんたは何か言うことはないのかしら?」
肩をそびやかしてヴェロニカが言う。
アゼルは背筋を伸ばすと、挑戦的に彼を見据えるヴェロニカと、そして半分ばかり目を閉じているアンジェリカに向かって頭を下げた。
「僕のためにわざわざ足を運んで頂き、ありがとうございます。ヴェロニカ様、アンジェリカ様」
「ん、よろしい」
ヴェロニカは満足そうに頷いた。
「礼儀は大切よ。身分の上下に関係なく、誰かの世話になったら礼を以って応えるべきだわ」
「仰るとおりです。朝早くから本当にありがとうございます」
「いいのよ。さっきも言ったけど、朝の散歩も悪くないわ。気持ちが爽やかになるもの。これから習慣にしようかしら。ねぇアンジェリカ?」
「冗談じゃないよぉ……」
意外な寛容さを見せるヴェロニカと違い、相方は不満たらたらだった。
「うぅ。今朝はちょっとのんびりできると思ってたのに、いつもより早く起こされるなんてぇ……」
「あの、アンジェリカ様も本当に、僕のためにすみません」
「別にいいよぉ……。どっちかと言うと、私が文句を言いたいのはヴェラの方だし」
「なによアンジェ。文句あるの?」
「大ありだよ。朝っぱらから人のこと叩き起こしておいてぇ」
「昨夜のうちに話しておいたじゃない。なのに起きないあんたが悪いのよ」
「起きろって言われて起きれたら苦労しないよ……」
「普段からだらしないからよ」
相方に恨みがましい目で睨まれてもヴェロニカは意にも介さなかった。
アンジェリカはまだ不満そうに何やらブツブツと零している。
「それより、これ。あんたいつまで人に持たせておく気?」
「あ、すみません。気がつかなくて」
ヴェロニカが差し出してきたパン籠を受け取る。
「中を確認しなさい。後で難癖つけられても困るし」
「いえ、そんなことは……」
「いいから。大事なことよ」
ヴェロニカに促され、籠に掛かっている布を捲る。
「いつも通りね?」
「はい、いつも通りです」
「よろしい。確かにアゼルに渡したわよ」
「確かに受け取りました」
「面倒でもこういう確認はしっかりしないとね。特に今日はいつもと違うんだから、手順はきちんと踏んでおかないと間違いの元よ」
「はい。重ね重ねのご配慮、ありがとうございます」
「ふん。こんな仕事でも、任された以上はきっちりこなさないとね」
ヴェロニカはそう言うとぷいっと顔を背けてしまった。怒っているのではなく、照れているようだ。




