第19話 悪魔の誘惑
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「私なら……その願いを叶えてあげられる」
ゼルペンティーナの青い眼が、妖しく揺らめく。
或いは、それは錯覚だったかもしれない。
揺れているのはアゼル自身かもしれなかった。
「僕の……願いを?」
気付けばそう呟いている。理性が、揺れている。
「ええ、そうよ。私の力で貴方とリタを添い遂げさせてあげる」
「そんなことできるわけない……」
「悪魔の力を甘く見ないで。私にかかれば簡単なことだわ」
それはまさに甘言だった。ゼルペンティーナの言葉は文字通りの甘い香りと響きを伴った声となって、アゼルの耳と理性を蕩けさせるようだった。
自分の言葉が挙げる効果に存分に満足しながら悪魔は続けた。
「リタだって本当はそれを望んでいるのよ」
アゼルの肩がぴくり、と動く。
「ウソだ」
「本当よ。どうしてウソだなんて思うの?」
「リタは僕のことを友達としか思ってない。それぐらいわかってる」
「そんなことないわ。それにマルクは所詮、親同士が決めた婚約者じゃないの」
「それは……そうだけど」
不承不承、アゼルは頷いた。それは周知の事実だったからだ。
マルクの父親であるヘルブラント辺境伯が、自分の息子と聖女候補であるリタとの婚約を望んだ。
その理由は色々と憶測されたが、ヘルブラント家が教会中枢に接近することを狙っているという説がもっとも有力視されている。聖女候補は教会の高位神官となるのが慣例だからだ。
リタもそれがわかっていたからこそ、当初はマルクに気を許さなかった。
だが。
「ね?リタがマルクを選んだわけじゃないのよ。だったら……」
「違う。そうじゃない」
アゼルはかぶりを振った。
「リタはマルク様を受け入れている。ただの友人じゃなく、婚約者として」
最初の内こそぎくしゃくしていた二人だが、リタとマルクはいつの頃からか打ち解けていた。
というより、リタがマルクを毛嫌いすることをやめた、と言った方が正しい。
あの頃の二人をアゼルは昨日のことのように思い出す。心を開こうとしないリタに対して、マルクはその無作法を許し、根気強く接していた。ふてくされた子供をあやす、辛抱強い大人のように。
そんなマルクの忍耐と度量の広さがあって、リタもいつしかマルクに気を許すようになった。
今では肩書きだけの婚約者としてではなく、一人の人間としてマルクを受け入れている。
それは、ずっと傍で見てきたアゼルが一番よく知っていた。
しかしゼルペンティーナは納得しない。
「なら、あの子がマルクを愛しているというの?肩書きだけの婚約者としてではなく、本気で」
「それは……」
それには口籠もらざるを得なかった。それはアゼル自身も疑問に思っていたことだからだ。
リタがマルクに好意を抱いているのは確かだろう。
だがそれがはたして友人としてなのか、それとも恋愛感情を伴っているのかは、アゼルにも正直よくわからないのだ。
「リタはまだほんの子供だわ」
それを見透かしたようにゼルペンティーナが言った。
「だから恋愛というものをよくわかっていない。……いいえ、もしかしたら聖女候補だからかもしれないわね。あの子は恋愛感情というものに疎いのよ」
「どうしてそんなことがわかるんだ。お前はリタを見たことがないだろう」
「いいえ、あるわよ」
「え?」
「貴方の心を覗かせてもらったの。なにしろ私達の魂は繋がっているからね」
「なんだって……?」
思わずアゼルは呻いた。悪魔に心を覗き見されるなんて冗談ではない。
それに、こいつと魂が繋がっていると思い知らされたこともショックだった。
やはり自分が堕落しかけているというのは事実なのか……。
「リタは自分の想いを自覚していない。あの子が本当に好きなのはアゼル、貴方よ」
そんなアゼルをさらに追い込むように、蛇の姿をした悪魔は囁いてきた。
「マルクではないわ」
「そんなこと……」
「そんなことあるのよ、頑固なアゼル。……いいえ。臆病な、というべきかしらね」
ゼルペンティーナはクスクスと忍び笑いを漏らした。臆病なアゼルを嘲るように。
「要するに貴方、自分がマルクに勝っているという自信がないんでしょう?だからリタに選んでもらえる自信がないんだわ」
「……当たり前だろ」
吐き捨てるようにアゼルは言った。
どうしてそんな自信を抱けるというのか?
マルクは家柄も身分も申し分ない。立派な騎士となるために日々の努力を欠かさず、当然の如く才にも恵まれ、輝かしい未来を保証されている。
さらにその人柄までも素晴らしいということを、今日知った。
リタの結婚相手としてこれ以上に理想的な人物が存在するだろうか?
いや、いない。
(マルク様なら絶対にリタを幸せにしてくれる)
確信を持ってそう断言できる。
それに比べて自分はどうだ?自分自身のことすらままならないではないか。
リタを支えるどころか、幸せにするどころか、彼女に世話になりっぱなしだ。
子供だから、なんて関係ない。きっと大人になろうとそれは変わらない。
自分のような人間は、リタに相応しくない。
「僕にはリタを幸せになんてできない」
だからアゼルはそう言った。
しかし悪魔がすぐさま否定する。
「何を以って幸せとするのか、それは本人にしかわからないことだわ。貴方が勝手にそれを決めるのは不遜よ」
「そうかもしれない。でも、僕は必要最低限のことすらリタにしてあげられない。それは不幸だろう」
「わからない子ねぇだから、それを私が用意してあげると言っているのよ」
アゼルの弱気に付け込むようにゼルペンティーナが囁く。
「必要なのは富?地位?それとも名誉かしら?なんでも言いなさい。貴方がそれを望むなら、明日にでも貴方をリタに相応しい人間にしてあげることができるのよ」
「……っ」
その声は確固たる自信に満ち溢れていた。
そう、こんな姿をしていてもゼルペンティーナは悪魔なのだ。それぐらいのことは本当に朝飯前なのだろう。
だからアゼルは、少し迷った。本当に、わずかな間だけ。
しかしすぐに首を横に振った。
「断る。そんなことをしても意味がない」
「どうしてそう思うの?」
「お前に何を用意してもらっても、僕自身の力で手に入れたものじゃなければ意味がない。そんなものはまやかしだ。……そんなの、本当の僕じゃない」
「まやかしだっていいじゃない。それでリタを手に入れられるなら」
アゼルはカッとなって怒鳴った。
「手に入れたって、幸せにできなきゃ意味がない!」
それはアゼルの本心だった。
リタがいなければ自分はここにはいない。冗談抜きに、とっくに死んでいた。
幼馴染みである以上に、リタは恩人だ。
だからこそ幸せになってもらいたい。
偽りの自分がリタを幸せにできるとは、思えない。
「……」
怒鳴られたゼルペンティーナは、信じられないと言いたげにアゼルの顔をしげしげと眺めた。
「だから身を引くって言うの?マルクにリタを譲るというの?」
「譲るなんて言い方がおかしいんだ。そもそもリタは僕のものじゃない」
「……ふぅん?人間って、おかしな物の考え方をするのねぇ」
ゼルペンティーナは理解できないというように頭を振った。
「欲しいものがあるなら奪えばいいじゃない。そうやって手に入れたものが幸福になろうが不幸になろうが、そんなのはどうだっていいことだわ。だって欲しいものを手に入れた貴方自身は、それで幸せなんだから」
「悪魔と一緒にするな。人間はそんな考え方はしない。……少なくとも、僕はしない」
アゼルは相手を睨みつけた。そしてはっきりと告げた。
「リタが幸せになれないなら、僕はちっとも幸せじゃない」




